「いやぁ、持ってんねぇ」
「うるせぇな」

 あれから朝を迎えて、学校に行けば、密かな視線と声に囲まれて死ぬほど居心地の悪い思いをしながら、クラスに入ることになった。

「お、夏希おはよ!」

 女子の視線が痛い。きっと俺に聞きたいことが沢山あるのだろう中、それから引き離すように灘が大きな声を上げる。
 俺は心の中でそれに少し、いや、普通に、だいぶ安堵して席に着いた。まだまだクラスは馴染んでない。俺の事をほとんど知らない女子しか居ないのだから、皆二の足を踏んでいるようだった。
 だが灘もからかうことを忘れない男ではある。俺の机に頬杖をついてにやにやと笑って、そして、一言目にそう言ったのだ。

「んで、どうなのよ目黒くん。いいこ?」

 俺と灘の会話にクラス中が耳をそばだてているようだった。
 俺はなんでもない顔で言った。

「愛想のいい普通の男子」
「お、生意気とかじゃなくて」
「ふつーの男子だよ」
「へえ」

 へえ、とみんなが心で言っているであろう台詞が声になって聞こえてくるようだった。そう、目黒はただ、顔の綺麗なだけの普通の男子生徒。だから、特別視なんかされなきゃいいのにと思った。今の俺みたいになるから。ふと、気になった。あのクラスでは誰が目黒を守っているのだろう。
 密やかな視線が逸らされ、みな各々のしたいことに戻る。
 だが女子は俺の言葉に安心したのか、灘の明るさに親しみを持ったのか、こちらに近づいてくるのが見える。気付かれないようにため息をつく。
 名前が覚えられなかった俺は、その女子が恥ずかしそうに聞いてくるのを待つしかない。

「あの、目黒くん、どんな女の子が好きとかわかる?」

 俺はさっぱりと、いやキッパリと言った。

「ごめん、そこまではまだ聞ける仲じゃない」
「あ、そっか」

 あからさまに落胆したような声に、俺は眉を下げた。誰かに失望されるのは苦手だ。誰だってそうだろう。

「聞いといた方がいい?」
「あ、夏希くんが聞ける仲になってからでもいいから」
「あー、うん、わかった」

 目黒も可哀想だなと思った。知らぬところで探りを入れられ、まだ仲良くもなっていない、心を開けられる相手でもない男から、好きな女子の特徴はなんだとか、この歳になってくるともっと下品な質問をする人間もいるだろう。それににこやかに対応して、当たり障りのない返事をしてやらないといけない。人生が綱渡りのようだなと思った。

「あのさ」

 背を向けて去っていこうとする女子に、俺は気づけば声をかけていた。

「あんまり、目黒のこと特別視して、追いかけるとか、しないでやってくれ。しないと思うけど」

 突然ごめん。
 そういった俺に、女子たちはわかった、と頷いてくれた。内心はわからないが、俺は少しでも、目黒が穏やかな生活を送れらればいいなと思った。
 今思うと、俺はこの時からだいぶと、目黒に入れ込んでいた。だって、こんなの俺が言わなくたっていい。でも口に出してしまった。
 俺は多分、きっと笑うことが本当は苦手なのだろう男が気になっていたのだろう。
 どうしてあんな、まっさらで、すぐにちぎれてしまいそうで、さらさらとした、すぐぐしゃぐしゃになってしまいそうな、紙のような表情をするんだろう。どうしてそうなった。なにか辛いことがあったのか。
 知ってみたいと、そう思った。


 寮に帰ったら、部屋には誰もいなかった。俺はおかしいな、と思った。今日は一年生はオリエンテーションだけのはずで俺たちより一時間早くには全部終わってる。それとも部活紹介か? でも希望制だ。あいつは何か、趣味でもあるのだろうか。バトミントンとか、テニスをしてる目黒を想像してみる。うーん、どれも当てはまらない気がした。

(……女子に囲まれてる?)

 いや、ない。ないだろう。一応注意しておいたし。
 ……ないか?
 みんながみんなが俺の言葉を聞くなんてあるか?
 あいつは一年生、二年生から三年生まで、女でも、もしかしたら男相手でも被害者になることにならないだろうか。

 一度不安になれば、それは簡単に膨らんだ。
 俺は寮を出ると、校舎に戻って手当り次第教室を見て回った。余計なお世話だとわかっていても、足は止められなかった。


 結論から言えば、大丈夫じゃなかった。

 空き教室で女数人がけで襲われそうになっていた目黒を発見すると、その現場を発見した瞬間、俺は頭がまだ冴えていたらしい。扉を開けてから写真を撮った。パシャリ、という音に女達は振り向く。そこで、そういえば同じ学年の廊下で見た女の顔だなと思った。

「!! ちょっと!! 消せよ!!」
「なによ、未遂じゃない!!」
「未遂だろうがなんだろうが好きでもねぇ女に跨がれて喜ぶヤツがいるわけねぇだろ。ただ豚がのしかかってきてるようにしか見えねぇよ」
「なっ」

 教室に足を踏み入れて、俺は大分と走って息が上がっていたが、それでも俺には力では勝てないと悟ったのだろう。女たちが四散していく。俺のスマホを狙って襲いかかってきた女もいたけど全部蹴散らした。初めて女を蹴った。女子に暴力なんて。今までそう思ってたけど、こんな女、殴られて当然だろ、と思った。

 誰もいなくなった教室で、床に転がる、服のはだけた目黒を見下ろした。大丈夫かと問いかけそうになって、口を噤んだ。
 大丈夫なわけない。十人近いの女子が力を合わせたら一人の男子生徒は抑え込めるのだ。そして多分、目黒は抵抗しても余計な怪我や相手を喜ばせるだけだということを知っていたのだろう。ただただ目を閉じていた。

「望さん?」

 目黒は今から行われる行為に耐えるように、何も無かったかのように穏やかに目を瞑っていた。
 掠れた声で問われたから、答える。

「おう、これ以上なんかされてないか」
「口の中に舌入れられた」

 俺は分かりやすく顔を歪めた。

「すぐ口ゆすげ」
「いいよ、なんでも」

 ふわふわした声だった。空気とひとつになって、バラけて消える。

「良くないだろ、気持ちわりぃだろ」
「慣れた」

 しゃがんで、目黒の顔を見た。昨日見た顔と同じ、まっしろな紙のようにだった。可哀想に思った。なんでこんな事されなきゃいけないんだ。入学早々に。治安悪すぎるだろ。
 こいつの紙のように頼りなく真っ白で、すぐ突き破れてしまいそうな表情の理由は、こういったことから生み出されたのかなと思った。

「なんでここに来たんですか、二年の階ここじゃないでしょう」

 平坦な声で、なんでもないように話す目黒に、俺は眉をひそめた。

「お前帰ってこなかっただろ」
「それだけ?」
「それだけ?」

 オウム返しする俺に、目黒は腕で目元を隠した。

「それだけでなんで探してくれるんですか、部活紹介行ってただけかもしれないでしょ。優しすぎるよ」
「だから部活紹介のとこ全部見てきたよ。それに、別に優しくねぇ。俺が気になっただけ」
「……」

 目黒は疲れたようにため息をついた。そりゃそうかと思った。好きでもない女に寄ってたかって囲まれて押し倒されて強姦されるところだったのだ。それか、俺にため息をついてるのかもしれない。すぐ助けられなかったから。それは、悪いことしたなと思った。
 でも俺に呆れている訳ではなかったらしい。

「なんでこんなことになったかとか聞かないんですか」
「お前にもお前の事情があるだろ」
「そうですけど、でも、普通はもっと抵抗できるだろ、とか思うでしょ」
「被害者を責める趣味はない」

 目黒はくしゃりと顔を歪めた。

「ねえ」
「なんだ」

 腰を下ろして、掃除のされていない床に胡座をかく。

「あんたは覚えてないと思うけど」
「?」
「電車で、痴漢されてた時」
「? ああ」
「あんたが立つ場所、変えてくれたんだよ。腕引っ張って、隙間作ってくれた」
「いつの話だ?」

 俺は驚いて首を傾げた。記憶を駆け巡る。確か、痴漢された女の子たちを助けた経験は何度かある。でも男は、助けたことあったっけ。そんなの、覚えててもおかしくないのにな。まず見たことがない。でも確かに、こいつがそう言うなら助けたのかもしれない。
 砕けた口調、囁くような声。

「中三の頃。忘れててもいいよ、あんただけなの、俺の悲鳴に気づいてくれたの」
「……そっか。気づけてよかった。お前、黙って耐える癖ついてそうだもんな」

 本心だった。俺は残念なことに忘れてしまったけど、こいつをいつの日か助けられていたことは良かったなと思った。
 目黒はなにか、言いたい言葉を飲み込むように唇を噛みながら、ゆっくりと起き上がって、深く息を吐いた。
 それから目黒は経緯をぽつりぽつりと語り出した。
 気弱そうな二年生の女子に声をかけられ、教室を指定されたと。告白されるのかと思って、どう断ろうかと思って言われた空き教室に向えば、こうなったと。

「お前全く悪くねぇじゃねえか」
「……そうだけど、馬鹿でしょ。ホイホイついて行って」
「お前学校に人狼ゲームでもしてんのかって精神で行かないといけないの? やばいだろ」
「俺の事、馬鹿だなって思いません?」
「思わねぇよ」

 頭をポンポンと撫でてやれば、白紙の紙に温かみが通ったように目黒の頬が色づく。

「望さん」
「ん?」

 もしかしたら、俺の名前を呼ぶのは、こいつなりの親しみの見せ方なのかなと思った。
 だから、次の台詞に俺は固まる。こいつは懺悔するように告白した。

「好きです」
「……は?」

 俺は自分の耳を疑った。目黒は普通の顔でいるし、俺は思わず俺自身がおかしくなったのかと思った。告白か? それとも純粋な好意だろうか。わからなくて、なんと応えたらいいか。

「ごめん、俺おかしくなってるかも。親愛の方だよな?」
「そうですよね、男から告白されたら」

 俺は今度こそ、閉口した。目黒は全く、なんの感情もないように見えた。俺への期待が見えない。普通、告白したら振られるか受け止めてもらえるか、どちらか気になるだろう。
 でも目黒は最初から、なんの期待もしてなかった。断られて、それで終わり。でもそれで思いが消えるわけじゃない。ただ俺を一途に思い続けて、俺が卒業したらひとりぼっちになる。そんな気がした。

「応えるとか応えないとか、そういうのいいです。俺はあなたが好き、それだけ」
「俺なんか好きになるより優しい女の子好きになれ、報われる恋しろよ」

 焦って捲し立てる俺に、目黒はただ穏やかだった。は、と気がつく。これじゃ振ってるのと同じだ。
 でも俺はゲイじゃないし、男を好きになったことは無かった。

「性別なんか関係ない。俺は誰よりも優しいあなたが好きだ。あなたを好きになれた、自分のことが好きだと思った。俺の初めての、本当の恋」
「……」

 何も言い返せなかった。
 こいつにとっては俺のことが好き、ということ自体が心の支柱になってるんだと思った。その支柱を折りたいとは思わなかった。目黒は俺が、心の底から好きなんだろう。そんな口ぶりだった。

「俺がお前を好きになれなくても?」
「いいんです、先輩には優しくて可愛い奥さんの方が似合ってる」
「おい、お前がまるで邪魔者みたいな言い方するじゃねぇか、俺はお前が俺の事好きなの迷惑だとか思ってないぞ」

 これは本心だった。ただ俺は、こいつが心配だった。俺を好きで、どうするのだ。どうなるのだ。
 目黒は驚いたように俺の方を見た。

「気持ち悪くないの……?」
「ないよ。でも俺は多分お前に同じもの返してあげられない。それが嫌なんだ。お前には幸せになって欲しい」

 俺の本心だった。こんな目に合わされて、でも諦めたように受け入れる目黒に、告白されたところで、気持ち悪いとかは思わなかった。俺と同室にならなかったら、こいつは自分の部屋でまで仮面を被ることになっていたのだろう。
 憐れみなんて、失礼だ。でもどうしても感じてしまう。幸せになって欲しいと。出会ってたった一日しか経ってない。でもあんな、俺を信頼して素をさらけだしてくれた後輩に嫌悪感を持つなんて出来なかった。
 目黒は祈るように、囁いた。

「じゃあずっとあなたのこと好きでいさせて。彼女が出来ようが、結婚しようが。絶対邪魔したりしないって誓うから」
「……」

 どうしてそんな一途なんだ。俺は切なくなった。こんなに純粋無垢な気持ちに報いてやれない自分が、もどかしい。
 そして知った。俺は残酷で、自分勝手な人間であることを。

「じゃあ俺と、付き合ってみるか」
「…………え?」

 今度こそ目黒は言葉を失ったようだった。呆然としている。そりゃそうだろう。こんな、恋心を弄ぶような提案。俺の目黒を憐れむ気持ちが勝手に生み出した提案。

 目黒は、少し怒ったような顔になった。

「俺のこと好きでもないのにそんなこと言わないでください」
「好きになるかもしれない」
「嘘、あんたが俺のこと好きになるわけない」

 男相手なんて、嫌でしょ。
 棘で自分を守るよう薔薇のように、初めてきつい口調でそう言った目黒に、俺は言い募る。

「男相手が嫌だとは思わない」
「俺相手にキスできる? セックスは?」

 ボタンをしめながら、嘲笑うように、試すようにそう言う目黒に、俺は目を逸らした。

「それはやってみないと分からねぇな」
「俺を実験体にしないでよ、自分がどんな残酷なこと言ってるか分かってますか?」
「でもお前のことほっとけねぇんだよ」

 そう言って、逸らした視線を戻せば、そこには泣きそうに顔を歪めた目黒がいた。
 俺は大きな過ちを犯している。分かっていた。
 分かっていただけだった。
 でも。こいつを少しでも守れたらと思ったんだ。俺は本当に、酷いやつだった。

「俺のこと好きになって」
「うん」
「嘘つき」
「お前のこと守りたいとは思ってる。ごめん、それだけしか答えられない」

 目黒は膝を抱えて顔を埋めた。

「あんたの恋人になれることがどれだけ嬉しいことなのか、あんたにはわかんないよ」
「うん、なあ、お前のこと守らせてくんない? 俺なりに大切にするから」

 それがお前の望むものとは違うかもしれないけれど、でも、お前が今、大切なんだ。
 こんな感情、初めて抱くんだよ。

「俺の恋人になってくれるんですか」
「なるよ」
「俺のこと好きになって貰えるように、努力していい?」

 今度は俺が顔を歪める番だった。

「お前、健気すぎるよ」

 風が窓を叩く、埃まみれの空き教室。
 そこから、俺たちの歪な関係は始まった。