一目で恋に落ちたわけじゃない。
俺は別に、同性愛者を馬鹿にするつもりも、偏見がある訳でもなかった。本人たちの幸せが一番だし、誰にも迷惑をかけていない。少子化がなんだ。別に同性婚が増えたところで減っていくもんは減っていくんだ。だから好きにすればいいと思っていた。どうぞお幸せに、好きな人が隣にいてくれるって幸せな事だよな。俺もそんな、幸せな恋をして、いつか結婚して、奥さんと子供を幸せにしたいと、そう思っていた。
でも俺は同性愛に理解があると勝手に思っていただけで、結局は寛容ではない人間なのだと、知った。
あいつの恋人になってから。
俺の通う私立宮澤高校は、学校の敷地内に寮のある学校だった。俺はそこの寮生で、二年だった。
そしてそこに住まう俺たち学生は、二年生になると一年生と同室になるという決まりがあった。寮生としてまだまだ新米の青くさい坊主の面倒を見ないといけないわけである。そしてなにか悪さをしないか監視をする役目も持っていた。素行不良な生徒は寮から追い出される。創立された頃からずっとそうだったらしい。一種の伝統のようなものだった。
どんな奴と同室になるんだろう。良い奴だといいな。良ければ仲良くだってなりたい。関係は友好な方が二人とも生活がしやすいから。俺が先輩と同室だった時は、特にお互い干渉もせず暮らせた。
俺は少し、ドキドキとワクワクの心で新学期を迎えた。
「夏希」
「んー?」
始業式。隣のパイプ椅子に座る灘がコソコソと声をかけてくる。視線は壇上に向けて、まるでちゃんと校長の話を聞いていますよ、と言ったふりで2人でポツポツと会話を交わした。
「今日だな、同室決まるの」
「荷物は既に送られてきてるからな」
「どんなやつか、明日教えてくれよ。あ、好みの顔だったら言ってくれていいんだぞ」
灘は家から通ってきている生徒だった。寮には立ち入りを許可されていない。
「アホか。相手は男だぞ」
「いやぁ、モテ男かもしれねぇなぁ」
「今から何言ってんだ馬鹿」
ニヤニヤと腕を組んで、まるで競馬の予想をするおっさんのように新入生の方向をちらりと見る灘に俺は冷めた視線を向けた。
「夏希と同じクラスならいいんだけどなあ」
「そうだな」
「あ、やべ、喋ってんのバレたかも」
灘が教師の視線に気づいたのだろう。まるで何でもなかったですよ、と言った顔で俺たちは校長の定型文のような挨拶を聞いた。
「お! 夏希! 同じクラスだぞ!」
「やったな」
灘とハイタッチして、俺たちは前後の席に座った。そして新しくなった教師の挨拶を聞いたあと、教科書を取りに行く。
「うげ、また分厚くなってるよ」
「自称進学校って大変だよなあ」
二人して愚痴愚痴言いながら教室に戻ると、女子たちが色めきたっているのが見える。
「なんかあったんか?」
「なー、なんかあった?」
俺が首をかしげてすぐ、灘が声をかけると、知り合いなのだろう、一人の女子生徒が笑顔で答えた。
「今年の一年にめちゃくちゃ綺麗な顔の子がいるんだって! 男子!」
「ほー」
灘が感心したように頷く。俺も一応同じように頷いておいた。綺麗な顔の男子がいようがいまいが俺にとっては興味のない事だったけど。
「休み時間になったら見に行こうって言ってたの」
「お! 俺も着いてっていい? あ、夏希も行こうぜ」
「いいよ俺は……」
呆れ顔で断ってみたけど、灘は俺の肩に腕を回す。
「おいおい、期待の新星だぜ? 一回ぐらい拝んどいて損は無いだろ」
ニヤリと笑う灘に、俺は半目になった。
「拝むって、神社や寺じゃないんだから」
「いいじゃん! な、俺たちも行っていい?」
「いいよー! 夏希くんも一緒に行こ!」
朗らかに笑う名前も知らない同級生に、俺は最後、引き攣った笑顔で頷いた。
そして俺たちは一年の教室がある四階に向かう。すると、件の男子がいる教室の前には既に人だかりができていた。
「やば、やっぱ噂通りだったのかな」
佐原と名乗った女子は他の女子生徒と足早に教室に向かう。
「おーおー、期待できるねぇ」
俺はあからさまに乗り気でない顔で足を進めた。灘のお気楽な言葉にじとっと隣を見る。
「お前らだけで行ってくれよ。俺人混み苦手なんだよ」
適当なことを言って教室に戻ろうとしたが、そうは灘が下ろさない。
「大丈夫大丈夫、一瞬一瞬」
「なんも大丈夫じゃねぇよ」
「硬いこと言うなってぇ」
一年頃、電車通学が苦痛すぎて途中から寮生になった俺にこれである。どうなってんだ。
肩を組まれて教室の前に着くと灘が「ごめんね〜」とダラダラした声で言って最前列をとる。なかなか図太いやつである。こいつは昔からこうだった。なのに人から好かれるのだから、なにかこいつには魔法的な力が働いているのかもしれない。
「お、あっちあっち」
灘が顎をしゃくった先を見れば、そこには肩まで髪のあるウルフカットの男子が女子に囲まれているのが見えた。俺から見ても、その男は確かに綺麗な顔をしていた。浮かべる笑顔は柔和で、外側から見れば穏やかそうな男子に見える。囲まれることにも慣れている様子だった。そりゃあの顔だ。仕方ないよな、と自然に思えるほどだった。
「うおー、ここからでもわかる。イケメンじゃん」
灘が女子と同じように色めきたった声を上げた。
俺は淡々と頷く。
「そうだな」
「おいおいもっといい反応があるだろぉ?」
「これ以上どう反応するんだよ。綺麗だな、それでいいだろ」
その男子の顔が綺麗だろうがなんだろうが俺には関係の無い話である。それより今年から入ってくる新入生の中から俺と同室になる男子が誰なのか、その方が気になった。どうか大人しいやつでありますように。問題を起こさない人間でありますように。お願いしますと、そう祈るしかない。
「んじゃ俺帰るから」
「おい夏希ぃ、名前くらい探っていこうぜぇ」
「いらない」
件の男子に興味が無い俺は、人混みから逃げるように背を向けて、俺は引き止める灘を放置して教室に戻った。
あっという間に放課後になって、俺は部屋に戻る。新入生がここへ来るのは夕方の五時。これから三年間使う布団を抱えて、扉をノックしてくるのだ。
俺は一度掃除機をかけた床にまた掃除機をかけて、窓を拭いて、汚くないかきょろきょろと部屋を見回った。
そして落ち着かなくて、部屋をウロウロし回る。とんでもない悪ガキが来たらどうしよう、とか、騒がしすぎるやつが来たらどうしよう、とか。
あの件の男子と同室だったらどうしようか、とか。
(いやいや、ないない)
そんな奇跡とも言っていいような偶然は起きるわけが無いのだ。俺は一度息を吸って吐いて、勉強机にもたれかかった。落ち着け俺、俺が例外になることなんてない。今までもこれからも俺は普通の一般人で、高校生で、大学生になって、社会人になって、そして老いて死んでいく。可愛いお嫁さんを貰えれば儲けものだ。それくらいしかない。可愛くなくてもいい、素敵な人が現れれば。あばたもえくぼだ。俺もそんなに、褒められた容姿をしてるわけじゃないし。
部屋の時計を見れば、もうあと数分で五時だった。ベッドに腰かけ、目の前のもうひとつのベッドの周りを囲むように置かれたダンボールを見る。ふと思った。それにしては荷物が少なすぎないか? と。
コンコン。ノックの音がする。布団を抱えてどうやってノックしたんだと思ったが、そいつは器用らしい。俺は腰を上げ、部屋の扉を開けた。
「初めまして、目黒朝日です」
「は、」
目を見開いた俺に、そいつは、目黒朝日はまた同じように、柔らかな笑顔をうかべた。
どうやら俺は、例外になる時が来たらしい。
「……目黒?」
「はい」
「……部屋間違えてないか?」
「残念、間違えてないんですよ」
目黒は人好きする笑みを浮かべた。
配布されていた名簿を見て、俺はバレないようにため息をついた。そこには確かに、目黒朝日と名前が書いてあった。どこのクラスで、出席番号も。
「あー、目黒だっけ?」
「はい」
「とりあえず荷解きはひとりだと時間がかかるから、俺も手伝えることあれば言えな」
「ありがとうございます」
そつのない態度に、俺は内心面倒臭いことになったと頭を抱える羽目になった。明日になれば灘にバレて、そこからは芋ずる式に噂は広がっていくだろう。それに、灘にバレなかったところで同じ寮生が目黒の部屋を言いふらす。俺が同室だとバレる。女子に囲まれて胃が痛くなる未来はすぐそこだった。
(いやもう、今から胃が痛いけど)
目黒は俺の手を借りずとも一人で荷解きが出来ているようだった。手際がいいな、ぼんやりした頭で思う。
――「輩、先輩」
「……え?」
気づけば目黒の顔がほんの先にあった。驚いてのけぞった俺に、目黒はなんでもない顔で棚を指さした。
「あそこの空いてる棚、俺が使ってもいいんですよね?」
俺は何度も赤べこみたいに頷いた。
「あ、うん。それはお前が使っていい棚だ よ」
「わかりました、ありがとうございます」
ああ、それにしても本当に綺麗な顔だなと思った。綺麗な二重、薄いけど皮一つ捲れてない唇。ニキビの無い肌。色白で、女子が羨むだろう美白、というやつである。そして身長も高い。俺より七センチは高いだろう。俺も百七十五はあるが、こいつは余裕で百八十ある。もっと伸びるのだろうか。喧嘩になって取っ組み合いになったら負けるのは俺の方だなと思った。取っ組み合いにはならなさそうな相手だけど。
ダンボールを開けて、空っぽになったダンボールを畳んでやったりする。
「すいません、ありがとうございます」
「おう」
笑顔で礼を言う目黒に、俺は違和感を感じながら、それがなんなのか心の名で探っていた。なにか、何か違う。いや、違わないけれど、まるですりガラスの向こうを見ているような気分になるのだ。
俺が考え事をしているうちに、目黒はダンボールを全て開けてしまった。一時間もたっていなかった。
「これからよろしくお願いします」
正座しながらにこやかな顔で頭を下げる目黒に、俺は自然と口を開いた。失言とも気づかず。
「お前なんか、笑顔不自然だな」
「……はい?」
やばい。瞬時に自分の言ったことを理解して、口にした本人の俺が冷や汗をかいた。これから同居していくのにとんでもない発言をしてしまった。
笑顔が不自然。そんなこと言われて喜ぶヤツはまあ居ないだろう。でもそれが俺の本音だった。
目黒はぽかんとしたように口を開けていた。イケメンは間抜けな顔も可愛く見えるのだなと、状況にそぐわぬことを思った。でもすぐに、困ったような顔で頬をかく。
「すいません」
「いや、俺こそごめん。やだよな、そんなこと言われて、先輩相手だし気遣うよな」
「いや、その」
ふと、目黒の顔から喜怒哀楽が抜け落ちていった。表情がまっさらな紙のように、空白になる。俺は息を飲んだ。
「自分の部屋でまで無理する必要ないか」
「目黒……?」
恐る恐る声をかけると、真顔の目黒が「なんですか」と返事をする。
「あー、お前の素ってそれ?」
フラットな声に聞こえるように気をつけた。面白がりもせず、不機嫌になることも無く、馬鹿にするでもなく。ありのままでいい。自分の帰る場所でさえ愛想良くしていないといけないのは、辛いだろうなと思った。俺には分からない世界の話だが。
「はい、言いふらします?」
淡々とそんな言葉を紡ぐ年下の子坊主に、俺は首を横に振った。そんな落ちぶれた人間にされるのは嫌だった。
でも、この男はどこでもそうだったのかもしれない。素の自分を見せられない、見られたら……。そんな世界にいたのだろうか。
「いや別に」
「良かった、先輩ならそう言ってくれるかなって」
安堵して、でもどこか信じていないような目黒に、俺はどこか始まる波乱を予知するような気分になった。それに、いつの間にか少し信頼を得られていたらしい。何故かは分からない。
「先輩の名前は?」
「夏希望」
「夏希先輩?」
「好きに呼べばいい」
「じゃあ望さん」
もっと距離を取られると思っていた俺は、驚いて「なんで?」と素直に口にしてしまった。
「なにがですか?」
「いや、下の名前」
「ああ、望さんとは仲良くしたいなと思って」
本当にそう思ってるか? と思うほど淡々とした声だった。
俺は曖昧に頷く。
「いや、あー、うんいいよ。俺はなんて呼べばいい?」
「好きに呼んでください」
「じゃあ目黒で」
「はい、よろしくお願いします、望さん」
目黒はほんの少しだけ、口角を上げた。
それが、俺と目黒の出会いだった。
俺は別に、同性愛者を馬鹿にするつもりも、偏見がある訳でもなかった。本人たちの幸せが一番だし、誰にも迷惑をかけていない。少子化がなんだ。別に同性婚が増えたところで減っていくもんは減っていくんだ。だから好きにすればいいと思っていた。どうぞお幸せに、好きな人が隣にいてくれるって幸せな事だよな。俺もそんな、幸せな恋をして、いつか結婚して、奥さんと子供を幸せにしたいと、そう思っていた。
でも俺は同性愛に理解があると勝手に思っていただけで、結局は寛容ではない人間なのだと、知った。
あいつの恋人になってから。
俺の通う私立宮澤高校は、学校の敷地内に寮のある学校だった。俺はそこの寮生で、二年だった。
そしてそこに住まう俺たち学生は、二年生になると一年生と同室になるという決まりがあった。寮生としてまだまだ新米の青くさい坊主の面倒を見ないといけないわけである。そしてなにか悪さをしないか監視をする役目も持っていた。素行不良な生徒は寮から追い出される。創立された頃からずっとそうだったらしい。一種の伝統のようなものだった。
どんな奴と同室になるんだろう。良い奴だといいな。良ければ仲良くだってなりたい。関係は友好な方が二人とも生活がしやすいから。俺が先輩と同室だった時は、特にお互い干渉もせず暮らせた。
俺は少し、ドキドキとワクワクの心で新学期を迎えた。
「夏希」
「んー?」
始業式。隣のパイプ椅子に座る灘がコソコソと声をかけてくる。視線は壇上に向けて、まるでちゃんと校長の話を聞いていますよ、と言ったふりで2人でポツポツと会話を交わした。
「今日だな、同室決まるの」
「荷物は既に送られてきてるからな」
「どんなやつか、明日教えてくれよ。あ、好みの顔だったら言ってくれていいんだぞ」
灘は家から通ってきている生徒だった。寮には立ち入りを許可されていない。
「アホか。相手は男だぞ」
「いやぁ、モテ男かもしれねぇなぁ」
「今から何言ってんだ馬鹿」
ニヤニヤと腕を組んで、まるで競馬の予想をするおっさんのように新入生の方向をちらりと見る灘に俺は冷めた視線を向けた。
「夏希と同じクラスならいいんだけどなあ」
「そうだな」
「あ、やべ、喋ってんのバレたかも」
灘が教師の視線に気づいたのだろう。まるで何でもなかったですよ、と言った顔で俺たちは校長の定型文のような挨拶を聞いた。
「お! 夏希! 同じクラスだぞ!」
「やったな」
灘とハイタッチして、俺たちは前後の席に座った。そして新しくなった教師の挨拶を聞いたあと、教科書を取りに行く。
「うげ、また分厚くなってるよ」
「自称進学校って大変だよなあ」
二人して愚痴愚痴言いながら教室に戻ると、女子たちが色めきたっているのが見える。
「なんかあったんか?」
「なー、なんかあった?」
俺が首をかしげてすぐ、灘が声をかけると、知り合いなのだろう、一人の女子生徒が笑顔で答えた。
「今年の一年にめちゃくちゃ綺麗な顔の子がいるんだって! 男子!」
「ほー」
灘が感心したように頷く。俺も一応同じように頷いておいた。綺麗な顔の男子がいようがいまいが俺にとっては興味のない事だったけど。
「休み時間になったら見に行こうって言ってたの」
「お! 俺も着いてっていい? あ、夏希も行こうぜ」
「いいよ俺は……」
呆れ顔で断ってみたけど、灘は俺の肩に腕を回す。
「おいおい、期待の新星だぜ? 一回ぐらい拝んどいて損は無いだろ」
ニヤリと笑う灘に、俺は半目になった。
「拝むって、神社や寺じゃないんだから」
「いいじゃん! な、俺たちも行っていい?」
「いいよー! 夏希くんも一緒に行こ!」
朗らかに笑う名前も知らない同級生に、俺は最後、引き攣った笑顔で頷いた。
そして俺たちは一年の教室がある四階に向かう。すると、件の男子がいる教室の前には既に人だかりができていた。
「やば、やっぱ噂通りだったのかな」
佐原と名乗った女子は他の女子生徒と足早に教室に向かう。
「おーおー、期待できるねぇ」
俺はあからさまに乗り気でない顔で足を進めた。灘のお気楽な言葉にじとっと隣を見る。
「お前らだけで行ってくれよ。俺人混み苦手なんだよ」
適当なことを言って教室に戻ろうとしたが、そうは灘が下ろさない。
「大丈夫大丈夫、一瞬一瞬」
「なんも大丈夫じゃねぇよ」
「硬いこと言うなってぇ」
一年頃、電車通学が苦痛すぎて途中から寮生になった俺にこれである。どうなってんだ。
肩を組まれて教室の前に着くと灘が「ごめんね〜」とダラダラした声で言って最前列をとる。なかなか図太いやつである。こいつは昔からこうだった。なのに人から好かれるのだから、なにかこいつには魔法的な力が働いているのかもしれない。
「お、あっちあっち」
灘が顎をしゃくった先を見れば、そこには肩まで髪のあるウルフカットの男子が女子に囲まれているのが見えた。俺から見ても、その男は確かに綺麗な顔をしていた。浮かべる笑顔は柔和で、外側から見れば穏やかそうな男子に見える。囲まれることにも慣れている様子だった。そりゃあの顔だ。仕方ないよな、と自然に思えるほどだった。
「うおー、ここからでもわかる。イケメンじゃん」
灘が女子と同じように色めきたった声を上げた。
俺は淡々と頷く。
「そうだな」
「おいおいもっといい反応があるだろぉ?」
「これ以上どう反応するんだよ。綺麗だな、それでいいだろ」
その男子の顔が綺麗だろうがなんだろうが俺には関係の無い話である。それより今年から入ってくる新入生の中から俺と同室になる男子が誰なのか、その方が気になった。どうか大人しいやつでありますように。問題を起こさない人間でありますように。お願いしますと、そう祈るしかない。
「んじゃ俺帰るから」
「おい夏希ぃ、名前くらい探っていこうぜぇ」
「いらない」
件の男子に興味が無い俺は、人混みから逃げるように背を向けて、俺は引き止める灘を放置して教室に戻った。
あっという間に放課後になって、俺は部屋に戻る。新入生がここへ来るのは夕方の五時。これから三年間使う布団を抱えて、扉をノックしてくるのだ。
俺は一度掃除機をかけた床にまた掃除機をかけて、窓を拭いて、汚くないかきょろきょろと部屋を見回った。
そして落ち着かなくて、部屋をウロウロし回る。とんでもない悪ガキが来たらどうしよう、とか、騒がしすぎるやつが来たらどうしよう、とか。
あの件の男子と同室だったらどうしようか、とか。
(いやいや、ないない)
そんな奇跡とも言っていいような偶然は起きるわけが無いのだ。俺は一度息を吸って吐いて、勉強机にもたれかかった。落ち着け俺、俺が例外になることなんてない。今までもこれからも俺は普通の一般人で、高校生で、大学生になって、社会人になって、そして老いて死んでいく。可愛いお嫁さんを貰えれば儲けものだ。それくらいしかない。可愛くなくてもいい、素敵な人が現れれば。あばたもえくぼだ。俺もそんなに、褒められた容姿をしてるわけじゃないし。
部屋の時計を見れば、もうあと数分で五時だった。ベッドに腰かけ、目の前のもうひとつのベッドの周りを囲むように置かれたダンボールを見る。ふと思った。それにしては荷物が少なすぎないか? と。
コンコン。ノックの音がする。布団を抱えてどうやってノックしたんだと思ったが、そいつは器用らしい。俺は腰を上げ、部屋の扉を開けた。
「初めまして、目黒朝日です」
「は、」
目を見開いた俺に、そいつは、目黒朝日はまた同じように、柔らかな笑顔をうかべた。
どうやら俺は、例外になる時が来たらしい。
「……目黒?」
「はい」
「……部屋間違えてないか?」
「残念、間違えてないんですよ」
目黒は人好きする笑みを浮かべた。
配布されていた名簿を見て、俺はバレないようにため息をついた。そこには確かに、目黒朝日と名前が書いてあった。どこのクラスで、出席番号も。
「あー、目黒だっけ?」
「はい」
「とりあえず荷解きはひとりだと時間がかかるから、俺も手伝えることあれば言えな」
「ありがとうございます」
そつのない態度に、俺は内心面倒臭いことになったと頭を抱える羽目になった。明日になれば灘にバレて、そこからは芋ずる式に噂は広がっていくだろう。それに、灘にバレなかったところで同じ寮生が目黒の部屋を言いふらす。俺が同室だとバレる。女子に囲まれて胃が痛くなる未来はすぐそこだった。
(いやもう、今から胃が痛いけど)
目黒は俺の手を借りずとも一人で荷解きが出来ているようだった。手際がいいな、ぼんやりした頭で思う。
――「輩、先輩」
「……え?」
気づけば目黒の顔がほんの先にあった。驚いてのけぞった俺に、目黒はなんでもない顔で棚を指さした。
「あそこの空いてる棚、俺が使ってもいいんですよね?」
俺は何度も赤べこみたいに頷いた。
「あ、うん。それはお前が使っていい棚だ よ」
「わかりました、ありがとうございます」
ああ、それにしても本当に綺麗な顔だなと思った。綺麗な二重、薄いけど皮一つ捲れてない唇。ニキビの無い肌。色白で、女子が羨むだろう美白、というやつである。そして身長も高い。俺より七センチは高いだろう。俺も百七十五はあるが、こいつは余裕で百八十ある。もっと伸びるのだろうか。喧嘩になって取っ組み合いになったら負けるのは俺の方だなと思った。取っ組み合いにはならなさそうな相手だけど。
ダンボールを開けて、空っぽになったダンボールを畳んでやったりする。
「すいません、ありがとうございます」
「おう」
笑顔で礼を言う目黒に、俺は違和感を感じながら、それがなんなのか心の名で探っていた。なにか、何か違う。いや、違わないけれど、まるですりガラスの向こうを見ているような気分になるのだ。
俺が考え事をしているうちに、目黒はダンボールを全て開けてしまった。一時間もたっていなかった。
「これからよろしくお願いします」
正座しながらにこやかな顔で頭を下げる目黒に、俺は自然と口を開いた。失言とも気づかず。
「お前なんか、笑顔不自然だな」
「……はい?」
やばい。瞬時に自分の言ったことを理解して、口にした本人の俺が冷や汗をかいた。これから同居していくのにとんでもない発言をしてしまった。
笑顔が不自然。そんなこと言われて喜ぶヤツはまあ居ないだろう。でもそれが俺の本音だった。
目黒はぽかんとしたように口を開けていた。イケメンは間抜けな顔も可愛く見えるのだなと、状況にそぐわぬことを思った。でもすぐに、困ったような顔で頬をかく。
「すいません」
「いや、俺こそごめん。やだよな、そんなこと言われて、先輩相手だし気遣うよな」
「いや、その」
ふと、目黒の顔から喜怒哀楽が抜け落ちていった。表情がまっさらな紙のように、空白になる。俺は息を飲んだ。
「自分の部屋でまで無理する必要ないか」
「目黒……?」
恐る恐る声をかけると、真顔の目黒が「なんですか」と返事をする。
「あー、お前の素ってそれ?」
フラットな声に聞こえるように気をつけた。面白がりもせず、不機嫌になることも無く、馬鹿にするでもなく。ありのままでいい。自分の帰る場所でさえ愛想良くしていないといけないのは、辛いだろうなと思った。俺には分からない世界の話だが。
「はい、言いふらします?」
淡々とそんな言葉を紡ぐ年下の子坊主に、俺は首を横に振った。そんな落ちぶれた人間にされるのは嫌だった。
でも、この男はどこでもそうだったのかもしれない。素の自分を見せられない、見られたら……。そんな世界にいたのだろうか。
「いや別に」
「良かった、先輩ならそう言ってくれるかなって」
安堵して、でもどこか信じていないような目黒に、俺はどこか始まる波乱を予知するような気分になった。それに、いつの間にか少し信頼を得られていたらしい。何故かは分からない。
「先輩の名前は?」
「夏希望」
「夏希先輩?」
「好きに呼べばいい」
「じゃあ望さん」
もっと距離を取られると思っていた俺は、驚いて「なんで?」と素直に口にしてしまった。
「なにがですか?」
「いや、下の名前」
「ああ、望さんとは仲良くしたいなと思って」
本当にそう思ってるか? と思うほど淡々とした声だった。
俺は曖昧に頷く。
「いや、あー、うんいいよ。俺はなんて呼べばいい?」
「好きに呼んでください」
「じゃあ目黒で」
「はい、よろしくお願いします、望さん」
目黒はほんの少しだけ、口角を上げた。
それが、俺と目黒の出会いだった。