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図書委員の当番が終わり、ボクは図書室の片づけをした。
図書室にはまだ重たい空気が漂っていて、そのせいか得体のしれない不安が波のように押し寄せてくる。
あれから、橘さんの表情は依然として暗いままだ。
時折、何か言いたげそうにこちらを見る橘さんに「どうしたの?」と尋ねてみるけれど、他愛のない話でごまかすように笑みを浮かべるだけで、肝心なことは何も言わない。
彼女がボクに何か言おうとしているのではないかと思うのだけれど、いつもそれを飲み込んでいるように見える。
だけど、それがいったい何なのかまではわからなくて、ボクの中にある不安がじわじわと膨らんでいく。
結局、肝心なことは聞かされることはなく、片付けが終わった。
図書室を出て施錠をする。
「橘さん、今日は手伝ってありがとう。助かったよ」
「それならよかったわ」
職員室に図書室のカギを返して、橘さんと別れようとした――そのときだった。
「星野くんっ!」
背後から橘さんの声が響く。
振り返ると、彼女は少し震えるように唇を噛みしめていて、肩を上下させるほど呼吸が荒くなっていた。
ボクを見る目は、不安と緊張が入り混じっていて、今にも泣き出しそうだ。
彼女の表情を見ただけで、ただ事ではないことだけはわかった。
「どうしたの?」
橘さんは一瞬ボクと目を合わせたが、またすぐに視線を逸らしてしまう。
何かを言おうとしては言えない、そんな彼女の姿にボクの胸がぎゅっと締めつけられた。
震えるように息を整えながら、何度か深呼吸をくり返す橘さん。
この時間が異様に長く感じられて、ボクも自然と息を詰める。
そしてしばらくすると、ようやく彼女は重い口を開いた。
「あのっ! 陽菜のことなんだけど……」
橘さんの震えた声と不安で揺れ動く瞳がボクの目に映る。
その姿を見て、ボクは自然と息を吞みこんだ。
ひどく胸がざわついて落ち着かない。
嫌な予感が頭をよぎる。
「……花咲さんがどうしたの?」
自分の予感が当たらないでほしいと強く願う。
だけど、それは橘さんの言葉で現実になってしまった。
「実は、陽菜が……――」
感情を溢れさせながら途切れ途切れに話す橘さんの言葉に、ボクの中で何かが崩れ落ちるような感覚に陥った。
彼女の口から真実を知らされるたびに、ボクの心はひどくかきむしられて、目の前がぼんやりと霞んでいく。
……嘘だ、そんなのは。
ボクは橘さんの言葉が信じられなくて、その真実を確かめるために河川敷へと向かった。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響いて、息が苦しくなる。
それでも、ボクはひたすら走り続けた。
その間、花咲さんが今までボクをからかっていたときのことが走馬灯のように駆けめぐる。
『そういえば、知ってる? この河川敷ってね、『会いたいって思う人に会える場所』って言われてるんだよ』
『私が会いたいと思う人は……星野くんだよ』
彼女の言葉が鋭い針のように胸に刺さり、次第に胸が締めつけられていく。
あのときはただの冗談だと思っていたけれど、今ではその言葉に隠された深い意味があったのではないかとさえ思う。
『星野くんって、医学に関する本って読むの?』
『それなら、オススメの本があるの。脳に関することなんだけど、とてもわかりやすいから読んでみて』
『ねぇ……もし私が昏睡状態に陥ったら、星野くんはどう思う?』
『もーっ! こういうときは、私がいなくても大丈夫って言うんだよ』
視界が揺れて、生温かい風が顔をかすめる。
彼女がボクをからかっていたのは、単にボクの反応を楽しんでいるだけなのだと思っていたのに……。
けれど、そのからかいすべてに“意味があった”としたら――。
『あのね、どうしても読んでほしいオススメの小説があるの』
『一生のお願いって言ったら?』
『いいの。だって、私が誰かに頼むことなんて、これが“最後”だと思うから』
花咲さんのひとつひとつの言葉が心をえぐる。
息が詰まりそうなほどに胸が苦しい。
色鮮やかな景色がまるで水彩画のように滲んで、足元はふらつく。
それでも、足を止めるわけにはいかない。
彼女の本当の気持ちを確かめて、今まで見落としていた真実と向き合うために。