準備中の舞台袖にまで、体育館に集まる生徒のざわざわした声が聞こえる。

「お待たせしました」


 マイクを通して聞こえた声はまさかの青山だった。ここからでは何も見えないが、これまでの二、三年生が歌やゲームをしてくれていた進行を思うと、表舞台の隅に立ってマイクを手にしているのだと思った。青山の声が聞こえると、ざわざわした声は一気に静まり返った。

「一年、実行委員の青山です。本日は一年の僕たちのために歓迎会を開いていただきありがとうございました。最後に感謝の気持ちを込めて、一年を代表して二村樹くんが二、三年生の皆様へ歌をプレゼントします。宜しくお願いします」

 私は樹を見る。樹は青山の言葉を聞くと私を見ることなく、舞台に置いてあるキーボードに向かって静かに歩いていった。
 静まり返る体育館に緊迫感を抱く。私は樹を見つめていた。
 樹は黙ったままキーボードの前に辿り着くと、落ち着いた様子で椅子に座った。
 全校生徒が樹に注目している。樹に緊張した様子はない。ただ雰囲気が普段話してる感じとやはり違う。
 樹がキーボードにゆっくりと手を置く。置いた瞬間、音は心に響いていた。一瞬止まった……かと思えばまた次々と響いてくる。樹の弾くキーボードの指はまるで雨が次々と地面に落ちるように鍵盤を叩き、はじいていく。雨が落ちるような音が鳴る瞬間は優しい。樹の声はその雨の中でそっと光となって現れた。最初はそっと現れて、真っ直ぐな思いが強く温かく綺麗な光に変わる。その光は目を遮るほどの眩しさではなく、柔らかく温かい。心にまで届く光は心地いい。いつの間にか樹の作り出した世界に入り、もう抜け出せない。綺麗な光がこだまする世界の中で、私は樹から目が離せなくなった。
 光はすっと柔らかく消えた。短い曲ではなかったのにあっという間に終わった。柔らかく消えても、温かな気持ちは色褪せず強く残ったままだ。
 体育館は静まり返っていた。樹は椅子から立ち上がると、黙ってお辞儀をしている。ふと気がつき見ると、私の隣には青山が立っていた。樹を黙ったまま前を見ている。

「二村樹くん。ありがとうございました」

 三年の実行委員の声がした。青山のマイク当番は最初だけだったようだ。樹がお辞儀から顔を上げる。
『ありがとうございました』の声で、私は我に返る。
 誰一人として拍手がない。
 嘘……と私は動揺するが、樹は特に表情を変えず堂々とした態度で立っている。青山の無茶振りで舞台に立ってミスなくやりきって、拍手が一つもないこの空間で動揺してもおかしくないのに、樹は冷静だ。
 せめて舞台裏に帰ってきたら何か樹に言葉をかけよう。いや、私と青山の二人で樹を励まそうと思った。でも無理やり誘った二人が言葉をかけたところで、樹は笑ってはくれないかなと落ち込む……その時だった。体育館に全生徒の大きな歓声と拍手の音が響き渡ったのは。

「最高!」

と声が響き、樹は驚いて立ち止まった。舞台裏から樹の姿を見て外の様子が気になった私は舞台にあるガラスの小窓から外の様子を見た。生徒が全員立ち上がり、歓声をあげ樹に拍手を送っていた。私は思わず両手に口をあてた。あまりの驚きに後ろに一歩下がってしまう。
 樹の歌を聞いて、こんなにたくさんの人が笑顔になっている。
 樹の声がみんなの心に響き、歓声が上がる世界。
 そう、これが私の見続けたい世界。
 小窓から後ろに下がると軽く青山にぶつかってしまい、よろめいた私を青山がとっさに支えようと手を出した。倒れそうになり私がはっとして自分で体勢を持ち直すと、青山は少し笑っていた。

「……青山」

「ん?」

「ありがとう。青山」

「な、大丈夫だっただろ?」

 青山は相変わらずの自信で笑い

「まぁ俺は何もしてないんだけど。良かったな、樹がみんなに認められて。菜穂ちゃんはそれが嬉しいんだよね」

と言った。青山の言葉に、私は少し泣きそうになりながら何度も頷いた。
 青山は私の頭をそっと撫でてくれた。
 私はもう一度、小窓を見る。
 この世界がどうかこれからも樹のもとで続きますように。
 舞台を見ると、樹は全生徒のほうへ向いたままもう一度頭を下げ、落ち着いた様子で微笑んでいた。

ーー

「二村、人気者になっちゃったね」

 教室で小絵は自分の席につき、後ろから私に話しかける。少し向こうで囲まれている樹は、舞台に立っていたあのキリッとした表情の樹ではなく、いつもの樹に戻っている。私はその様子を何となく立ったまま眺めていた。

「樹の歌が愛されて、良かった」

 私がほっとして言うと

「私は嫌だな」

 小絵は机に頬杖をつき、即答した。

「どうして?」

「何か二村が遠くに行っちゃう気がする。菜穂は寂しくないの?」

 遠くにいく。
 側からいなくなる。

「寂しく、ないよ」

 樹が夢を叶えて羽ばたいていくなら、私はそれでいい。