腰をかがめ、腕を伸ばして、時計店の店長は毛むくじゃらの丸い頭を優しく撫でている。三毛猫もゴロゴロと喉を鳴らしているところを見ると、喜んでいるようだ。
「車には気をつけろよ、何かあったら海斗達が悲しむぞ」
「ナァー」
「ったく、こんな遠いとこまで来て……」と小言を口にしている割に、猫を相手に嬉しそうな顔をしている。見た目からは想像できなかったが、かなりの猫好きなのかもしれない。
「……あの」
何となくお邪魔な雰囲気が漂ってはいたが、完全に知らない相手でもないので挨拶しない訳にもいかない。花梨は勇気を出して控え目に声を掛けてみる。最初は怪訝な表情を見せた湯崎だったが、途中で思い出したように頷いた。
「ああ、君は確か――」
「ルーチェの店員です。店長さんとは、以前に会合でお会いしたことがあります」
ルーチェというのは事務所の一階にある店の名前だ。花梨はECに携わっていることも多いが、時間があれば店舗に立つこともある。オーナーの代わりに商店街の集まりにも出たことがあり、目の前の湯崎と話すのはこれが二度目だ。前回も確か、少し挨拶したくらいだったが。
「ああ、ルーチェ――瑠美ちゃんとこの子かぁ。なんか見たことあるなぁとは思った。ここで休憩を?」
「はい。天気がよければ、大抵は」
「俺もたまに来るけど、いいよね、特に今の季節は。春は花見客が多くて来られたもんじゃないけど」
花梨と話している間も、湯崎は三毛猫を構い続けている。ごろんと横に寝ころんだ猫は、お腹周りを撫でられて気持ちがよさそうだ。
オーナーのことを瑠美ちゃんと下の名前で呼ぶのは、商店街の関係者にはとても多い。今は韓流ファッションのセレクトショップへとリニューアルしているが、元々は祖父母の代からの古き良き洋品店で、商店街との付き合いは長いと聞いている。湯崎の店も商店街が出来たばかりの頃からあるらしく、彼の父親は商店街のまとめ役だ。
「この猫のこと、ご存じなんですか? さっき、ミケって」
「そ、家のお隣さんの子。結構、距離あると思うんだけどなぁ。猫の行動範囲も意外と広いね」
「毛が付くから仕事中は抱っこできないんだよね」とひたすら撫でまくっている男の為に、花梨はベンチの隣に置いていた鞄を自分の膝の上に移動させる。空いたスペースへ礼を言ってから腰掛けると、湯崎は足を組みながら花梨の顔を首を傾げて覗き込んだ。
「で、何? さっき大きな溜め息付いてたけど、なんか悩んでんの? おじさんが聞いたげようか?」
恋愛絡みだとちょっと無理かもしれないけど、仕事のことならね。と付け加え、冗談っぽくおどけてみせる。自分でおじさんと言っているが、湯崎はまだ三十代なはずだ。でないと、そのK-POPアイドルみたいな髪型はちょっとイタい。
「いえ、別に――最近ちょっと、ややこしいお客様に当たって、仕事の楽しさが分からなくなってきたっていうか……あ、ショップの方じゃなくて、私、ネットショップの担当なので、そっちの方で」
「ああ、ネットかぁ。うちも時計を出してるけど、ちょっと勝手が違うよね」
花梨の言葉に、納得したように頷いている。時計の場合は単価が大きいから、余計に神経を使うのかもしれない。
「接客に時間が掛からないのは楽なんだけど、ネットは良い客ほど何も言ってこないからね。いろいろ言ってくるのは、ややこしいのが大半だし」
「そうなんです。売れても売った実感はなくて、事務的な感じで。何か問い合わせが来たと思ったら、返品か、意味の分かんない質問かで」
韓国での直仕入をウリにしているから、「現地だと、どの辺りで購入できますか?」という問い合わせが意外と多かったりする。同業者なのか、安く購入したい旅行者なのかは分からないが。
花梨のように接客が好きなタイプには、ECサイトでやり甲斐を見つけるのは難しい。大半のやり取りは定型メッセージで済んでしまうし、流れ作業のような販売になってしまうからだ。どうしても数が重なるとつい事務的になる。
「まぁ、でもさ。実店舗みたいに直接お礼を言われることは少ないけど、事務的な作業の向こうにも客はいるんだよね」
忘れがちだけどね、と笑いながら、湯崎は片手で猫のお腹を撫で続けている。彼の横で、身体を丸めている三毛猫は目を瞑って眠っているようだった。
「あ、そう言えば、瑠美ちゃんが『うちはスタッフミスのクレームが一度もない』って自慢してたな。うちの従業員には保証書の記入忘れとか、パーツの入れ忘れとか、いろいろやらかされてるって愚痴った時にね」
そっか、君が担当なのか、と感心している。もし再発送があれば、その送料分は完全な損失となる。丁寧で正確な作業力がECサイト管理者には必須スキルだ。その辺りは特に気を付けるようにしていたから、オーナーがちゃんと評価してくれていると聞いて嬉しくなる。
「ほら、代わりにそういうのをやり甲斐にしたらいいんじゃないかなぁ。まあ、よく分かんないけど」
自信ありげに悩みを聞くと言っていた割に、最後はいい加減なことを言って笑っている。終始、軽い口調だったが、花梨の落ち込んだ気分は随分と軽くなっていた。愚痴を共感して貰うことも、改めて言葉として吐き出すことも、どちらも今の花梨には必要だったみたいだ。
「車には気をつけろよ、何かあったら海斗達が悲しむぞ」
「ナァー」
「ったく、こんな遠いとこまで来て……」と小言を口にしている割に、猫を相手に嬉しそうな顔をしている。見た目からは想像できなかったが、かなりの猫好きなのかもしれない。
「……あの」
何となくお邪魔な雰囲気が漂ってはいたが、完全に知らない相手でもないので挨拶しない訳にもいかない。花梨は勇気を出して控え目に声を掛けてみる。最初は怪訝な表情を見せた湯崎だったが、途中で思い出したように頷いた。
「ああ、君は確か――」
「ルーチェの店員です。店長さんとは、以前に会合でお会いしたことがあります」
ルーチェというのは事務所の一階にある店の名前だ。花梨はECに携わっていることも多いが、時間があれば店舗に立つこともある。オーナーの代わりに商店街の集まりにも出たことがあり、目の前の湯崎と話すのはこれが二度目だ。前回も確か、少し挨拶したくらいだったが。
「ああ、ルーチェ――瑠美ちゃんとこの子かぁ。なんか見たことあるなぁとは思った。ここで休憩を?」
「はい。天気がよければ、大抵は」
「俺もたまに来るけど、いいよね、特に今の季節は。春は花見客が多くて来られたもんじゃないけど」
花梨と話している間も、湯崎は三毛猫を構い続けている。ごろんと横に寝ころんだ猫は、お腹周りを撫でられて気持ちがよさそうだ。
オーナーのことを瑠美ちゃんと下の名前で呼ぶのは、商店街の関係者にはとても多い。今は韓流ファッションのセレクトショップへとリニューアルしているが、元々は祖父母の代からの古き良き洋品店で、商店街との付き合いは長いと聞いている。湯崎の店も商店街が出来たばかりの頃からあるらしく、彼の父親は商店街のまとめ役だ。
「この猫のこと、ご存じなんですか? さっき、ミケって」
「そ、家のお隣さんの子。結構、距離あると思うんだけどなぁ。猫の行動範囲も意外と広いね」
「毛が付くから仕事中は抱っこできないんだよね」とひたすら撫でまくっている男の為に、花梨はベンチの隣に置いていた鞄を自分の膝の上に移動させる。空いたスペースへ礼を言ってから腰掛けると、湯崎は足を組みながら花梨の顔を首を傾げて覗き込んだ。
「で、何? さっき大きな溜め息付いてたけど、なんか悩んでんの? おじさんが聞いたげようか?」
恋愛絡みだとちょっと無理かもしれないけど、仕事のことならね。と付け加え、冗談っぽくおどけてみせる。自分でおじさんと言っているが、湯崎はまだ三十代なはずだ。でないと、そのK-POPアイドルみたいな髪型はちょっとイタい。
「いえ、別に――最近ちょっと、ややこしいお客様に当たって、仕事の楽しさが分からなくなってきたっていうか……あ、ショップの方じゃなくて、私、ネットショップの担当なので、そっちの方で」
「ああ、ネットかぁ。うちも時計を出してるけど、ちょっと勝手が違うよね」
花梨の言葉に、納得したように頷いている。時計の場合は単価が大きいから、余計に神経を使うのかもしれない。
「接客に時間が掛からないのは楽なんだけど、ネットは良い客ほど何も言ってこないからね。いろいろ言ってくるのは、ややこしいのが大半だし」
「そうなんです。売れても売った実感はなくて、事務的な感じで。何か問い合わせが来たと思ったら、返品か、意味の分かんない質問かで」
韓国での直仕入をウリにしているから、「現地だと、どの辺りで購入できますか?」という問い合わせが意外と多かったりする。同業者なのか、安く購入したい旅行者なのかは分からないが。
花梨のように接客が好きなタイプには、ECサイトでやり甲斐を見つけるのは難しい。大半のやり取りは定型メッセージで済んでしまうし、流れ作業のような販売になってしまうからだ。どうしても数が重なるとつい事務的になる。
「まぁ、でもさ。実店舗みたいに直接お礼を言われることは少ないけど、事務的な作業の向こうにも客はいるんだよね」
忘れがちだけどね、と笑いながら、湯崎は片手で猫のお腹を撫で続けている。彼の横で、身体を丸めている三毛猫は目を瞑って眠っているようだった。
「あ、そう言えば、瑠美ちゃんが『うちはスタッフミスのクレームが一度もない』って自慢してたな。うちの従業員には保証書の記入忘れとか、パーツの入れ忘れとか、いろいろやらかされてるって愚痴った時にね」
そっか、君が担当なのか、と感心している。もし再発送があれば、その送料分は完全な損失となる。丁寧で正確な作業力がECサイト管理者には必須スキルだ。その辺りは特に気を付けるようにしていたから、オーナーがちゃんと評価してくれていると聞いて嬉しくなる。
「ほら、代わりにそういうのをやり甲斐にしたらいいんじゃないかなぁ。まあ、よく分かんないけど」
自信ありげに悩みを聞くと言っていた割に、最後はいい加減なことを言って笑っている。終始、軽い口調だったが、花梨の落ち込んだ気分は随分と軽くなっていた。愚痴を共感して貰うことも、改めて言葉として吐き出すことも、どちらも今の花梨には必要だったみたいだ。