「な、きったねえだろ」
初夏。五月からすでに暑い日本は、もう気象が狂っていると言うしかない。春はどこに行ったんだよ。
プールサイドに苔の生えた水たまり。濁ったプールの水。明らかに体に悪そうな濁り方をしている。
デッキブラシに顎を乗せて、同じくデッキブラシを持っている目黒に視線だけを向ける。
「臭いです」
あからさまに顔を歪める目黒に、俺も同じような顔しながら頷く。
「おう」
「これ水抜くところから始まるんですよね」
「そうだよ、その間にプールサイド掃除する。汚ねえし落ち葉とかたまに死骸とか落ちてるから気つけろよ」
「なんの死骸が落ちてるんですか」
ギョッとしたような顔の目黒に、俺は肩をすくめた。
「さあ、俺は去年は見なかったな。先生がちょっと前に猫の死骸見つかったとかでお前も気をつけとけよって言われたんだよ」
「ああ、そう言うこと……」
ほっとしたような顔の目黒から視線をプールに移す。
「んじゃ、始めるか。俺水抜いてくるわ。お前プールサイドに水撒いてデッキブラシで擦っていって」
「はーい」
目黒は嫌な顔一つせず、俺の言うことを聞いて動き始める。
色違いの体操服。俺は軽くパーカーを羽織って、目黒は半袖半ズボンの体操服でいる。
俺はプールサイドのぬめりを飛び越えながら、排水口のバルブがある方へ歩く。目黒は俺の言った通り水を撒いてデッキブラシで磨き始めた。
その姿を見て、俺は思った。
(多分、俺と一緒に何かやりたいんだろうなあ)
それくらいは察せる。こんなクソ暑い中、汗をかいて、臭うし、腐った水の相手なんか誰もしたくないだろう。いいことなんか一つもない。単位を稼ぐだけの、放課後の、体のいい雑用だ。
でも学年も違う、会えるのは寮にいる数時間だけ。一緒に朝食、夕食が食べれると言っても、一緒にいる時間は限られている。一緒に眠っている時もあるけれど、別に毎日でもないし、暑くなってからはあいつは遠慮するようになってきた。俺から「一緒に寝るか?」と誘った時は、一分くらい固まっていた。固まりすぎだろ。俺が恥ずかしくなって「やっぱり」と撤回しようとした頃に、あいつは笑顔で頷いたのだ。首を傾げて、嬉しそうに笑うあいつを見て、俺はどう表現すればいいかわからない気持ちになった。頭を抱えて、気が済むまでわしゃわしゃと撫で回して、頬にキスしてやりたくなった。だからあいつが眠った後、俺は寝たふりをやめて、目黒の頬にキスをした。これは恋なのだろうか、わからない。俺は初恋もまだなんだと言えば、こいつはどうするんだろう。夜の闇の中、そう思った。
プールの排水バルブを回して、水が抜けていく様を見守る。時間がかかるから、俺はデッキブラシを持って、目黒の方へ行った。
「暑いだろ」
「暑いけど楽しいです」
「何が楽しいんだよ」
笑った俺に、目黒が振り返った。
愛おしそうに、瞳に温かいものが滲む。
「あんたとなんかするの、初めてだから」
「……そうだな」
どうやら俺の勝手な想像は当たっていたらしい。顔が少し赤くなるのがわかって、俺は何気ない仕草で、汗を拭うように、顔を腕で隠した。
目黒はどうやら俺が照れていることになんか気づいていないみたいだった。またプールサイドの掃除に戻る。俺も同じように、デッキブラシで床を擦った。
「はー、ようやく抜けたな」
プールサイドの掃除を終えた頃、プールの水は全て抜けていた。俺はもうすでに帰りたかったが、単位のため、ともう一度気合を入れ直す。
目黒の方を見てみれば、さすがに疲れたような顔をしていた。
「ちょっと休憩しません?」
「賛成」
俺たちは適当にデッキブラシをもたれ掛からせると、日陰のベンチに座る。
「っあ゛ー!」
おっさんが酒飲んだ時みたいな声を上げて、俺はベンチに座る。目黒はふとポケットから何かを取りだした。俺が視線を向ければ、口で髪ゴムを咥えて後ろ髪を纏めていた。
汗に濡れた首筋と、醸し出される高校生とは思えない色気、元来の容姿の美しさが相まって、とんでもない優美さと色気がある。
こんな美人と付き合ってんのか。そして、俺はこいつに恋心らしきものを持っている。そして相手は俺にベタ惚れ。
俺は今度こそ顔が真っ赤になって、視線をそっとずらした。
「望さん」
「ん?」
なんでもない風に返事をした。
「俺、かっこいい?」
「は?!」
勢いよく振り返った先には、膝に肘を着いて、こちらを覗き込む目黒がいた。俺はまたいつの日かのように、仰け反る。うるわしの美貌が近付いてくる。
「な、な」
「かっこいい?」
「あ、え」
「かっこいい?」
「……おう」
あまりにも自信満々に言うものだから、俺は言い訳も忘れて頷いていた。
俺の返事に、目黒は満足したように頷く。
俺は恥ずかしさとか気まずさで目を泳がせた。普通に、年下の男にこんな質問されて、さらに頷くなんて体験した事がなかった。それも本心から頷くなんて、この上ない仕打ちである。
「良かった、先輩の好みの顔に俺も入れてもらえてそうですね」
「自信、満々だな」
誤魔化すように俯けば、目黒はなんでもない風で言った。
「俺の長所なんか顔くらいですからね、気に入ってもらえて良かった」
沸騰していた頭が、一気に冷えるような気がした。
「ちょっと待てよ」
「あ、勉強も教えてあげられる。便利でしょ?」
「違う、そうじゃない」
俺は焦燥をおぼえた。
こいつは自分をなんだと思っているんだろう。俺は愕然とした。まさか、俺がこいつの容姿や勉強の才能だけを好きになって付き合ってると思われているのだろうか。それなら心外極まりないことだった。
俺は目黒の肩に手を伸ばして、真剣に言い聞かせる。
「待て、目黒」
「はい」
「俺はお前が、顔がいいからとか、勉強教えて貰えて便利だから付き合ってるとかじゃないぞ」
「? じゃあそれ以外何があるんですか?」
びっくりしたような顔をする目黒に、俺がその顔をしたいよと思った。
「なあ、言いたいことは沢山あるから、一つ目から言うけど、俺はお前が好きだよ」
「……はい」
期待と諦観が混ざった瞳に、俺は苦しくなった。
「二つ目、お前が便利だから付き合ってるとかはない。それはお前は自分の自己評価が低すぎるし、俺にも失礼」
「はい」
目黒は目に見えて肩を落とした。それを目の当たりにして俺は困惑の中口をひらく。
「お前、もしかしてずっとそう思って生きてきたのか?」
「みんな俺が頭悪くなくて、顔が綺麗だから近づいてくるんですよ。本当の俺なんかに興味ない」
俺は何も言えなくなった。なぜなら俺も、最初、こいつと同室になった時、面倒なことになったと思ったからだ。顔が綺麗で、品行方正で、人気者。さらに頭もいい。俺は、その中身を見ようとしなかった。廊下を歩いているだけで女子に群がられている姿は何度か目にしたことがあった。俺は手を振りかけて、辞めたことを思い出す。あいつと同室になったからと、手紙を渡して欲しいとか、部屋での様子とか、山ほど聞かれたことも。
「俺は、最初お前のこと、面倒なことになったって、思ったよ。部屋に来た時」
「はい」
平然と頷く目黒に、その灰色になった心に届けばいいなと思いながら言葉にする。
「でも今は、お前と出会えて良かったよ。お前の恋人になって、嫌だったことなんか一つもない。そりゃ初めて抱きしめられた時は、驚いたし、告白された時なんかもっと驚いた。でも、今は俺、あの時お前に付き合うか? って言って良かったなって思う。俺の初恋をお前にあげたいなって思った。お前は俺に沢山の愛情をくれる。自分だって課題したり、やりたいことあったり、休みたい時だってあると思うのに、俺が勉強で行き詰まってたりしたらすぐ手伝ってくれるし、一緒に何かしたいって、掃除手伝ってくれたりするんだぞ? こんなクソ暑い中。そりゃ可愛いやつだなって思っちゃうよ。それに、好きでもないやつと一緒に寝たりしない」
「俺が勝手にしてることだよ、俺のわがままを望さんが叶えてくれてるだけ」
「俺は本当に嫌なら断る。それくらいの力はあるよ」
俺はそのまま、肩に置いていた手を引いて、目黒を抱きしめた。
少しすれば、背中に手が回ってくる。
「俺、期待してもいいの?」
震えた声が俺の耳朶を震わせる。薄いガラス、すぐに割れてしまいそうな希望。
「大いにしとけ。俺はお前の頭を沢山撫でて、抱きしめて、ほっぺたにキスしたいって思うよ」
「そうして」
「うん」
俺は目黒から体を離すと、頭を何度も撫でた。汗を含んだ髪、手にシャンプーの香りがつくんじゃないかと思うくらい。そしてもう一度ぎゅっと抱きしめる。背骨の形がわかるくらい。そして最後に、ほっぺたにキスをした。
そして俺は笑う。俺の膝にポタポタと雫が落ちた。
「泣くなよ」
「しあわせだなって」
「いつだってしてやるよ」
「まいにちやって」
俺は笑った。釣られたように、目黒も微笑む。やっぱり、こいつは笑っている方がいいと思った。あと、もう少し我儘だったら、もっと可愛いのになとも思った。
「よし、この果てしなく汚ねえブール、洗っていくぞ」
「はい」
自販機で買ったスポーツドリンクをどかどか飲んだ後、俺たちはまたデッキブラシを握った。気合を入れ直し、最初にデッキブラシをプールの中に放り込んで、プールサイドの階段を下った。
「気をつけろよ、ヌメヌメだぞ」
俺がそっと床に降り立つと、ついで目黒が階段を降りる。
片足が床に着く。もう一足。
そして、するりと、まるで測ったかのようにこいつは床に滑った。
「……」
「……」
沈黙が漂う。
それを破るように、俺の堪えきれない笑い声が響いた。
「おま、お前な……!!」
俺の止まらない笑い声に、目黒は極めて不機嫌な顔になると、よろよろと立ちあがろうとしてまた滑る。
「だ、大丈夫か」
歩くのを覚えたばかりの赤ちゃんみたいな後輩に、俺は半笑いで手を差し出せば、それは引っ張られた。
「うおっ」
俺は尻餅をついた。振り返れば、イタズラな笑みを浮かべた目黒がいた。こんな顔は初めて見た。怒りがするすると萎んでいく。まったく、可愛いイタズラだななんて、そんな風に思ってしまうのだ。目黒朝日、恐ろしいやつである。
「いってぇ、お前なあ!」
口ぶりだけ強くすれば、目黒はすっとぼけた顔をする。
「ふ、おそろいでしょ?」
「なんも良くねえおそろいやめろ!」
俺は何度も滑りながら立ち上がると、あ、と思い出す。
「あ、薬忘れたわ、ぬめり取りと殺菌するためのやつ」
「そんなのあるんですか」
「おう、流石にこれは水だけじゃ綺麗にならないよ。皮膚への害はないから、足の心配はしないでいいぞ。水で薄めて使うから」
「あ、はい」
ヨタヨタと階段をまた登って、管理室に入る。すぐそこの湿った空気の管理室に入れば、すぐそこの棚に薬の入った筒があった。それを手に取って、またブールサイドに戻る。
「目黒!」
そう声をかけて、ヨタヨタ近づいてきた目黒に手渡す。
「これ適当に撒いて」
「はい」
スケートリンクを滑るみたいにするする動く目黒が大体薬を撒いた後に、俺はホースを手に持った。
栓を緩めて水を出す。先っちょを手にして、水を撒こうとした時だった。
水が勢いよく噴き出す、薬の筒をプールサイドへ置こうとこちらへ来ていた目黒にしっかり命中する。
ずぶ濡れにった目黒と俺の間には、どこか凍えた空気が漂った。
「……わざとじゃ、ないんだぞ」
辛うじて言い訳を述べた俺に、目黒は濡れて張り付いた横髪を耳にかけた。
「はい、でも望さん」
手を差し出された。俺は素直にホースを手渡した。
俺は次の瞬間、頭から水を浴びた。目黒は容赦がなかった。
「っぷはあ! これで文句ないか」
「……」
前髪を掻き上げて、目黒を見れば、なぜか目黒は目を逸らしていた。
「? どした」
「いや、別に」
「なんだよ。俺の顔が間抜けだってか? んなこと知ってんだよ」
「……そうですね」
「失礼なやつだな」
馬鹿にされているように思えたけど、でも目黒は俺に視線を向けない。もしかしたら、顔以外にもなにか、おかしい所があるのだろうか。
首を動かして、自分の体を見回してみる。すると下を向いてすぐ、俺は口を開いた。
「お前俺の乳首見えてるからそれ、気にしてんの?」
視線を戻してみれば、目黒の首はもはや後ろを向いているのかと言うほどに逸らされていた。
「おまえも男子高校生なんだなあ」
「気持ち悪いって思ったでしょ」
俺が感慨深く呟けば、後ろを向いたまま目黒がそう言う。また、卑屈なヤツめ。
俺は少し考えて、口を開いた。
「お前が本当に、性別とか関係なく恋してくれて嬉しいなあとは思う」
「……何それ」
こちらに向き直した目黒は疑り深い目で俺を見る。俺はその疑いを、諦観を見るたび、こいつが一番、この恋を信じていないのにな、と思う。好きと伝えるだけでいい、それに俺が頷いて、そしていい感じに失恋して、ずっと俺を陰から見守っておきたいとでも言うつもりなんだろう。
そうは問屋が卸さない。俺もお前を少しずつ好きになってるんだ。覚悟しとけ。そう思いながら、俺は羽織っていたパーカーのジッパーを上げた。こいつの目には毒らしいから。
俺は薬を撒いた底に降りて、目黒から何気なくホースを奪った。
何が起きるのか全くわかっていない、幼気な後輩にチューブの真ん中を親指で推して、上がる飛沫を目黒に向ける。
「わっ! ちょ、何する、ちょっと!」
「あはは、いいじゃねえかちょっとくらい」
「ちょっと位ってなに!? わぶっ」
俺がゲラゲラ笑っていれば、最初は困惑しきりだった目黒の顔にも笑みが浮かび始める。
二人で水をかけあって、俺たちはプールの底で走り回っていた。
「あはは! 望さん、こんなのやってたら怒られるって!」
心底楽しそうに笑いながら、でも正論を言い続ける目黒に俺は言った。目黒が俺からホースを奪って、もうプールの中は大混戦だった。
「怒られてもいいんだよ!」
「なんで! 単位取り上げられるよ」
「でもお前が笑ってる」
目黒は水でクタクタになった服で、ホースを手に持ったまま、きょとんとした顔をした。
「お前は変な奴なんかじゃないし、努力して勉強してるし、争い事が起こらないようにいつも気を回してる。俺のこと考えて、大切にしてくれる。そんな奴に好かれて、俺ってなんてラッキーな奴なんだろうって」
「……」
「今はそう思うよ」
あ、また疑うなよ。そう注意したら、目黒はただ、頷いた。
初夏。五月からすでに暑い日本は、もう気象が狂っていると言うしかない。春はどこに行ったんだよ。
プールサイドに苔の生えた水たまり。濁ったプールの水。明らかに体に悪そうな濁り方をしている。
デッキブラシに顎を乗せて、同じくデッキブラシを持っている目黒に視線だけを向ける。
「臭いです」
あからさまに顔を歪める目黒に、俺も同じような顔しながら頷く。
「おう」
「これ水抜くところから始まるんですよね」
「そうだよ、その間にプールサイド掃除する。汚ねえし落ち葉とかたまに死骸とか落ちてるから気つけろよ」
「なんの死骸が落ちてるんですか」
ギョッとしたような顔の目黒に、俺は肩をすくめた。
「さあ、俺は去年は見なかったな。先生がちょっと前に猫の死骸見つかったとかでお前も気をつけとけよって言われたんだよ」
「ああ、そう言うこと……」
ほっとしたような顔の目黒から視線をプールに移す。
「んじゃ、始めるか。俺水抜いてくるわ。お前プールサイドに水撒いてデッキブラシで擦っていって」
「はーい」
目黒は嫌な顔一つせず、俺の言うことを聞いて動き始める。
色違いの体操服。俺は軽くパーカーを羽織って、目黒は半袖半ズボンの体操服でいる。
俺はプールサイドのぬめりを飛び越えながら、排水口のバルブがある方へ歩く。目黒は俺の言った通り水を撒いてデッキブラシで磨き始めた。
その姿を見て、俺は思った。
(多分、俺と一緒に何かやりたいんだろうなあ)
それくらいは察せる。こんなクソ暑い中、汗をかいて、臭うし、腐った水の相手なんか誰もしたくないだろう。いいことなんか一つもない。単位を稼ぐだけの、放課後の、体のいい雑用だ。
でも学年も違う、会えるのは寮にいる数時間だけ。一緒に朝食、夕食が食べれると言っても、一緒にいる時間は限られている。一緒に眠っている時もあるけれど、別に毎日でもないし、暑くなってからはあいつは遠慮するようになってきた。俺から「一緒に寝るか?」と誘った時は、一分くらい固まっていた。固まりすぎだろ。俺が恥ずかしくなって「やっぱり」と撤回しようとした頃に、あいつは笑顔で頷いたのだ。首を傾げて、嬉しそうに笑うあいつを見て、俺はどう表現すればいいかわからない気持ちになった。頭を抱えて、気が済むまでわしゃわしゃと撫で回して、頬にキスしてやりたくなった。だからあいつが眠った後、俺は寝たふりをやめて、目黒の頬にキスをした。これは恋なのだろうか、わからない。俺は初恋もまだなんだと言えば、こいつはどうするんだろう。夜の闇の中、そう思った。
プールの排水バルブを回して、水が抜けていく様を見守る。時間がかかるから、俺はデッキブラシを持って、目黒の方へ行った。
「暑いだろ」
「暑いけど楽しいです」
「何が楽しいんだよ」
笑った俺に、目黒が振り返った。
愛おしそうに、瞳に温かいものが滲む。
「あんたとなんかするの、初めてだから」
「……そうだな」
どうやら俺の勝手な想像は当たっていたらしい。顔が少し赤くなるのがわかって、俺は何気ない仕草で、汗を拭うように、顔を腕で隠した。
目黒はどうやら俺が照れていることになんか気づいていないみたいだった。またプールサイドの掃除に戻る。俺も同じように、デッキブラシで床を擦った。
「はー、ようやく抜けたな」
プールサイドの掃除を終えた頃、プールの水は全て抜けていた。俺はもうすでに帰りたかったが、単位のため、ともう一度気合を入れ直す。
目黒の方を見てみれば、さすがに疲れたような顔をしていた。
「ちょっと休憩しません?」
「賛成」
俺たちは適当にデッキブラシをもたれ掛からせると、日陰のベンチに座る。
「っあ゛ー!」
おっさんが酒飲んだ時みたいな声を上げて、俺はベンチに座る。目黒はふとポケットから何かを取りだした。俺が視線を向ければ、口で髪ゴムを咥えて後ろ髪を纏めていた。
汗に濡れた首筋と、醸し出される高校生とは思えない色気、元来の容姿の美しさが相まって、とんでもない優美さと色気がある。
こんな美人と付き合ってんのか。そして、俺はこいつに恋心らしきものを持っている。そして相手は俺にベタ惚れ。
俺は今度こそ顔が真っ赤になって、視線をそっとずらした。
「望さん」
「ん?」
なんでもない風に返事をした。
「俺、かっこいい?」
「は?!」
勢いよく振り返った先には、膝に肘を着いて、こちらを覗き込む目黒がいた。俺はまたいつの日かのように、仰け反る。うるわしの美貌が近付いてくる。
「な、な」
「かっこいい?」
「あ、え」
「かっこいい?」
「……おう」
あまりにも自信満々に言うものだから、俺は言い訳も忘れて頷いていた。
俺の返事に、目黒は満足したように頷く。
俺は恥ずかしさとか気まずさで目を泳がせた。普通に、年下の男にこんな質問されて、さらに頷くなんて体験した事がなかった。それも本心から頷くなんて、この上ない仕打ちである。
「良かった、先輩の好みの顔に俺も入れてもらえてそうですね」
「自信、満々だな」
誤魔化すように俯けば、目黒はなんでもない風で言った。
「俺の長所なんか顔くらいですからね、気に入ってもらえて良かった」
沸騰していた頭が、一気に冷えるような気がした。
「ちょっと待てよ」
「あ、勉強も教えてあげられる。便利でしょ?」
「違う、そうじゃない」
俺は焦燥をおぼえた。
こいつは自分をなんだと思っているんだろう。俺は愕然とした。まさか、俺がこいつの容姿や勉強の才能だけを好きになって付き合ってると思われているのだろうか。それなら心外極まりないことだった。
俺は目黒の肩に手を伸ばして、真剣に言い聞かせる。
「待て、目黒」
「はい」
「俺はお前が、顔がいいからとか、勉強教えて貰えて便利だから付き合ってるとかじゃないぞ」
「? じゃあそれ以外何があるんですか?」
びっくりしたような顔をする目黒に、俺がその顔をしたいよと思った。
「なあ、言いたいことは沢山あるから、一つ目から言うけど、俺はお前が好きだよ」
「……はい」
期待と諦観が混ざった瞳に、俺は苦しくなった。
「二つ目、お前が便利だから付き合ってるとかはない。それはお前は自分の自己評価が低すぎるし、俺にも失礼」
「はい」
目黒は目に見えて肩を落とした。それを目の当たりにして俺は困惑の中口をひらく。
「お前、もしかしてずっとそう思って生きてきたのか?」
「みんな俺が頭悪くなくて、顔が綺麗だから近づいてくるんですよ。本当の俺なんかに興味ない」
俺は何も言えなくなった。なぜなら俺も、最初、こいつと同室になった時、面倒なことになったと思ったからだ。顔が綺麗で、品行方正で、人気者。さらに頭もいい。俺は、その中身を見ようとしなかった。廊下を歩いているだけで女子に群がられている姿は何度か目にしたことがあった。俺は手を振りかけて、辞めたことを思い出す。あいつと同室になったからと、手紙を渡して欲しいとか、部屋での様子とか、山ほど聞かれたことも。
「俺は、最初お前のこと、面倒なことになったって、思ったよ。部屋に来た時」
「はい」
平然と頷く目黒に、その灰色になった心に届けばいいなと思いながら言葉にする。
「でも今は、お前と出会えて良かったよ。お前の恋人になって、嫌だったことなんか一つもない。そりゃ初めて抱きしめられた時は、驚いたし、告白された時なんかもっと驚いた。でも、今は俺、あの時お前に付き合うか? って言って良かったなって思う。俺の初恋をお前にあげたいなって思った。お前は俺に沢山の愛情をくれる。自分だって課題したり、やりたいことあったり、休みたい時だってあると思うのに、俺が勉強で行き詰まってたりしたらすぐ手伝ってくれるし、一緒に何かしたいって、掃除手伝ってくれたりするんだぞ? こんなクソ暑い中。そりゃ可愛いやつだなって思っちゃうよ。それに、好きでもないやつと一緒に寝たりしない」
「俺が勝手にしてることだよ、俺のわがままを望さんが叶えてくれてるだけ」
「俺は本当に嫌なら断る。それくらいの力はあるよ」
俺はそのまま、肩に置いていた手を引いて、目黒を抱きしめた。
少しすれば、背中に手が回ってくる。
「俺、期待してもいいの?」
震えた声が俺の耳朶を震わせる。薄いガラス、すぐに割れてしまいそうな希望。
「大いにしとけ。俺はお前の頭を沢山撫でて、抱きしめて、ほっぺたにキスしたいって思うよ」
「そうして」
「うん」
俺は目黒から体を離すと、頭を何度も撫でた。汗を含んだ髪、手にシャンプーの香りがつくんじゃないかと思うくらい。そしてもう一度ぎゅっと抱きしめる。背骨の形がわかるくらい。そして最後に、ほっぺたにキスをした。
そして俺は笑う。俺の膝にポタポタと雫が落ちた。
「泣くなよ」
「しあわせだなって」
「いつだってしてやるよ」
「まいにちやって」
俺は笑った。釣られたように、目黒も微笑む。やっぱり、こいつは笑っている方がいいと思った。あと、もう少し我儘だったら、もっと可愛いのになとも思った。
「よし、この果てしなく汚ねえブール、洗っていくぞ」
「はい」
自販機で買ったスポーツドリンクをどかどか飲んだ後、俺たちはまたデッキブラシを握った。気合を入れ直し、最初にデッキブラシをプールの中に放り込んで、プールサイドの階段を下った。
「気をつけろよ、ヌメヌメだぞ」
俺がそっと床に降り立つと、ついで目黒が階段を降りる。
片足が床に着く。もう一足。
そして、するりと、まるで測ったかのようにこいつは床に滑った。
「……」
「……」
沈黙が漂う。
それを破るように、俺の堪えきれない笑い声が響いた。
「おま、お前な……!!」
俺の止まらない笑い声に、目黒は極めて不機嫌な顔になると、よろよろと立ちあがろうとしてまた滑る。
「だ、大丈夫か」
歩くのを覚えたばかりの赤ちゃんみたいな後輩に、俺は半笑いで手を差し出せば、それは引っ張られた。
「うおっ」
俺は尻餅をついた。振り返れば、イタズラな笑みを浮かべた目黒がいた。こんな顔は初めて見た。怒りがするすると萎んでいく。まったく、可愛いイタズラだななんて、そんな風に思ってしまうのだ。目黒朝日、恐ろしいやつである。
「いってぇ、お前なあ!」
口ぶりだけ強くすれば、目黒はすっとぼけた顔をする。
「ふ、おそろいでしょ?」
「なんも良くねえおそろいやめろ!」
俺は何度も滑りながら立ち上がると、あ、と思い出す。
「あ、薬忘れたわ、ぬめり取りと殺菌するためのやつ」
「そんなのあるんですか」
「おう、流石にこれは水だけじゃ綺麗にならないよ。皮膚への害はないから、足の心配はしないでいいぞ。水で薄めて使うから」
「あ、はい」
ヨタヨタと階段をまた登って、管理室に入る。すぐそこの湿った空気の管理室に入れば、すぐそこの棚に薬の入った筒があった。それを手に取って、またブールサイドに戻る。
「目黒!」
そう声をかけて、ヨタヨタ近づいてきた目黒に手渡す。
「これ適当に撒いて」
「はい」
スケートリンクを滑るみたいにするする動く目黒が大体薬を撒いた後に、俺はホースを手に持った。
栓を緩めて水を出す。先っちょを手にして、水を撒こうとした時だった。
水が勢いよく噴き出す、薬の筒をプールサイドへ置こうとこちらへ来ていた目黒にしっかり命中する。
ずぶ濡れにった目黒と俺の間には、どこか凍えた空気が漂った。
「……わざとじゃ、ないんだぞ」
辛うじて言い訳を述べた俺に、目黒は濡れて張り付いた横髪を耳にかけた。
「はい、でも望さん」
手を差し出された。俺は素直にホースを手渡した。
俺は次の瞬間、頭から水を浴びた。目黒は容赦がなかった。
「っぷはあ! これで文句ないか」
「……」
前髪を掻き上げて、目黒を見れば、なぜか目黒は目を逸らしていた。
「? どした」
「いや、別に」
「なんだよ。俺の顔が間抜けだってか? んなこと知ってんだよ」
「……そうですね」
「失礼なやつだな」
馬鹿にされているように思えたけど、でも目黒は俺に視線を向けない。もしかしたら、顔以外にもなにか、おかしい所があるのだろうか。
首を動かして、自分の体を見回してみる。すると下を向いてすぐ、俺は口を開いた。
「お前俺の乳首見えてるからそれ、気にしてんの?」
視線を戻してみれば、目黒の首はもはや後ろを向いているのかと言うほどに逸らされていた。
「おまえも男子高校生なんだなあ」
「気持ち悪いって思ったでしょ」
俺が感慨深く呟けば、後ろを向いたまま目黒がそう言う。また、卑屈なヤツめ。
俺は少し考えて、口を開いた。
「お前が本当に、性別とか関係なく恋してくれて嬉しいなあとは思う」
「……何それ」
こちらに向き直した目黒は疑り深い目で俺を見る。俺はその疑いを、諦観を見るたび、こいつが一番、この恋を信じていないのにな、と思う。好きと伝えるだけでいい、それに俺が頷いて、そしていい感じに失恋して、ずっと俺を陰から見守っておきたいとでも言うつもりなんだろう。
そうは問屋が卸さない。俺もお前を少しずつ好きになってるんだ。覚悟しとけ。そう思いながら、俺は羽織っていたパーカーのジッパーを上げた。こいつの目には毒らしいから。
俺は薬を撒いた底に降りて、目黒から何気なくホースを奪った。
何が起きるのか全くわかっていない、幼気な後輩にチューブの真ん中を親指で推して、上がる飛沫を目黒に向ける。
「わっ! ちょ、何する、ちょっと!」
「あはは、いいじゃねえかちょっとくらい」
「ちょっと位ってなに!? わぶっ」
俺がゲラゲラ笑っていれば、最初は困惑しきりだった目黒の顔にも笑みが浮かび始める。
二人で水をかけあって、俺たちはプールの底で走り回っていた。
「あはは! 望さん、こんなのやってたら怒られるって!」
心底楽しそうに笑いながら、でも正論を言い続ける目黒に俺は言った。目黒が俺からホースを奪って、もうプールの中は大混戦だった。
「怒られてもいいんだよ!」
「なんで! 単位取り上げられるよ」
「でもお前が笑ってる」
目黒は水でクタクタになった服で、ホースを手に持ったまま、きょとんとした顔をした。
「お前は変な奴なんかじゃないし、努力して勉強してるし、争い事が起こらないようにいつも気を回してる。俺のこと考えて、大切にしてくれる。そんな奴に好かれて、俺ってなんてラッキーな奴なんだろうって」
「……」
「今はそう思うよ」
あ、また疑うなよ。そう注意したら、目黒はただ、頷いた。