一瞬すれ違っただけの猫は、この前見た時と同じように長い尻尾をピンと伸ばして、幅の狭いブロック塀の上を軽々と歩いていた。少し曇りがちだが心地よい風もあるから、絶好の散歩日和なんだろうか。柚葉の目からは、猫がご機嫌でスキップしている風に見えた。

 自宅前の駐車場に着くと、運転席の母親が小さく溜息を付いたのに気付く。受験前に体調を崩してしまったことを嘆いているのか、それとも塾を欠席して遅れが出ることを焦っているのか。

「ママ……ごめんなさい」

 どういう心境からの溜め息かは分からないが、とにかく自分のせいなのは分かった。マシになったと思っていたお腹が、またキリキリと痛み始める。再びお腹を手で押さえ始めた娘の様子に、母親は困ったように眉を寄せてから言ってくる。

「いいから。部屋に行って、寝てなさい」
「……うん」

 それ以上は何も言わず、黙って車から降りる。給食は食べずに帰って来たけど、全然お腹は空いていない。今はとにかく静かに横になっていたい。

 お腹を庇うようにベッドで丸くなって眠っていた柚葉は、一階のリビングから聞こえてきた両親の言い合いする声で目が覚めた。いつの間にか閉じられていたカーテンの隙間からも光は無く、とっくに夜になっているのが分かった。

 ――パパ、もう帰ってきてるんだ。

「まだ小学生なんだぞ! 無理させる必要はどこにもないだろう?!」
「だって、周りの子達もみんな――」
「だから、その周りの子って誰だよ? なんで身体を壊してまでして、その子達と合わせなきゃいけないんだよ?!」

 「そういうのを教育虐待って言うんだよ」という父親の言葉に、わっと泣き崩れる母親。柚葉は二階の廊下から二人の声を聞いていたが、足音を立てないようそっと自分の部屋へと引き返した。
 そして、部屋の電気は点けずに卓上ライトだけを点けて、塾のテキストを机の上に開く。カリキュラム通りに進んでいれば、今日は国語も算数も総まとめ問題が終わっているはずだ。来週からは過去問演習が始まる予定で、志望校決めも終盤に迫っている。

 親から言われるがまま、模試で出た偏差値に合わせた中学を受験するのが当たり前だと思っていた。決して難関校志望ではないから、別枠の特別講座を受けたりもしていないし、そこまで頑張っているつもりもなかった。柚葉自身も別に無理はしていないつもりだった。ただ何となく、受験すればママが安心するから。それだけの理由で模試やテストをこなしてきた。

 母親の言う通りに、柚葉の周りは受験する予定の子が確かに多かった。同じクラスでいつも一緒にいるグループの子達は親同士も繋がっているせいか、みんな一緒の塾に通っていた。だから、母親が「周りの子達みんな」と主張していたことは間違いじゃない。
 でも、クラスや学年全体で考えてみると、実際のところは半分までもいない。塾に通っていても受験しない子もいるし、受験してもダメ元の記念受験だったりするから、「みんな」とは一概には言えそうもない。

 でも、その「みんな」から柚葉が浮いてしまうことを母親が極端に嫌がっているのだけは知っている。だから黙って従ってあげるしかない。

 再び痛み始めたお腹を左手で押さえながら、テキストに書かれた問題を解き進めていく。自分がどうしたいかは分からないが、親がどうして欲しがっているかだけは分かる。ただ、それが本当に正しいのかは分からない。

 その翌日も、その次の日も、柚葉はお腹の痛みを理由に学校を欠席した。朝起きるとあの痛みが襲ってきて、それは昼前まで続くのだ。そして、昼を少し過ぎた頃にはようやく治まるのだけれど、夕方の塾の時間が近付いてくるとまた痛み出してしまう。

 けれど不思議なことに、塾の日は痛むお腹はスイミングの日には平気だった。学校を休んだという後ろめたさはあったものの、週に一度だけしか会えない愛理がいるからと、柚葉は自転車の前カゴにスイムバッグを放り込んだ。
 心配そうに見送る母親に、後ろ手を振って「いってきます」と告げて、勢いよくペダルを漕ぎ始める。「体調が悪くなったら、コーチに言うのよ」という声が背後で聞こえた気がするが、振り返らなかった。

 親の心配をよそに、その日は柚葉のバタフライのタイムが少しだけ短くなった。四泳法の中では一番苦手な泳ぎ方だっただけに、プールから上がった後はとてもやり切った気分だった。
 愛理と並んでスイミングスクールの入口ドアを通り抜けた時、ちょうど前の歩道を歩いていた女子に声を掛けられる。

「あれ、飯島さん? もう元気になったの?」

 位置の高いツインテールは同じクラスの島田凛花だ。クラスメイトだから当然、柚葉が二日連続で学校を休んだことを知っている。「あ、うん……」と気まずくなって口ごもりながら頷いた柚葉だったが、凛花が大事そうに抱えている物に気付いて目を丸くした。

「え、その猫――」
「うちで飼ってる猫だよ。ミケっていうの」

 たまに見かけることがあった三毛猫は、嫌がる素振りも見せず、大人しく凛花に抱かれている。

「自分で窓を開けて、勝手にすぐ外に出ちゃうんだよね。お兄ちゃんがいつも鍵開けっ放しにするから……。さっき公園で見つけて、捕獲してきたの」
「その子、先週もこの辺にいたよ。島田さん家の猫だったんだ」

 そういえば先週もスイミングが終わった後に見かけたことを思い出す。猫にとって今は散歩の時間なんだろうか。

「明日は学校来る? みんな心配してるよー」
「うん、多分……」

 じゃあね、と猫を抱え直してから、凛花はツインテールを揺らしながら去って行く。猫の長い尻尾も凛花の背中越しにチラチラと揺れて見える。
 まさかクラスメイトの飼い猫だったとは思ってもみなかった。