「おはよう、柚葉ちゃん」
「おはよう」

 たった二日休んだくらいでは、どうってことない。少しばかり緊張しながら教室に入った柚葉は、いつも通りのクラスの雰囲気にホッと胸を撫で下ろす。
 こないだは保健室へ駆け込んだ後、すぐに帰ってしまったけれど、そんな些細なことを気にする小学生はいない。みんな自分のことで精一杯なんだから。

「柚ちゃん、今日の塾は来る?」
「うん」
「一昨日の国語、漢字テスト無かったから、今日は二回分するって言ってたよ」
「え、ええーっ?!」

 同じ塾に通う宮村美月が、柚葉の席に寄ってきて教えてくれる。毎回授業の前に行われる漢字の小テストを受けなくて済んでラッキーと思っていたが、そう甘くなかった。一回に十問のテストだから、今日は二十問分を必死で覚えていかないといけない――基準点が取れなければ、授業後に再テストが待っている。

 塾の話題のせいか、落ち着いたと思ってたお腹が、またチクりと痛んだ気がした。

「飯島さん、ちょっといいかな?」

 そういって担任教師に呼び出されたのは、終わりの会の後。校舎の隅っこにある小部屋で、柚葉は安っぽい合皮の二人掛けソファーに座らされていた。壁いっぱいに本やファイルが並んでいるのを、物珍しさからキョロキョロと見回す。

 週に何回かやってくるスクールカウンセラーが、生徒や保護者の話を聞く時に使われているという相談室。入口の戸が開いている時に中を覗いたことはあっても、これまで一度も入ったことが無かった。多分、大半の生徒がここへは一度も入ることなく卒業していくのだろう。

 換気の為に少しだけ開いている窓から、下校していく生徒達の声が微かに聞こえてくる。校門から離れているせいで、そこまで煩いとは思わない。

「あれから体調はどうだった? 今日は先生が見た感じでは、元気そうだなと思ったんだけど……」

 向かいに腰掛けた担任が、遠慮がちに聞いてくる。高学年にもなると、男性教師が女子児童の扱いに戸惑っているのは柚葉達が見てても分かる。一学期のクラス懇談会でも「女子へはどう接して良いか迷うことが多くて……」と保護者を前に困惑していたらしい。今も廊下側の戸が開けっ放しになっているのは、まぁそういうことなんだろう。

「もう平気です」
「……そっか」

 柚葉の素っ気ない態度に、あまり濃くない顎髭を人差し指でぽりぽりと掻いている。何でも素直に話してくれる従順な低学年とは勝手が違う。かなりやり辛そうだ。

「昼休みに、お母さんとも電話で少し話しさせてもらったんだけどね。一度、お家でも話し合ってみたらどうかな、と思って。ほら、受験のこととか……」

 中学受験をするかどうか、それは彼の立場からは口を挟むことはできない。そのまま公立中に行くことも、私立を受験することも、どちらかを強く勧めることはない。それぞれの家庭に事情があるし、教育に対する親の考え方も違うからだ。
 勿論、受験すると決めた家庭へは必要な書類を用意したりという協力はするし、場合によっては受験校選択の相談に乗ることはある。

 ただ、目に前に座っている女児のケースは別だ。明らかに身体の不調が出始めている状態で、放っておく訳にもいかない。最近の子は大人びているとは言っても、まだたった12歳の子供なのだ。周りの支えがなければ、脆く壊れやすい部分が多い。

「もし、自分から言いにくいことがあれば、先生からお母さんに伝えることもできるし、何かあれば――」

 分かりましたとばかりに黙って頷く柚葉に、掛けかけた言葉を途中で諦める。この歳の子は思っている以上にいろんなことを考えている。形式だけの面談ではとりあえずの反応しか返ってはこない。あまりに間が持たず、欠席していた時のプリントを渡して、簡単にその説明することで誤魔化した。

 相談室からようやく解放されて戻ってきた柚葉は、もう誰もいないと思っていた教室に見慣れたツインテールを見つけて少し驚く。窓際の後ろから二番目の席で、島田凛花がピンクのランドセルに荷物を詰め込んでいるところだった。

「今日は図書室の当番だったから、私、図書委員だし。飯島さんは?」
「先生からの呼び出し。わざわざ相談室に連れてかれて。でも別に大したことは言われなかったけど」

 教室後ろのロッカーからランドセルを取り出して、机の中の物を順番に放り込んでいく。一応持って来ていた塾のテキストは、今日は一度も学校で開くことがなかった。

「そっか、お疲れさまだね」

 ほぼ同じタイミングで帰り支度ができると、何となく二人並んで教室を出る。なぜか今週は凛花と縁があるみたいだ。お互い、いつも一緒に帰っている友達はとっくに下校していた。

「そういえば、あの猫って、いつから飼ってるの? ものすごくよく見かけるよ」
「多分、五年くらいかな。親戚の家で生まれたのを貰ってきたの。ミケ、脱走癖があるんだよね。今度また見かけたら、教えて」

 わざわざ迎えに行かなくても、ちゃんと帰ってくるんだけどね、と笑って話す凛花のツインテールがピョコピョコと跳ねる。それがちょっと猫の尻尾みたいだと、柚葉は心の中で思った。

「飯島さん、猫好きなの?」
「んー、どうなんだろ? 飼ったことないし、触ったこともないかも」
「じゃあさ、今度、家に遊びにおいでよ。ミケだったら触らせてくれると思うよ」