「星野くんとここで会ったときからだよ」

信じたくはないけれど、橘さんが言っていたことと合致する。




『実は、陽菜が……今、昏睡状態に陥っているの』

橘さんの言葉に、ボクは言葉を失った。
信じたくない。
何かの間違いだと思いたかった。
でも、橘さんの目は真剣で、冗談を言っているようには見えない。

『なんで……?』

声が震える。
橘さんは視線を落として、深く息をついた。

『今年に入って、脳腫瘍が見つかったんだって。だから、ここ最近、その手術をしたのよ』

ボクの胸の奥で何かが崩れていく音がした。
花咲さんのあの明るい笑顔が頭に浮かぶ。
彼女がそんな状況にいるなんて、想像もできなかった。

『悪性ではなかったみたいだけど、腫瘍があった場所がとても厄介なところだったみたいで……結局、手術自体は成功したけれど、陽菜はずっと病院で眠ったままなの』

橘さんの声は次第に小さくなり、そのたびにボクの不安が大きくなっていった。

『ずっと病院で眠ったままって……いったいいつから……?』

ボクの問いかけに、橘さんは一瞬目を閉じて、思い出すように言った。

『確か、手術をしたのは終業式の日よ』

終業式の日――ってことは、じゃあ……俺が河川敷で会っていた花咲さんはいったい誰なんだ?

『私が今日、陽菜の代わりに来たのは、あの子に万が一のことがあったら星野くんに伝えてほしいって、頼まれてたからなの。これが、陽菜の最期の頼みごとになるかもしれなかったから。せめて、私はあの子の願いを叶えてあげたかったんだ』

橘さんの目には涙が滲んでいた。
それを見た瞬間、ボクの胸の中で堰が切れたように感情があふれ出す。

そのとき、花咲さんが言っていた言葉が頭に蘇った。

『いいの。だって、私が誰かに頼むことなんて、これが“最期”だと思うから』

そう言っていた花咲さんの言葉が、“最後”じゃなくて“最期”だったんだと気づいた瞬間、ボクの中に鋭い痛みが走った。
彼女は本当に覚悟を持って、あの言葉を口にしていたんだ。
そんなことなんて何も知らずに。彼女の言葉をそのまま受け取っていた自分が悔しくて、どうしようもなく情けなかった。





「どうして、いっしょに委員会の仕事をしているときに言ってくれなかったの?」

ボクの問いに、花咲さんは少し視線をそらして遠くを見つめた。そして、ゆっくりと目を戻してくる。彼女の瞳には複雑な感情が浮かんでいて、ボクの胸が締めつけられた。

「言おうとしたんだよ。でも、言えなかった」
「なんで……?」
「私の中で、星野くんが大切な人になっちゃったから」

その言葉に、ボクの胸が痛む。
花咲さんはほんの少し微笑んでみせたが、その笑顔はどこか儚く、切なさが滲んでいた。

「私が星野くんをからかっていたのは、反応が面白かったから。でも、からかっているうちに、私の中で星野くんが特別な存在になっていったの」

花咲さんは少し言葉を切り、遠くの空を見上げた。その表情には、ただの遊びではなく、星野くんへの特別な想いが隠されているように見える。

「だから、もし脳の手術が上手くいかなかったとき、星野くんが私のことを考えてくれるなら、ここでまた会えるんじゃないかって……」

花咲さんの声は次第に弱くなり、震えているのがわかる。それでも、その思いを伝えるために必死で言葉を紡いでいた。

「星野くんが私のことを見えるってわかって、とてもうれしかったんだよ」

その瞬間、花咲さんの目に涙が浮かんでいるのが見えた。彼女の笑顔が、心の奥底でずっと隠していた切実な願いを語っているようだ。

「でも、肝心の星野くんは気づいてなかったから、恋愛小説をわざと読ませたんだよ」

花咲さんの声には、どこか軽い笑いが含まれているようだったが、それはただの寂しさを隠すためのものだと気づく。彼女は本当にボクに気づいてほしかったのだと、今になってようやく理解した。

花咲さんの話を聞いて、ようやくすべてのからかいがひとつに繋がった。あの時の冗談のような言葉も、全部、長期的に練られた花咲さんの巧妙な策だったのだ。

花咲さんはほほ笑みながらボクの方に一歩近づいてきて、小さく囁くように言った。

「ありがとう、星野くん。私と関わってくれて……うれしかったよ」

その言葉を最後に、花咲さんの姿はゆっくりと薄れていく。
まるで霧が晴れていくように、彼女の輪郭がぼやけ、風に溶けて消えていくようだった。

「待って……まだ……!」

ボクは思わず手を伸ばしたけれど、その手は何も掴むことができなかった。
花咲さんの温もりも、声も、すべてが掴めないまま消えていく。
彼女のいた場所には、もう誰もいなくなっていた。
残るのは、かすかな温もりが手のひらに残っているような感覚だけだった。

「花咲さん……」

どうしてもっと早く、自分の気持ちを伝えなかったんだろう。
彼女が何度もくれたヒントも、優しさも、ボクはきちんと受け取れていなかった。
何度もからかわれて、それでも彼女のことが気になっていたのに、本当はボクも花咲さんが好きだった。
それをちゃんと言えなかったことが、今さらながら後悔として胸に突き刺さる。

風がまた吹き抜け、河川敷の草が静かに揺れていた。
花咲さんと過ごした日々が、ボクの頭の中で鮮やかに蘇ってくる。
あの笑顔、声、そして、そっと差し出された手の温もり。
全部が愛おしくて、もう一度会いたいと強く思う。

「ボクは……花咲さんが好きだったんだ」

初めて、言葉にできた。
だけど、その言葉を伝える相手はもういない。
静かな河川敷で、ボクはただひとり、空を見上げる。
雲が流れて、少しずつ空が晴れていく。
その光景はどこか、花咲さんの笑顔を思い出させた。