奏のものが壊されることは、あれから続いた。
 メトロノームだけでなく、チューナー、譜面台、楽譜が入ったファイルなど、フルート以外の部活関連の道具が壊されたり捨てられたりしていたのだ。
 確実に奏に対して向けられた悪意である。

「かなちゃん、大丈夫?」
 響はそれを知り、心配そうに奏に話しかける。
「はい。フルートは無事なので、問題はないです。それに、楽譜を見ずに文化祭の曲は全て演奏出来ますから。全部覚えていますし」
 奏は気にした様子はなく、フルートを組み立てる。
(でも、悪意を向けられるのってキツイからな……。俺もかなちゃんを守りたい)
 響はグッと拳を握り締めた。
「ただ、チューナーが壊されたのは、少し困りますね。彩歌も今日は図書委員会の集まりで部活に遅れますから、借りるのも難しいですし」
 奏は困ったように苦笑した。
「じゃあ俺が確認しようか? 一応俺、絶対音感持ってるけど」
 響は少し得意げな表情だ。
「そうでしたね。響先輩、絶対音感のお陰で昔からピッチ合わせは得意でしたね。じゃあ、お願いします」
 奏は昔を思い出し、ふふっと柔らかく微笑んだ。

「響先輩」
 響が個人練習をしている教室にやって来た奏。
「かなちゃん、ピッチ合わせ?」
 響が少し嬉しそうに笑うと、奏は頷く。
「お願いします」
 奏は早速フルートのチューニング音を出す。

 奏の優雅な音が響くと、響の脳内に宝石のような星空が広がる。

(かなちゃんの音だ。でも、ピッチはちょっと高い)
 響は微妙なピッチの違いに気付く。
「かなちゃん、ピッチ少し下げよう」
「はい」
 奏は少しフルートの頭部管を調整してもう一度チューニング音を出す。
「うん、バッチリ」
 響は明るくニッと笑う。
「ありがとうございます。助かりました」
 奏はそのままフルートの個人練習の教室に戻ろうとするが、響は少し寂しくなり思わず奏の手をつかんで引き止めてしまう。
「響先輩?」
 奏は驚いて振り返る。
「あ……ごめん」
 顔を赤くして響は慌てて奏の手を離した。
「いえ。……どうしました?」
 奏は困ったように微笑む。
「いや……その……かなちゃんもう文化祭の曲の全部覚えたって言ってたし……休憩しても良いんじゃないかなって思って。ほら、今クラリネット俺以外全員休憩で外行ってるし」
 しどろもどろになりながら、響は奏を引き止める理由を探していた。
「……まあ、そういうことでしたら。彩歌もまだ図書委員会の集まりで来ていませんし」
 奏は少し考える素振りをし、教室の空いている席から椅子を持って来て響の近くに座る。
 響はホッする。それと同時に奏と過ごす時間が増え、嬉しそうに表情を綻ばせた。
 その時、開けていた窓から冷たい風が入り、奏がぶるりと震えた。着ていた紫色のカーディガンの袖を伸ばす。
「何か、今日ちょっと寒いよね」
 響も黄色いカーディガンのまくっていた袖を戻し、窓を閉める。
「はい。なぜか気温下がってますよね」
 奏は苦笑した。
「あのさ、かなちゃん。文化祭、俺のクラス執事&メイド喫茶やるんだ。男子が燕尾服着て、女子がメイド服着るやつ。良かったら来てくれないかな?」
 やや緊張気味な響。声が少し掠れてしまう。
「執事&メイド喫茶……楽しそうですね。はい、絶対行きます。多分彩歌も一緒に行くと思いますけど」
 奏は楽しそうに表情を綻ばせた。
「一年は模擬店とか何もしないので、二年になって模擬店出すの、今から楽しみになってます。もちろん、初めての高校の文化祭も楽しみです」
 奏は文化祭に思いを馳せていた。
 模擬店を出すのは二年生になってからである。
「そうだね。クラスの準備とか、まあ非協力的な人もいるけど何だかんだ楽しいよ。看板作ったり、衣装合わせたりとかさ」
 響は明るい表情だ。
「それとさ、セレナさんが男装コンテストに出るの知ってる?」
「それ、初耳です」
 響からの情報に、奏は面白そうに目を丸くした。
「何か、最近流行ってる漫画原作のアニメあるじゃん。鬼と戦うやつ」
「はい、知ってます」
「それに登場するキャラのコスプレして出るらしい」
「それ見てみたいです。セレナ先輩の男装、絶対見に行こう」
 奏はワクワクとした様子だった。
 響は奏の表情を見て、嬉しそうである。鼓動の高まりと楽しさが丁度良い塩梅だ。
(かなちゃんとのこの時間、ずっと続いて欲しい)
 響はそう願うのであった。

 そんな二人の様子を面白くなさそうに見ている者がいた。
 詩織である。
「……何なのあれ? 何で小日向先輩と楽しそうに喋ってんの?」
 低い声の呟きは、他の楽器の練習音にかき消されるのであった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 その日の部活終わりにて。
「彩歌、私、音楽室に定期忘れたみたいだから、先に昇降口行っておいて」
「分かった。じゃあ先行ってる。鞄預かろうか?」
「ありがとう、お願い」
 奏は綾に鞄を託し、音楽室に忘れ物をしたので取りに戻った。
「あれ? 大月さん、帰ったんじゃなかったっけ?」
 まだ音楽室でファゴットを片付けていた律は不思議そうに首を傾げていた。
 音楽室にはまだちらほらと部員達が残っている。
「音楽室に定期を忘れていたの。……あった、これだ」
 奏はすぐに鞄に入れ忘れたノートを取る。
「すぐ見つかって良かったね。定期失くしたらヤバいから」
 律は安心したように表情を綻ばせる。
 その時、律は譜面台を倒してしまい、置いていた楽譜がバラバラになってしまう。
「うわ、最悪だ」
 律は苦笑する。
「手伝うよ、浜須賀くん」
 奏はすかさず律の楽譜を集める。
「ありがとう、大月さん」
 律は申し訳なさそうに微笑んだ。
「音楽室閉めるから今残ってる人達は準備室の方から出てね」
 三年生の先輩がそう言い、音楽室の鍵を閉める。
「うん、楽譜全部ある。助かったよ、大月さん。ありがとう」
 律は爽やかな笑みを奏に向ける。
「良かった」
 奏は安心したように表情を綻ばせた。
 音楽室に残っているのは奏と律だけである。
 奏と律は音楽準備室の方から出ようとする。
 日が落ちてきた頃の音楽準備室は薄暗く、少し不気味だった。
「あれ? ドアが開かない……」
 奏は音楽準備室のドアを開けようとするが、ガタガタと音がするだけで全く開く気配がない。
「え? 俺開けてみるね」
 不思議な思った律がドアを開けようとする。しかし、奏の時と同じようにガタガタと音がするだけで全く開かない。
「鍵は内側から開けられるから、もしかして何か挟まってる?」
 怪訝そうな表情の律。
「とりあえず、音楽室の方から出よう。後で職員室から音楽室の鍵を借りて締めに行けば良いと思うから」
 奏は冷静にそう考え、音楽室に戻ろうとする。
「待って……。こっちのドアも開かない……。何か挟まってる」
 何ともう片方の、音楽室側に繋がる扉もガタガタと音が鳴るだけで開かなかった。
「嘘だろ……」
 律は驚愕する。
 その時、律はパタパタと誰かが廊下を走る足音を聞いた。
「誰か外にいる! すみません! 開けてください!」
 律は外に向かって大声をだし、廊下側のドアをドンドンと叩く。
 しかし、誰も来ない。
「浜須賀くん……?」
 奏は少し不安になる。
「ごめん、外にいる誰かには気付いてもらえなかったみたい」
 苦笑する律。
「大丈夫。そうだ、私、彩歌待たせてるから連絡したら……。ごめん、スマホ、彩歌に預けた鞄の中だった」
 奏はポケットに手を入れたが、スマートフォンを鞄に入れていたことを思い出す。
「じゃあ俺のスマホで……。ごめん、こっちは電池切れ……」
 何と律のスマートフォンも使えない状態だった。
「こんな時に限って。大月さん、本当にごめん。俺が楽譜ぶち撒けなかったらこんなことにはならなかったよね」
 律は申し訳なさそうな表情だ。
「浜須賀くんのせいじゃないよ。……とりあえず、警備員さんの見回りの時に開けてもらおう」
 奏は冷静さを取り戻していた。
「そうだね。でも……さっきの足音、気になるな……」
 律は考え込む。
「足音?」
 奏は首を傾げた。奏には聞こえなかったのだ。
「実はさっき、誰かが廊下を走る足音を聞いたんだよ。だから外に気付いてもらえるようにドアを叩いたんだけどさ」
「そうだったんだ。ありがとう、浜須賀くん」
 奏は少しだけ口元を綻ばせた。
「うん。でも、気付いてもらえないことってあるかな?」
 怪訝そうな表情の律。
「うーん……急ぎの用があってそれどころじゃなかったとか?」
 奏は困ったように首を傾げる。確かに、気付かないのはおかしいと奏も感じていた。
「考えたくないけど……わざと……とか」
「そんな……」
 低い声の律に、奏は少し表情を強張らせた。
「うん……。大月さん、最近メトロとかチューナーとか壊されてるよね。もし大月さんを狙ったものだとしたら……」
 律は少し考え込む。
「だとしたら、ごめんなさい。私のせいで浜須賀くんが巻き込まれたことになるね」
 奏は申し訳なさそうな表情だ。
「いや、気にしないで。大月さんこそ、被害者なわけだから」
 律は奏に罪悪感を持たせないような爽やかな表情だ。
(でも……だとしたら誰が……?)
 奏は考えるが、犯人としてあり得そうな人は全く思い浮かばない。
 少し冷えたのか、奏はブルリと震えた。
「今日珍しく寒いよね。俺のカーディガン着ていいよ」
 律は自身の青いカーディガンを奏にかける。
「でも、それだと浜須賀くんが寒くならない?」
 奏は申し訳なさそうに眉を八の字にする。
「俺は平気だから」
 律は爽やかな笑みを浮かべた。
「……ありがとう、浜須賀くん」
 奏はゆっくりと律のカーディガンに袖を通す。
 先程まで律が着ていたので、温もりがダイレクトに伝わる。
 奏は少しだけ安心感に包まれた。
「それにしても、警備員さんいつ来るかな?」
 律は奏から目をそらしながら呟く。
「そうだね」
 奏は近くの棚にゆっくりと手を置く。
 すると、ガタンと音がし、最上段に置いてあったメトロノームが落ちてくる。
「大月さん、危ない!」
 律が奏の体を引いた。
 密着する奏と律の体。お互いの体温がダイレクトに伝わる。
「ごめん、浜須賀くん」
 奏は落ちてきたメトロノームにも、律の行動にも驚いていた。
「いや、こっちこそいきなりごめん。その……怪我とかはない?」
 頬を赤く染めつつも、心配そうな表情の律。
「うん、大丈夫。ありがとう。これ、昼岡先輩のだ」
 奏は落ちた徹のメトロノームを拾って元に戻そうとする。しかし、つま先立ちをして背伸びしても最上段に届かない。
 律はその様子に思わずクスッと笑ってしまう。
「俺がやるよ」
 奏からひょいとメトロノームを取り、最上段に落ちないように置いた。
「ありがとう。身長低いと損だね」
 奏は苦笑した。
「まあ……こういうのは誰かを頼ったら良いよ。……俺とかさ」
 律は奏から目をそらしながらそう言った。
 閉じ込められて不安ではあるのだが、独りぼっちではないので奏はほんの少しだけ安心感を抱くのであった。