いよいよ学校生活が本格的に始まった。
 授業も進み出し、部活も一年生の仮入部期間になっている。
 水曜日の昼休み、響は早々に弁当を食べ終わると、中庭のベンチまで急いだ。
「お待たせ」
「いえ」
 待っていたのは奏だ。
 水曜日の昼休みは図書委員になった彩歌が図書室の当番なので、奏はフリーなのだ。
 彩歌の邪魔も入らないということで、響は水曜日の昼休みは奏と中庭で話すことにしたのだ。

「そういえば、かなちゃん、イタリアでの暮らしはどうだったの? やっぱりピザとかパスタ美味しかった?」
 響は聞けていなかった奏のイタリアでの生活について聞いてみた。
「日本との違いにびっくりしました。でも楽しかったです。ピザとパスタも美味しかったですよ。流石はイタリアって感じでした」
 奏はイタリアで過ごした二年間を思い出し、懐かしそうに微笑んだ。そして話を続ける。
「学校ではイタリア語と英語の授業もあったので、少しは話せるようになったと思います。それに、向こうの子達は自己主張が強いので、私も色々必死に主張してましたね」
 奏は苦笑する。
「かなちゃん、現地の学校行ってたんだ」
「はい。日本に興味ある子とかがよく話しかけてくれましたよ。それと、日本人学校にも通いました」
「そっか。じゃあ休みの日とかは何してたの?」
 響は興味深々な様子だ。
「最初の頃は、両親と散歩したりしていましたね。夏休みはせっかくEU圏内にいるからということで、近隣のフランスやドイツに足を伸ばすこともありました」
「フランスとドイツかあ……何か凄いなあ」
 響は思わず呟いていた。
「それと、オーストリアのウィーンにも。オーケストラを見に行きました」
 奏は懐かしそうに微笑む。
「オーケストラ……」
 響は奏の為に音楽の話は避けていたが、まさか奏の口から音楽関係の言葉が出るとは思っていなかった。
「音の一つ一つに深みがあって、それが綺麗に調和していたんです。まるで、音の海に潜ったような感じ。ずっとそこにいたいとすら思いました。流石は音楽の都ですよ」
 そう語る奏の表情はキラキラと輝いていた。
「そっか」
 響は少しホッとしたように笑う。
「かなちゃん、もしかして芸術科目は音楽選択してたりする?」
「ええ、そうですけど……」
 突然話が変わり、奏は訝しげにうなずく。
「じゃあ……やっぱりかなちゃんは……本当は音楽が好きなんだ。そうじゃなきゃ、ウィーンのオーケストラの話はしないし、選択科目も音楽を選ばないよね」
 響は柔らかな表情で、真っ直ぐ奏を見る。
「私は……音楽なんか大嫌いですよ。選択科目だって、教科書代が一番安かったから音楽にしただけです」
 奏は気まずそうに響から目をそらした。
「そっか……」
 響は敢えてそれ以上言及しなかった。
(かなちゃんは……きっと中一の時のフルートコンクールの失敗がトラウマになっているだけなのかも)
 響はゆっくりと空を見上げる。
 青々とした空は、まるで響にもう少し気長に待てと言っているかのようだった。
「かなちゃん、ごめんね。変な話しちゃったね」
 響は優しげな表情を奏に向けた。
「……こちらこそ、すみません」
 奏はうつむきながら、小さな声で謝るのであった。
(かなちゃんのフルートがもう一度聞きたい。俺のクラリネットとの二重奏もして欲しいけれど……大丈夫、かなちゃんのペースを待とう)
 響はそう決意した。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 翌週の月曜日。
 仮入部期間が終わり、いよいよ本入部となった。
「えー、今年は新入部員が十七人も入ってくれました!」
 三年生の部長が明るくそう言うと、響含めた部員たちが盛大な拍手で進入部員を歓迎した。
「じゃあまず新入部員のみんなは自己紹介と希望の楽器を言ってください」
 部長がそう言うと、新入部員達は誰から言うかざわざわし始める。
「じゃあ俺から行くね」
 一人の新入部員がそう言い、前に出る。
「一年三組、浜須賀(はますか)(りつ)です。中学からファゴットをやっていたので、高校でもファゴットを続けたいと思います」
 長身で爽やかな見た目の律。彼は低音木管楽器ファゴットの経験者だった。
 律を皮切りに、次々と自己紹介する新入部員達。
 今年はフルート希望者が少なかった。
(フルートは今三年が多い。三年が引退したら、フルートはかなり人数少なくなる……。是非ともかなちゃんに入部してもらいたいな。天沢さんって子も、ピッコロ出来るみたいだし)
 響は新入部員の自己紹介を聞きながらぼんやりとそう考えていた。

 新入部員は無事に希望の楽器を担当出来ることになり、この日の部活はパートごとに新入部員の実力を見るのがメインになった。
「小日向先輩」
 響はクラリネットを組み立てていると、不意にある女子生徒から声をかけられた。
 テナーサックスを持つ、ショートカットでやや小柄の少女。童顔でハキハキした印象だ。
「おお、内海(うつみ)か」
 響は懐かしげに表情を綻ばせる。
 響に声をかけたのは内海詩織(しおり)。響と同じ中学出身で、中学時代も吹奏楽部だったのだ。
「高校でも小日向先輩と一緒に演奏出来るんですね」
 詩織は明るく嬉しそうな表情だ。
「またよろしく。内海のテナー、期待してる」
 響はニッと笑った。
「はい!」
 詩織は頬を赤く染め、嬉しそうに、俄然やる気に満ちあふれたように頷いた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 水曜日の昼休み。
 響は奏と過ごす時間を確保する為、急いで弁当を食べる。
「響、先週もそうだったけど、水曜だけやたらと食べるの早いな」
 部活もクラスも同じ友人である風雅がパンを食べながら苦笑する。
「まあ……ちょっとな」
 響は曖昧に誤魔化すような返事をし、弁当に入っていたブロッコリーを食べる。
「もしかして、女の子との約束とか?」
 ニヤリと意味ありげに笑う風雅。
 響はブロッコリーを喉に詰まらせて咽せた。
「おいおい、響、大丈夫か? もしかして図星?」
 心配しつつも、ニヤニヤとした表情のままの風雅。
 奏のことは、小夜とセレナ以外には言っていなかったのだ。
「まあ……そうだけど……幼馴染だよ」
 響は水筒のお茶を飲み、風雅から目をそらす。
「幼馴染……ね。先週からのソワソワし具合を見る限り、お前、その子のこと好きだろ?」
 見透かすかのような表情の風雅。
 響は黙り込む。
 こういう時、風雅に何を言っても敵わないのが昨年からの経験上分かっている。
「まあ……俺の片思いだけどさ」
 響は少し頬を赤く染めながら白状した。
「そっか。まあ、頑張れよ。ほら、早く食べないとその子との時間減るぞ」
 ニヤリと笑い、響の肩を叩く風雅。
「それに、俺も水曜の昼は図書室行きたいし」
 すると響は意外そうに目を丸くする。
「風雅、あんまり本読まないだろ」
「まあな。でも、水曜の昼休みの図書室の当番の女の子、めちゃくちゃ美人でさ。多分一年の子だと思うんだけど。何かツンツンした態度も可愛く見えて」
 チャラそうにニヤける風雅だ。
(水曜の昼休みの図書室当番で美人の一年……)
 響の脳内に彩歌が思い浮かんだ。
(まさかな)
 響は考えるのをやめ、残りの弁当をかき込んだ。

 ダッシュで中庭のベンチに向かったが、まだ奏は来ていない。
 響がベンチに座り少し経過した時、奏の姿が見えた。
「すみません、お待たせしました。彩歌が図書室の当番行きたくないとごねていまして」
 申し訳なさそうに苦笑している奏。
「何か先週チャラそうな先輩に絡まれてウザかったらしいです」
「チャラそうな先輩……」
 響の脳内に先程の風雅の様子が思い浮かぶ。
(まさかな。いや……もしかして)
 何となく自身の想像が正しいような気がした。
「かなちゃん、放課後は真っ直ぐ家に帰ってるの?」
 響は奏の方に身を乗り出している。
「そうですね。時々彩歌と駅前のショッピングモールを探索しますけれど、基本的にあまり寄り道せずに帰っています」
 奏は大人びているが、柔らかな表情である。
「そっか。まあうちの高校の最寄駅、若干ショボいよね」
「はい。まだ私の家の最寄駅の方が栄えてます」
 奏は苦笑した。
「そういえば、かなちゃん、イタリアから戻った後はお祖父(じい)さん達と一緒に住んでるんだよね? 家どの辺なの?」
 響は聞けていなかったことを聞いてみた。
「えっと、前住んでいたマンションからはかなり離れていて……」
 奏は響に最寄駅を教えた。
「そこに住んでるんだ。俺、まだあのマンションに住んでるけどそこそこ離れてるね。まあ同じ市内だからすぐ行けるけど」
 響は奏の住む地域を知り、スマートフォンの地図アプリで確認した。
「私の両親も、響先輩のご両親と会いたがっていましたし、もしたら予定が合う日に招待するかもしれません」
 ふふっと笑う奏。
「多分それうちの親楽しみにしそう」
 響はクスッと笑った。
 音楽の話をしなければ、奏とは穏やかな時間が過ごせる響だった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 その日の放課後、奏は担任との個人面談でいつもより遅くまで学校に残っていた。
 一年生は四月に担任と中学時代はどんな生活をしていたか、学校生活には慣れたか、心配事などはないかなど、話す時間が設けられているのだ。
 面談が終わり、視聴覚室から出た奏。
(彩歌待たせてるから、急がないと)
 彩歌は面談がある奏を待ってくれているのだ。
 奏は急いで昇降口に向かおうとする。
「きゃっ」
「うおっ」
 急ぐあまり、奏は誰かとぶつかった。
 その反動で、奏は倒れかける。
 しかし、ぶつかった相手が奏を支えてくれた。
 その際、相手は持っていたものを全て手放したので、ガチャンと派手な音が響く。
「大月さん、大丈夫?」
 頭上から心配そうな声が降ってくる。
 声の主は奏のクラスメイトで吹奏楽部の律だった。
「浜須賀くん……」
 奏は驚いたように目を見開く。
 床にはメトロノーム、チューナー、譜面台と楽譜を挟んだファイルだった。
「あ……ごめんなさい……!」
 奏は慌てて床に落ちた律のものを拾う。
「楽器は無事だから、大丈夫だよ」
 律は爽やかに微笑み、ストラップで首にかけてぶら下げているファゴットを見せる。そして落ちたメトロノームを拾って動くか確かめる。壊れてはいないみたいだ。
「本当にごめんなさい」
 奏は申し訳なさそうな表情だ。
「大月さん、大丈夫だから、気にしないで。メトロ(メトロノームの略)もちゃんと動くしさ」
 奏を安心させるような表情になる律。
「なら……良かった」
 奏はホッとしたように表情を綻ばせた。
「大月さん、帰宅部だったよね? 何でこの時間まで残ってるの?」
 不思議そうに首を傾げる律。
「担任との面談があったの」
「ああ、大月さん、面談今日だったんだ。俺は明後日だ」
 面談の日程を思い出し、ハッとする律。
「そっか。浜須賀くんは……吹奏楽部なんだね」
 奏はうつむき、無意識のうちに左手で右手を押さえた。
「うん。ファゴット担当。今から全体合奏だから音楽室に戻るところ」
 律は爽やかに笑い、ファゴットを見せる。
「……そうなんだ。頑張ってね」
 奏は少しぎこちなく微笑んだ。
「ありがとう。じゃあまた」
 律は軽く手を上げ、音楽室に向かった。
 その時、律のポケットから青いハンカチが落ちる。
「あ……」
 奏はそれに気付き、ハンカチを拾う。
(音楽室……。吹奏楽部……)
 奏は律を追いかけようとしたが、吹奏楽部の部員達がいる音楽室に向かおうとすると足が動かなくなった。
(……洗って明日返せば良いよね。それに、彩歌待たせてるし)
 奏は言い訳をするように、そのまま彩歌が待つ昇降口へ向かった。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 翌日。
 奏は彩歌と共に登校していた。
「そういえば奏、水曜の昼休み、あたしは図書委員の当番だけど、奏はその間何してるの?」
「えっと……」
 奏は少し言い淀んでしまう。
 響と会っているのだが、彩歌は響を良く思っていないのだ。
「幼馴染と話してる。この前私を吹奏楽部に勧誘した男子の先輩は私の幼馴染で……」
 それでも奏は彩歌に嘘を吐きたくなかったので、響との関係を正直に話した。
「あのクソ野郎と!? 奏、大丈夫なの!?」
 響への怒りと奏への心配で彩歌の表情は大忙しだ。
「うん。特に何かされたわけじゃないよ。だから安心して」
 奏は彩歌を落ち着かせる。
「……奏が傷付いてないなら良いけど」
 彩歌はムスッとしていた。そんな彩歌に対し、奏は苦笑する。そのまま学校に到着し、二人は一年三組の教室に入る。
(あ……浜須賀くん、もう来てる)
 律は自分の席で本を読んでいた。
「奏、どうしたの?」
 彩歌は不思議そうに奏を見ている。
「うん。実は昨日、浜須賀くんのハンカチ拾ってね」
 奏は律の青いハンカチを出す。昨日家に帰った後洗ってアイロンをかけたものだ。
「浜須賀の……」
 彩歌はやや不機嫌そうに読書中の律に目を向ける。
「……まあ、浜須賀は……多分このクラスの男共の中ではマシかも」
 不機嫌ながらも、嫌悪感は抑えている彩歌だった。
「相変わらず彩歌は男子嫌いだよね」
 奏はそんな彩歌に苦笑した。
「だって男なんて自分が楽しければこっちがどうなろうとお構いなしだからさ。本当ウザいし最低。中学の時だって男子全員そうだったじゃん」
 ムスッとしている彩歌。それでも美人である。
「そっか。まあ全員そうってわけじゃないけど……彩歌は大変だったね」
 奏は苦笑した。
「とりあえず奏、浜須賀にハンカチ返して来たら?」
「うん。そうする」
 彩歌に促され、奏は律の席に向かう。
「浜須賀くん、おはよう」
「ああ、おはよう、大月さん。どうしたの?」
 律は目の前の奏に目を丸くする。
「昨日、ハンカチ落としたでしょう」
 奏は丁寧にたたんである青いハンカチを律に渡す。
「あ、失くしたと思ってた。洗濯とアイロンがけまでしてくれたんだ。ありがとう、大月さん」
 律は爽やかに微笑む。
「うん、じゃあ」
 奏はハンカチを返し終わると柔らかく微笑み、彩歌の元へ戻る。
 律は奏の笑みをみて、ほんのり頬を赤く染めていた。
「大月さん……か」
 律は彩歌と談笑する奏を見て、ほんのり口角を綻ばせていた。





♪♪♪♪♪♪♪♪





 数日後。
 響は部活に向かおうとしていた。
「ちょっと!」
 その時、鋭い声に呼び止められる。
 聞き覚えのある声だった。
 声の方を見ると、そこにいたのは彩歌。
「えっと……天沢さん……だよね。かなちゃんの友達の……」
 彩歌に若干の苦手意識を持つ響の表情は、やや引きつっていた。
 彩歌は般若のような表情なので、思わず後ずさりする響。
「そうだけど。ていうか、奏のこと馴れ馴れしくかなちゃんって呼ぶんだ」
 ギロリと響は彩歌に睨まれ、更に後ずさりする響。
 まるで蛇に睨まれた蛙だ。
(天沢さん、ちょっと怖い……。でも、この子はかなちゃんの友達だ。好きな人の……大切な友達……)
 響はゆっくり深呼吸をし、彩歌と向き合う。
「あたし、あんたが水曜の昼休みに奏と会ってるの知ってるんだから!」
 不機嫌そうな声の彩歌。
 その時、響は初対面で彩歌に言われたことを思い出す。

『はあ!? 吹奏楽部!? あんたそんなのに奏を勧誘しようとしてたの!? 奏を傷付けんな! このクソ野郎が!』

「うん。だけど、あの子を、かなちゃんを傷付けるつもりはないよ」
 響は覚悟を決め、彩歌を見る。
(かなちゃんに吹奏楽部に入って欲しい。あのフルートの音をもう一度聴きたい。かなちゃんと一緒に過ごすなら、多分この子と関わる機会も増える。逃げずに向き合おう)
 響の表情は凛としていた。