柚葉の中で、島田凛花というクラスメイトはお洒落が好きな華やかな女子というイメージだった。休み時間になれば、友達の髪を編み込んだり、新しく買った可愛い文具を見せ合いっこしたり。ピンクのランドセルも両サイドには赤色の刺繍入りで、細かい装飾にも拘って選んでいそうだった。

 だから、そんな凛花が図書室に入荷したばかりの本のことを、とても楽しそうに話しているのは意外だった。

「先月の当番の時にリクエストしておいたら、すぐに購入してもらえたんだよね。飯島さんは、リクエストカードって書いたことある? 読みたい本があったら、大抵取り寄せて貰えるからオススメだよー」

 借りて来たばかりの本が入ったサブバッグを大事そうに抱えている。フリル付きの布製バッグは母親の手作りで、幼稚園の頃から使い続けているのだという。

「最近は図書室って、全然行ってないかなぁ。帰ったらすぐに塾の宿題とか予習をしなきゃいけないし……」
「あ、そっか。中学受験するんだっけ?」
「うーん、まだ分かんない。うちはパパが反対してるから、受ける学校も決まってないし」

 そのことでこないだも親が喧嘩してたなぁと思い出し、気分が一気に落ち込む。またお腹がキリキリと痛みそうになったので、あえて違う話題を振ってみる。

「猫って、私でも抱っこできるかな?」

 昨日、スイミングスクールの建物の前で凛花に抱っこされてた三毛猫は、ものすごくおとなしくしていた。フワフワの猫毛は抱き心地がよさそうで、少し羨ましかったのだ。

「うん、ミケなら大丈夫だと思うよー。今度うちにおいでよ、明後日って塾? 用事ある?」
「ううん、特に何もない日だったと思う。猫って噛んだり引っかいたりしない?」
「ミケはおとなしいから平気平気!」

 「でも、念の為に爪切りはしておくね」と言う凛花に、「ええーっ」と柚葉はわざとらしい怯えた声を出してみせ、その後に二人でおかしそうに笑い合う。

 いつも一緒に行動している同じグループの子達とは、誰がどこを受けるらしいとか、こないだの模試の偏差値がどのくらいだったとか、最近はそういう話題が多かった。夏休み明けくらいからは、どこの中学の見学に行ったとか、赤本を何校分買ったとか、とにかく受験することが前提になっていて、柚葉はちっとも楽しいと思えなかった。

 だから、こんなどうでもいいことで同じ学校の子と笑い合うのは久しぶりだ。いつの間にか、受験抜きに話せるのはスイミングで一緒になる愛理くらいしかいないと思っていた。

 大通りを抜けた郵便局の角で、凛花と手を振り合って別れた後、柚葉は二日後のことを想像して一人でウキウキしていた。
 勿論、今日も家に着いたら塾の予習と漢字テストの勉強が待っているし、それが終わったら外が真っ暗になるまで過去問演習が待っている。でも、凛花からのお誘いは、そんな憂鬱なことを忘れさせてくれるくらい魅力的で楽しみだった。

 ――犬なら触ったことあるけど、猫は初めてかもしれない……。

 小学校に近い交差点で、下校時刻に合わせて見守りに出てくるお爺さんが、たまにポメラニアンを連れていた。その人懐っこい犬を撫でさせて貰うことはあった。でも人に慣れた猫は、猫カフェにでも行かない限り、そうそう触れる機会はない。

 二日後、詳しい家の場所を知らなかったこともあり、目印になる児童公園で待ち合わせてから、凛花に案内されて柚葉は島田家を訪れた。

「朝からお兄ちゃんに、鍵はちゃんと閉めるよう言っておいたから、大丈夫」

 せっかく遊びに来て貰っても、猫が外に出てたら話にならない。そう言って通されたリビングのソファーの上で、何度も見かけたことのある三毛猫は丸くなって寝ころんでいた。

「先にミケと遊んでていいよ。私、ジュースとお菓子取ってくるね」
「うん、ありがとう……」

 遊んでていいよ、と軽く言われても、これまでまともに猫と触れ合ったことがない柚葉は、ソファーにいる三毛猫にどうすればいいのか分からない。おそるおそる手を伸ばし、猫の背の白色の毛に指先だけで触れてみる。

「ぅわ……」

 ふんわりと柔らかな猫毛の感触に、思わず声が漏れる。親戚のおばさんが着ていた毛皮のコートを触った時を思い出したが、それよりほんのりと暖かいのは猫の体温だろうか。ゆっくりと背中を撫でてみると、よく手入れされた三色の毛はツヤツヤと滑らかな触り心地だった。

 何度も撫で続けていたら、猫が顔を上げて柚葉の方を見上げた。そして、そのピンクの鼻先で柚葉の手の匂いを嗅いでから、すっと顎先を擦り寄らせる。

「抱っこ、してみなよ」

 ジュースの入ったグラスとお菓子を乗せたトレイを持って戻ってきた凛花に促されるが、どう手を出していいか分からず柚葉は固まった。

「じゃあ、そこに座って。ミケを膝に乗せてあげるから」
「う、うん」

 ソファーの空いているところに腰掛けてみると、凛花が柚葉の膝の上に三毛猫を座らせてくれる。見た目よりも随分と軽くて、小さな脚の感触を太ももで感じる。そっと手を添えながら撫でてやると、ミケは柚葉の顔を真下から覗き込んでいた。

「可愛い……。すごくおとなしいね」
「でしょう?」

 飼い猫が褒められるのは嬉しいと、凛花も少し得意げだ。

 その後も猫の話題を中心に、二人がお菓子を摘まみながらの女子会をしていたら、玄関の鍵が開く音が聞こえてきた。

「あ、お兄ちゃんが帰ってきたみたい」

 凛花からは二歳上の兄がいるのは聞いていた。一緒の小学校に通っていた時期もあるみたいだが、柚葉が会うのは初めてだ。リビングを通り抜けて階段を上がっていく際、ペコっと首だけで軽く挨拶して行った凛花の兄。その制服は家の近所でもよく見かけることがある公立中のだ。

「お兄さんって、K中?」
「そうだよ。K中で陸上部のキャプテンやってる」
「じゃあ、島田さんもK中に行くの?」
「うん。制服はいまいちだけど、お兄ちゃんの話を聞いてると楽しそうだし、まぁいいかなって」

 出来ればセーラー服の方が良かったんだけどなぁ、と少し残念そうに言う。K中の制服は男女お揃いの紺色のブレザーだ。

「うちのお兄ちゃんでもキャプテンが勤まるってことは、かなり緩くて楽そうじゃない?」

 柚葉が返答に困っていると、私服に着替え終えた兄、海斗が階段を降りてくる。妹が発した悪口はしっかり聞こえていたらしい。「失礼な」と短く反論するが、まあまあ間違いでもないらしく、やや苦笑を浮かべていた。

「確かに自由だけど、この辺りの公立の中では部活にかなり力入ってる方なんだぞ」
「そうなんだ……」

 私立中のそれぞれの特色などは塾や親を通して散々聞かされてきた。進学実績や独自のカリキュラム、校風なんかは覚えきれないくらいに。

 でもこれまで、地元の公立中の話はろくに聞いたことがなかった。塾内で話題に上ることもない。せいぜい、荒れてるか荒れてないかだけのアバウトな情報だけで、何となく近所で見掛ける中学生がたくさん通っている学校という認識。

「飯島さん、中学受験するか迷ってるんだって」
「ふーん。公立でもどっちみち三年後に高校受験が待ってるけどな」

 今受けるか、三年後に受けるかの違いだと、海斗は他人事のように言ってのける。その言葉が、柚葉の心をすうっと軽くしてくれる。どのみち受験はいつか必ず経験しなきゃいけない。それは絶対に今じゃなくて、別に数年後でもいいんだと。

 ――私は今は、もう無理かな。

 知っていたようでいて、見えていなかった選択肢。受験をしないという道は、周りの一部の大人達によって隠され、ぼかされていたのかもしれない。それがはっきりと見えるようになった今、自分でちゃんと決められる。

「決めた。私もK中に行く」

 「え?!」っと驚いた顔の凛花に、柚葉は吹っ切れた表情でほほ笑んで見せる。キッチンカウンターの中でグラスに入れた麦茶を立ったまま飲んでいた海斗は、思わず口からお茶を吹き出しそうになっていた。自分の言った言葉が原因で妹の友達が進路を変えたとなると重大だ。キッチンの中でアタフタ焦っていた。

「塾のことを考えるだけでお腹が痛くなるのは、今はまだ無理ってことだから」

 受験を中断するという選択。それは決して負けなんかじゃない。ただの延期で、三年後に仕切り直すだけだ。向いてないなら、先延ばしにしてしまえばいい。

「うん、一緒にK中に行こう!」

 柚葉の晴れやかな顔に、凛花は嬉しそうに笑って言った。三毛猫はソファーの上で静かに目を瞑っている。