ノーヴェの魔法により、大陸北部周辺を囲む様に大地は隆起し、一万メートルを超える断崖が出来上がっていた。
 突然それほどの山脈が出来上がれば、上空の気流は激しく乱れるだろう。しかし気流が乱れるどころか、風は完全に流れを止め、大気は淀んでいた。
 まるで切り取られた様に、大陸北部が禍々しい邪気に包まれていた。

 ノーヴェがいなくなり、黒いスライムの増殖は勢いを増した。
 黒いスライムは、全てを喰らい尽くす。大地や植物、虫、動物、あらゆるものからマナを吸い上げた。
 大陸北部から生きとし生けるものが消えうせ、大地は真っ黒に染まった。

 大陸北部上空には、女神の体を乗っ取った邪神から、禍々しい邪気が放たれる。上空から大地へと溢れる様に、邪気が広がる。そして上空から広がった邪気は、黒いスライムと繋がる。

 こうして、大陸北部全体は悪意が包んだ。

 ノーヴェは群がる黒いドラゴンによって倒された。スールにより大陸西部に運ばれたノーヴェは、風の女神から治療を受け命を繋いだが、しばらく意識が戻る事は無いだろう。 

 大陸北部は終焉を迎え、邪神の手に落ちた。
 大地から著しくマナが失われば、相対的に女神ミュールの力も失われる。それは、誰が何の為に行った事なのだろう。
   
「僕を怒らせて、冷静さを失わせようとでも考えたんだろうけどね。拙いね。弱い奴はこれだから困るよね。見なよこの状況をさぁ。これでも、お前は普通にしていられるのかい? さぁ、怒りなよ! 憎しみなよ! 僕を二回も消滅させたって? 笑えるよね! 東の地で、ミュールの眷属をどれだけ取り込んだと思っているんだ? 僕をロメリア如きと一緒にするなよ」

 邪神は口角を吊り上げて笑みを深めた。見るも残酷な程に、美しい女神の顔は酷く歪む。
 ただ、冬也が見ていたのは、女神の外見では無かった。その内にある女神の神格。
 
「その割には水の女神の神格は、黒く染まってねぇな。それじゃ前と同じだろ! 取り込めてねぇよな」
「時間の問題だよ、直ぐに染めてやるさ! ただ、お前は邪魔だからね。少し癪だけど消えて貰うよ」

 邪神は悪意を膨らませる。邪神は邪気を放つ。邪神は澱みを増大させる。

 黒い影が邪神から伸びた。一本、二本、三本と数は増える。黒い影は触手の様に、蠢いて冬也を襲う。

 数本の触手が襲おうと、冬也の敵では無い。何せ数千にも及ぶ黒いドラゴンを、一瞬で消滅させたのだ。
 神剣を振るうまでも無い。黒い触手は、冬也が纏う神気で消えうせ、傷付ける事さえ出来なかった。

「それが、お前の奥の手か? 前と変わんねぇ上に、俺に届いてもいねぇな」
「はは、はははは! だから半端だって言うんだよ! 気が付かないのかい。もうここには、僕とお前しかいないんだよ」

 冬也は、邪神が何を行ったのか気が付いていなかった。直ぐに気が付けば、対処のしようもあったかもしれない。
 
「見えて無いのかい? 半端者の上に愚か者だね。もうここには、誰も入って来ない。あのペスカという小娘や風の女神、山の神もね!」

 これが全て邪神の企みだとすれば、鮮やかだと言わざるを得ない。
 大陸東部で力をつけ、顕現に至る。そして分体を女神の中に潜ませ支配を行う。その後、黒いスライムを増殖させる。

 黒いスライムを増殖させるのは、ノーヴェをおびき出す罠ではない。寧ろ、ノーヴェは撒き餌なのだ。
 大陸や原初のドラゴンの危機には、必ずロメリアを倒した兄妹が現れる。そのどちらか一方でも、この世界から切り離せば、これからの戦いは有利となる。

 大陸北部を悪意が包み込んだ時、冬也は気がつくべきだった。大陸北部を包み込んだ悪意は、結界の様に作用する。歪んだ力の結界には、誰も入り込めまい。

 冬也が周囲を探った時には、もう遅かった。邪神が指を鳴らすと、冬也の視界は暗転した。

「じゃあ、さようなら混血!」
 
 ☆ ☆ ☆

 ペスカの指示で、大陸北部に急いでいたスールは、直ぐに事態の異常に気が付いた。冬也と繋がっていた神気のパスが、途端に途切れたのだ。
 そして大陸北部には、結界の様なものが張り巡らせており、スールが入る事は出来ない。

「主!」

 スールは結界に向けて、極大な神気を乗せたブレスを放つ。四大魔獣を簡単に浄化した神気のブレスも、結界を壊す事は出来なかった。
 次にスールは助走をつける。そして、マッハを越えたスピードで、結界に体当たりをする。神気を纏い音速を超える速度での突撃だ、その衝撃は大陸北部など塵芥と化すだろう。
 しかしその攻撃すら、僅かに結界へひびを入れる事が出来なかった。 

「何が起きている? 主!」

 繋がりが途絶えた時点で、自分の主人が窮地に立たされている事を、スールは悟った。その窮地に駆け付けられない事に、憤懣やるかたない思いをスールは感じていた。

 スールが冬也を主として認めたのは、ただ記憶の片隅にある女神の言葉に従った訳では無い。仮に眷属と成らざるを得ない状況であっても、スールには原始のドラゴンとしてのプライドがある。
 もし主となる者を認める事が出来なければ、簡単に従うはずが無い。だが冬也を見た瞬間、自分の体に流れる力が、誰から齎せれたのか理解した。
 そして冬也とペスカに、命を救われたのを理解した。何より、平伏したくなるほどの強い力を、冬也から感じた。
 
 スールは、何柱もの神を見て来た。神がどんな存在かを良く知っている。それ故に、冬也から感じる神気は、強くも優しい。
 神の血を引くただの人間。それにも関わらず、原初の神にも劣らない強い力。そして神々とは明らかに異なる、優しく包み込まれるような力。
 スールにとって、崇拝に値する存在であった。

「主に限って万一の事は有るまい。だが……」

 スールは、事態のあらましを聞いている。
 山の神が大陸の東から逃げ帰るしか出来なかった事。風の女神と水の女神に悪が植え付けられ、自ら封印せざるを得なかった事。原初の神が三柱もいて、成す術なく撤退した異常な事態なのだ。
 
 現状を知るだけに、スールの憂慮は尽きない。ふとスールの頭にペスカの存在が過る。だが、スールは頭を振った。
 
「ペスカ様に甘える事が出来る事では有るまい。儂は冬也様の眷属。我が主は、これしきの事には負けぬ。ならば儂が挫ける訳には行かぬじゃろう」

 急く心を抑えて、スールは高く飛び上がる。そして、強烈なブレスを放った。

 一方、この事態を感じ取った風の女神は、眉根を寄せていた。そしてペスカに近寄る。

「あんた。何も感じないのかい? あたしらの時と同じだ。いや、あの時よりも状況は最悪だよ! 冬也の奴が嵌められた」
「えっ……」

 兄に何が起きたのか。ペスカは言葉を失った。そして蒼白となった。一瞬、思考が停止した。

 一瞬の停止を経て思考を再開したペスカは、冬也の神気を探す。しかし何も感じない。あの温かい神気を感じない。
 
「姐さん!」
「助ける方法は無いよ。少なくとも今の私やベオログでは、結界すら壊せない。反フィアーナ派の連中は、冬也を取り込もうとでも思ったのかね」
「呑気な事を言ってる場合?」
「言ってる場合だよ。どうせ、あたし達では何も出来ないんだ。あたし達は、やれる事をやるしかないだろ! あいつの妹なら、ちゃんと信じてやりな!」

 動揺するペスカを落ち着けるかの様に、風の女神は声を荒げる。しかし、ペスカは動揺したまま、直ぐには動けずにいた。

 兄の窮地には常に自分がいた。自分の窮地には常に兄がいた。しかし今、兄の傍には自分はいない。
 兄がいたから、どんな困難も乗り越えて来た。どんな窮地も怖く無かった。

 兄が傍にいない事。兄を失うかもしれない事。それは、ペスカの心を酷く揺るがせる。それは、ペスカが初めて感じる不安と恐怖であった。

 ロイスマリアを訪れて、最大の危機が兄妹を襲う。悪意は残酷に蝕んでいく。運命を、命を、そして魂を。