夏休みに入ってから、もう1週間が経った。

この間に、ボクは毎日河川敷の公園で花咲さんと会っている。

どうやら彼女もここに来るのが日課になっているらしい。


脳に関する本を読んだ次の日、花咲さんの様子が普段と違っていて気になっていたけれど……。

あれ以来、彼女はいつも通りボクをからかって楽しんでいる。

相変わらず、彼女のからかいには手を焼いてしまうけれど、なんともなかったならよかった。


「ねぇ、星野くんって、あんまり小説読まないんだよね?」 


冷たい風がそよぎ、川の音が静かに響く中、花咲さんがふとボクに質問を投げかけてきた。


「そうだけど」

「あのね、どうしても読んでほしいオススメの小説があるの」


彼女はいつものイタズラな笑みを浮かべた。

……嫌な予感がする。


「その小説を読んだら、キミにからかわれそうな気がするんだけど」

「ははっ! 鋭いね」


花咲さんの目が楽しそうに輝いている。


やっぱりそうか……。


――それなら読まないから。


そう言って断ろうとしたそのとき――。


「一生のお願いって言ったら?」


花咲さんの笑顔にわずかな陰りが見えた瞬間、ボクの心が大きく揺さぶられた。


以前、脳に関する話をしたときと同じ――不安げな顔。


その表情に、ボクの胸はひどくざわついた。


「そんなところで、一生のお願いなんて使ったらもったいないよ」

「いいの。だって、私が誰かに頼むことなんて、これが“最後”だと思うから」


彼女の言葉が、ボクの胸にずっしりと重く響く。


また、ボクをからかうためにわざと言っているのか。


でも、その目はいつもよりも真剣で、なぜか笑えなかった。


「……わかった。読んでみるよ」


結局、ボクは折れて、帰り道に図書館に寄ることにした。







本棚を眺めていると、花咲さんが言っていた本が見つかった。


「この病はキミのせい」というタイトルだ。


それを見た瞬間、心臓がドクッと嫌な音を立てた。


『ねぇ……もし私が昏睡状態に陥ったら、星野くんはどう思う?』


以前、花咲さんが言っていた言葉を思い出す。


まさか、また重たい話なのか……。


ボクは息を吞み、身構えながらその小説を手に取る。


ところが、ページをめくってみると、内容は少女マンガのような甘酸っぱい恋愛小説だった。


病の正体が、「恋わずらい」だなんて……。


予想していたシリアスな展開とは違って、ボクは拍子抜けした。

花咲さんの勝ち誇った笑みが思い浮かぶ。


また、花咲さんにからかわれてしまった……。

ボクはなんでいつもこうなるんだろうか。


彼女にからかわれた悔しい気持ちはあるけれど、心のどこかでホッとしている自分がいた。






「なんだよ、あの本っ!」


次の日。

いつもの河川敷で花咲さんに会ったボクは、開口一番で昨日読んだ本のことについて不満をぶつけた。


「何って……恋愛小説だけど」

「そうだけど、そうじゃなくてっ! からかうにも、限度っていうものがあるだろっ!」


もし本当に深刻な内容だったら……と少しでも考えたことがバカバカしい。


「ごめん、ごめん。どうしても、星野くんに読んでほしくてさ」

「だからって、あんなややこしいタイトルの話じゃなくてもよかっただろっ!」


まるで反省のない彼女の発言に、思わず声を荒げてしまう。


「確かに。でも、そういう話ってわかる小説だと絶対に読んでくれないって思ったからさ」

「うっ……」


花咲さんに的を射られて、ぐうの音も出ない。

すると、彼女は不敵な笑みを浮かべた。


「その反応は……あの小説、全部読んだってことだよね?」

「えっ!?」


花咲さんは、ボクが動揺している隙にからかい始める。


「じゃあ、印象に残ってるシーンはあった?」

「い、印象に残ってるシーンって……」

「たとえば、ヒロインがヒーローに抱きしめられるシーンとか」

「だ、抱きしめ……っ!」

「あとは、ヒーローがヒロインにキスするシーンとか」

「き、キス……っ!」


ボクの反応を楽しむように次々と質問を投げかけてくる花咲さん。


絶対にわざとだっ!


それがわかっていても、つい彼女のペースに乗せられてしまう。


「ねぇ、星野くんはあの本を読んで、どのシーンが印象的だったの?」


ここで何か言わないと、また花咲さんの思うツボだ。

だけど、さっきから花咲さんが言ったシーンばかりが思い浮かんでしまう。


「わ、わかんないよ……そう言う花咲さんは印象的なシーンなかったの?」


「私? そうだな……」


少し考えるように空を見上げた花咲さんの姿に、ボクは難を逃れたと安堵した――そのとき。

彼女がボクに視線を向けた。


そして――。


「好きだよ――」


その言葉を聞いた瞬間、ボクの心臓がドキッと音を立てた。


「えっ……?」


驚いて彼女の顔を見ると、花咲さんは少し視線を逸らしてから――。


「――っていうセリフが印象的だったかな」


――遠くを見つめながら、はっきりとそう言った。


その瞬間、体中が発火したように熱くなる。


またやられた……。

ボクは完全に花咲さんの手の中で転がされている。


「あれ? ひょっとして、私が星野くんに告白したって思って、ドキッとしちゃった?」


花咲さんは、イタズラっぽく目を輝かせながら、ボクの顔を覗き込んできた。


「そ、そ、そ、そんなわけないよっ! だって、今は小説のシーンについて話してたんだから」


ボクは慌てて顔を背け、必死に冷静さを装った。

だけど、心臓はまだドキドキしていて、顔がますます熱くなるのを感じる。


「なーんだ。星野くんの顔が赤くなってるからそうだと思ったのに……残念」


唇を尖らせながら不服そうな顔をしていても、花咲さんの目は明らかにボクの反応を楽しんでいる。

ボクはいたたまれなくなって、顔を覆い隠した。


「もう……人をからかうのも大概(たいがい)にしてよ」


しぶしぶ言葉を絞り出すボクに、花咲さんは何かボソッと呟いた。


「もしからかってないって言ったら?」


花咲さんの声が聞こえて顔を上げると、彼女は腕に顔を乗せて、こちらをじっと見つめていた。

この目は、いつものイタズラっぽさはなく、どこか真剣な眼差しだ。


「えっ? 今、なんか言った?」


聞き取れなくて聞き返したけれど、花咲さんはすぐに口角を上げて、軽く首を振った。


「ううん! ただのひとりごとだから気にしないで」


花咲さんはふわりと笑って、いつもの調子でそう言った。


なんだろう……。

ものすごく重要なことを聞き逃した気がする。


結局、花咲さんが言っていたことはなんだったのかはわからないまま、ボクはいつものように彼女にからかわれてしまった。





「そういえば、図書委員の当番で、明日は学校に行かなくちゃいけないね」


帰り際に、ボクはふと思い出して言った。

夏休みは、図書室で勉強する生徒たちがいるため、図書委員は決められた日に登校しなければならない。

ちょうど、ボクたちは明日がその日になっている。


「そうだったね。夏休みに入ってから、ここで毎日星野くんと会ってたから忘れてたよ」


花咲さんからその言葉を聞いた瞬間、言ってよかったと思った。


「忘れてたの!? 危ないな……明日、ボクをからかうためにサボって来ないとかやめてよ?」

「はははっ」


冗談で言ったつもりだったのに、花咲さんは肯定も否定もせずにただ笑っていた。


もしかして、本当にやろうとしていたのだろうか。

花咲さんならやりかねない。


「じゃあ、また明日。学校で」

「うん、またね……」


笑顔で手を振る花咲さんを背に、ボクは自分のクロスバイクにまたがって、颯爽と家へ向かった。



「ごめんね、星野くん。約束を守れなくて……」



花咲さんがボクに向かって呟いたその言葉は、風に紛れてボクには届かなかった――。