僕が、我妻愛斗という男に出会ったのは、兄である空が自殺未遂を図り入院した頃だ。
 受験勉強のストレスを兄にぶつける日々。何も言い返さないサンドバックのような空っぽさに何を言ってもいいとさえ思えた。
 それが、自殺の原因だと思うと居た堪れなかった。
 謝らねばと焦り、病室をエントランスで聞くが、断られた。
 空の弟だからいいだろと怒鳴るものの通じなかった。
 受験勉強もしなければならないのに、この状況で勉強に身が入るわけがなかった。
 何度かごり押ししたけれど、病室どころか何階にいるかもわからない。
 苛立ちを隠すこともしなかった。
 正直、面倒なことをしてくれたとさえ思う。
 病院から出ると兄と同じ制服を着る男子の姿があった。柱にもたれ、まるで誰かを待つように。
 しかし、そいつは、僕に声をかけてきた。
「邪魔だ、消えろ」
 ぶっきらぼうにそいつに言う。脅しになるだろうかと思ったけれど、年上だからか全く反応はなかった。
「そんなこと言うから、君の兄は自殺を図ったんじゃないか?」
 誰かも知らないそいつは、僕にそう言った。
 背筋が凍った。こいつは、なんだ?なんで、そんなことを?
「君さ、病院であんなに怒鳴れば、誰だってわかる」
「聞こえた?」
「もちろん。君、名前は?」
「言うわけないだろ」
「大柄な態度なことで」
 煽られたのもあって拳を振るう。
 だが、彼はスッと避けると関節技を決めて腕を後ろに捻り、動けなくしてきた。
「弱い人ってさ、強く見せたがるよね。君は、その典型だ」
「離せ」
「名前教えてくれたら、いいよ」
「……陸だ」
 パッと離してくれた彼と距離を取る。また関節技を決められたら困る。
 なんだか、こいつは容赦無く関節を外してきそうだと思った。
「俺は、我妻愛斗。よろしく」
 少し、いい?と話を持ちかけてきた。
 彼は、奢ると言い、飲食チェーン店に向かった。
 二人で席を取ると、彼は口を開いた。
「どうして、病院であれだけ怒鳴ったの?もっとやり方があっただろうし、あれじゃあ、帰される」
「……そんな暇がない。僕は、受験生だ。偏差値の高い学校行って大学に行くんだ」
「……君、余裕がないんだね」
「あ?」
 怒りをぶつけるが、それこそが図星だった。
「余裕があれば、そんな返しはしない。そもそも、もっと丁寧に受け答えしておけば、帰されることはないよ」
「じゃあ、なんて」
「簡単だよ。弟です、見舞いに来ました。病室案内できますでしょうか?って感じ」
「……」
「てか、そもそも病室聞いてないの?親いるでしょ」
「母親は、知ってます。だけど、教えてくれない」
「……なんで?」
「わからない」
「君を兄に会わせられないって思ったんだろ」
「……」
「何か、そう思わせるようなことがあった」
 言い返せなかった。見透かされたようで、居心地が悪かった。
「我妻さんは、兄のなんですか?そんなこと言う前に」
「なんでもないよ。委員長やってる。代表して見に行けって」
 そしたら、君が怒鳴っていて行けそうになかったと彼はいう。
 しかし、委員長が嘘だとは気づかなかった。
「じゃあ聞くけど、陸、君はなんでわざわざお見舞いを?君の母親は、君を会わせられないと判断したんだろう?じゃあ」
「勝手に意見を作り上げないでください」
「確かに、状況だけでものを言っているけれど、君はそれが間違いだと否定しないのはなぜ?」
「……」
「間違いなら、病院のように怒鳴ればいい」
 と、ポテトを手に取りもぐもぐ食べている。
「それは」
「君は、過去の行動から信用を失っているんだろう?」
「……」
 見透かされているその意見に、言い返す余地はなかった。
 兄が高校生になり、僕が受験生になった。受験というストレス、家庭環境の変化というストレス。それらは、僕には耐え難く兄に当たった。
 自分が、理不尽なことを言っている自覚がなかった。そして、今はもう頼りにもならない兄の代わりに自分が父親のような存在であるべきだと考えるようになった。
 少し前まで、兄はとても頭が良くて優秀だった。授業でわからないことがあれば、兄に聞いていたくらいだ。
 だけど、父親との不仲でため息をつかれていたり、罵倒されている様を見ると兄は頼りない人なのだと錯覚した。
 学校で、バイトの話になったことがある。
 バイトをしたことがない僕にとって、いい機会だと話を聞いた。
 女子生徒の兄がバイトをしている。三時間は当たり前にバイトしている、掛け持ちをしている、ほとんど家にいないなどの話だ。
 そのバイト代を家族のために使うこともあるらしいが、基本自分のために使うと聞いて贅沢な人だと思った。
 そのお金を家庭に渡せば、家庭が多少潤うだろうに。
 だけど、その女子生徒はそれを望んでいなかった。なんでも、人が働いたお金でとやかくいうのはあり得ないと。
 あり得ないわけがない、言うべきことは言うべきだと思った。
 さらに、女子生徒は、そのお金を使う自由は働くものの権利であると。働いていない人は、使うべきじゃないし、強要するものじゃない。
 まして、働いていない中学生がそれを強要することはあるべき行為ではない。
 聞いている時、きっとこの女子生徒の家庭は裕福なのだろうと思った。だけど、違った。環境は、同じだった。
 だから、女子生徒に相談した。
 兄のバイト代は、家庭に預けられている。それは、止めるべきだろうか?と。
 女子生徒は告げた。『本人が求めていない行いなら、止めるべきじゃない?人が働いたお金だからさ。うちの兄は、家庭のためにお金を出してくれてるだけ。善意だよ。それを、礼もなくもらうのは無礼だよ』
 なんとも達観している女子生徒だった。
 気になった。僕が知らないことを知っていそうだった。
 それからは、直接謝っていないけど、言わないようにした。
 お互いストレスはあるだろうから。家事も掃除も洗濯も全部言わないようにした。
 だけど、言ってしまった今、兄は必死に家事も掃除も洗濯もしていた。謝らなきゃと思った。
 目の前に立って、頭を下げよう。
 なのに、できなかった。
 兄は、怯えた目で僕を見た。いつか父親に見せた目に似ていた。
 あと一歩踏み込んだら、兄を壊してしまうかもしれない。殺してしまうかもしれない。
 悪寒が走って、止めた。
 結局、僕が言ったのは、外の空気を吸ってくる、だった。
 だけど。
「母親にそれが知られた覚えはない」
 その空間にいなかったはず。
「バレないと思うのかよ。幼稚だな」
 我妻は、言い放った。
「言い過ぎじゃないですか」
「言い過ぎだと思えるなら、君がまだ幼稚なだけだ」
「……」
「君の年齢を考えれば、わかるけどね。でも、そんな環境で生きていたなら、言うべきじゃない」
 最低なことだったことは、わかってる。それに謝るべきだってことも、わかってる。
 でも、謝ることをさせてくれない。
 仮に母親そう言ったのなら、僕の謝る機会を奪ったのだ。
「兄なら、謝れば許してくれる」
 考えと被せて同じことを言われる。
 また、我妻にバレている。
「ハッとした顔してるな。バレてるよ。君さ、謝れば、全てが許される環境にあると思ってない?まだ中学生だから、謝ればいいって思ってない?それが許されるなんて甘やかされる年齢なんてものは本来ないんだよ。消えないんだよ。君の心は晴れるかもしれない。だけど、君の心だけだ。君の兄は、謝られたら許さなければならなくなる。兄だから。高校生だから。年上だから。君は、自分の立場を理解していない。だからそんな幼稚な行動が取れる。怒れば、許される。怒れば、みんな譲ってくれる。その傲慢さを、幼稚だと言ってる」
 なぜ、自分を守ろうとする?と。
「そんなつもりは」
「ないのなら、どうして、それだけのことができた?自分の知っている兄が、可哀想な人で、自分の理想の兄ではなくなって嫌いになる。自分勝手な弟を持った空に同情するよ」
「……」
 容赦無く心を抉ってくる彼に、ふと気づく。
 僕は今まで、兄をこうやって心を抉ったのだと。
 それを理解させようとしてくれているのだと。
「ようやく気付いたのか」
「……」
 首を縦に振った。
「我妻さんは、委員長としてこの過去を知ったらどうやって接するんですか?」
「……は?」
「僕はもう、兄と会えない気がします」
 なら兄が回復したら出会うだろう我妻に聞くべきだと思った。どんな対応をとるのだろう。
「どうもしないな。今まで通りだ。君の兄の過去なんてどうでもいい。みんなそんな過去を表に出すことはしない。過去を隠すか、掻き消すか、なかったことにするか、忘れるか。誰にも言えないことなんていくらでもある。お前が勝手にバラしただけだ。待つんだよ、人は。それから、考える。答える」
 そう言う癖に、どこか遠い目をする彼。
 なぜだろうか。
 我妻にも似た経験があるのではないかと思った。
 でも、聞けなかった。
 次の瞬間には、その目も消えていたから。
「じゃあ、俺はこれで」
 自分だけポテトをバクバク食べ終えると帰ろうとするので止めた。
「あの、僕にもっと色々教えてください」
 会計に向かっていた彼は、僕に振り返った。
「……あぁ、まぁ、いいか。また今度な」
 その日、我妻は本当に奢ってくれた。
 それから、何度も会うようになって受験勉強に付き合ってくれて、自分の意見の幼稚さを思い知らされて。
 成長という成長はしていないにしても、このまま大人にならなくてよかったと心の底から思うようになった。
「今度、いつ空いてます?」
 兄が自殺未遂を図ってから一ヶ月が過ぎる頃だった。
「……あぁ、うん。いつにしようか」
 歯切れの悪い回答に、只事ではないような気がした。恋愛ごとでもないだろうとは思うけど、何があったのか気になった。
 以前、恋愛に関しては、自分にはできるわけがないと、言っていたくらいだ。
 まさか、ここ一ヶ月もしないうちに彼女ができるわけもない。
「何かありました?」
「……お前は、家族に捨てられた経験あるか?」
「あなたの察し通り、だと思いますけど」
 捨てられたというより、見放されたに近い。
 あれから、母親と二人で食べる料理は静かだった。普段から一緒に食べていたけれど、今まで以上に暗い空気が流れている。
 僕と兄を会わせない理由を聞けないままでいる。
 弟としては、危険な存在だと母親は思っているのだろう。
「お前は、嫌いか?家族のこと」
「まさか。好きですよ」
「……あぁ、なら、いいんだ。大事にしろよ」
 なんでもなかったように、会計を済ませる彼。
 奢られすぎているので、断ろうと思ったけれど、遅かった。
「家族ってな、両親のどちらともいつまでも味方でいるとは限らない。どっちも大切にするんだぞ」
 すぐに理解することは難しかったけれど、わからなくもなかった。
「じゃあな」
 外の空気が秋の涼しさを運んでくる。
 夏が終わる寂しさ、どこかへ消えてしまいそうな儚さ。
 我妻が、遠くへ行ってしまいそうで、消えてしまいそうで、いなくなってしまいそうで。
「あの」
 呼び止めた。
「また、会いましょ。絶対」
 だけど、その願いが叶うことはなかった。
 その二日後、彼が事故で死んだと知らされた。

「だから君は、我妻の葬儀に来たのか」
 話を聞き終えた俺は、隣でバクバクとポテトを頬張る間宮を無視して話を進める。
 こいつ、よくこの話を食べながら聞けるよな。
「えぇ、まぁ。客観的に自分を見れなかったし、気づかせてくれたのは、我妻さんなので」
 そこだけ聞けば、まるで大人の男性が子供に諭すようなストーリーだ。
 実際は、ただのいじめっ子。目の前の彼の兄をいじめて死に追いやった張本人。
 それは知っているはずだろうに、どうして尊敬の眼差しを我妻に向けられるのだろう。
 俺も似たようなものか。いじめの事実を知っていた、止めなかった。そのくせ、情報として知るために田中に近づいた。
 結局、あの一度きり、会うことはしていないけれど。
「それで、君は、その兄に謝ったの?」
 バクバク食べていた間宮が、口を開く。
 そんなきつい口調で言わなくてもいいだろうと思う。
「いや……」
 まだ、彼は謝るに至っていない。
 病院にも行けていないのか。
 我妻とは病院で出会ったのに。
「てか、あいつ、委員長だとか言ってたらしいけど、違うからな」
 訂正は大事だ。間違ったままにしておくのは良くない。
「違うんですか!?」
「違うね。全く違う」
 高校生でクラスメイトの安否を心配する委員長となれば、信頼を寄せる一歩にはなるだろうけれど。
 我妻は、どこまで見透かしていたのか。
 中学生一人なら、問題なかったのか。
 同じクラスの人たちには、どうしてあのようないじめを行ったのか疑問を抱く。
 利用して、自分の思うように動かせばいい。なのに、そうせずいじめた。
 幼稚だ。幼稚なのは、我妻の方だ。そう一蹴してやりたいのにできないのは、目の前に我妻を信頼する男がいるから。
「さっさと謝ったほうがいいよ。死ぬ前にさ」
「おい」
 咄嗟に止めた。我妻の死からまだ一ヶ月経ったわけじゃない。傷が癒えてなかったらどうするんだ。
 中学生とはいえ、まだ子供だ。大人のような対応を取れるわけじゃない。
「何もそこまで言わなくたって」
「三浦、優しいね。人殺しとなんら変わらない相手を庇うなんて。あ、これは甘えの方か」
「お前」
「三浦はさ、違うよ。あなたの心の奥深くにある閉ざした感情は早く解放するべきだよ」
 俺が、人殺しだとは言わず、それどころか否定する。不思議だった。
 彼女が言いたいことはずっと一貫している。感情に蓋をしていること。
 それが、正しいのだろうか。彼女の一方通行の考えなだけ。それが一つの答えってだけなはずだ。
「ね、君は、人に暴言を吐いたとき、謝らなくていいと思ってる?謝れば全て許されるわけじゃない。だけどね、許されるために謝るならそれは傲慢だ」
 田中陸が、我妻の話をしてくれた時と同じ言葉をまた彼女はいう。
「君は、我妻って人を信頼しているみたいだけど、変わっていないよね。心に響いたのは、言葉の響きだけかな。行動に取ることはしないのかい?」
「でも、僕は」
「お兄さんに面会謝絶されているから、できないって言いたいの?言い訳したいの?最低だね」
「いや、僕はその」
 語気を荒げる田中陸。
「中学生なら許されるなんてない。言い訳しているうちに死んだら、君はもう一生その十字架を背負うし、いやもう背負ってる。背負って謝罪しろ。私は、そんな人許さない」
 中学生の頃の出来事を彼女は思い出したのか、怒りが増している。
「間宮」
 もっと言ってもいいと思う。だけど、これ以上言えば、同じ土俵にいるように思える。
 それは違う。
「言ってることは正しいよ。全部。中学生相手にそこまで本気になれるなんてな。……君は、今自分がするべきだと思ったことをしたらいい。勉強でもいい。謝罪でもいい。後悔がないように生きろって間宮は言いたいんだよ」
 また何か言い出そうとするので、俺が買ったはずのポテトを三本口に含ませる。
「我妻さんなら」
「同じこと言うよ。君は、我妻の言葉以外信じないのか?」
 間宮と同じ言葉を使えば、語気を荒くした彼。
 きっと人によって態度を変えて生きているのだろう。この人にはこんな言葉を使ってもいい。あの人は怖いから使わない。どんな基準で選ぶのかは不明だが、その生き方が今の彼を作ったのだろう。
 我妻が幼稚だと言った理由がよくわかる。
 瞬時に見抜いて、幼稚だと言ったのなら、やはり学校で人をいじめる理由がわからない。
 同じ年の人に何かを見て欲しかった?知って欲しかった?理解して欲しかった?
 それじゃあ、まるで彼自身幼稚だ。
 だから気付けたとか?まさか。笑ってしまう。
 彼の家庭事情なんて知らない。
 わからないのに、仮定で話を進めるのは危険だ。
「見抜かれたから。僕のこと」
「見てほしいってことか?母親に」
 ハッと目を見開く彼。当たりだったようだ。
 父親に甘やかせて育った田中陸は、母親の愛を知らずに生きている。
 兄である田中空を見て、彼のことだけを考えている母親。
 それを瞬時に見抜いたとでも言うのか。
 もし、実体験由来で理解できる感情があるとしたら……。
 我妻もまた親の愛を知らずに生きていた?
「なら話し合えばいい。ぶつかり合えばいい。母親がいる環境で言い合えるならそっちの方がいいだろ」
 俺は、父親と一切会えないのだから。ぶつかり合うことも言い合うこともない。公園でキャッチボールだってできない。
「少し、話し合ってみます。ぶつかり合うことなんてなかったので」
 意外と素直なんだなと思い直す。
 もっと擦れたことを言ってくるかと思っていた。
 窓の外は、もう夜で街灯が照らされている。
 中学生はもう家にいた方がいい時間か。
 まだ六時半だと言うのに日が暮れるの早すぎだろと、毒づく。
 会計を済ませて、外に出る。
 スマホの通知が鳴って、タップすると真島からだった。
『今、看護師に田中の病室に誰か来たらしいって言われたけど、お前行った?』
『俺、あの一回しか行ってないぞ』
 すぐに既読がついた。
『は?じゃあ、誰?誰かに田中の病室案内したやついるだろ』
『なんで、俺に逆ギレすんだよ』
『だって、俺と西崎くらいしか知らねぇんだぞ?他の人が入ってくるなんておかしい』
『看護師やカウンセラーも病室入るだろ』
 既読はついているのに、すぐに返事がない。
 嫌な予感がする。
『カウンセラーってなんの話?田中に聞いたけど、カウンセラーはきてないぞ』
 は?ありえない。どう言うこと?
『いや、カウンセラーはいたはずだぞ。何度か診察してるって聞いてる。俺、病室どこか聞かれたし』
 電話がかかってくる。
 緊迫している空気を感じて、すぐに出た。
『お前、何言ってるかわかってる?本気?カウンセラーは確かにいるらしいけど、病室には来ないって』
「……は?いや、だからロングコートみたいな白い服装した人が聞いてきたんだって。人の良さそうな」
『カウンセラーは、私服だぞ』
「いや、まさか」
『その人の特徴は?』
「メガネかけてて、声はハスキーだった。酒で潰れたような喉の声」
『父親だ』
 田中の声が、小さく聞こえた。
 戦慄した。
 今、先に歩を進め帰ろうとする田中陸を止めた。
「父親の声ってハスキーだったりする?」
 スマホのマイクを切って、聞く。
「えぇ、酒で潰れた感じ」
「……」
「どうかしました?」
「……君のお父さん、お兄さんにあった可能性がある」
 刹那、彼は荷物を抱えたまま走り出した。まさか、父親に会いに行こうとしているのでは。
 スマホから真島の声が聞こえるので、先に対応することにした。
 田中陸は、父親との関係が悪いわけではないだろうから。
 殴るような真似はしないだろう。
「ごめん、それが本当なら、俺が田中の父親を連れてきてしまった」
 ため息が聞こえる。
『それが聞けてよかった。ありがとう』
 電話が切れる。
 頭がパンクしそうだった。
 俺は、また人を殺したのか?死ぬ寸前だった。
 だめだ、息が切れそう。
「三浦!!」
 間宮が、両肩に手を乗せる。
 顔を近づけて、叫ぶようにいう。
「深呼吸!」
「……っ」
「今、感情を押し殺そうとしてる!だめだよ!それ以上はだめ!絶対に!深呼吸をして、冷静になって!それから話して!無理に抑え込まないで」
 クラクラの体は、膝から崩れ落ちて倒れる。
 意識が切れて、目の前は暗黒に染まった。