ほんのわずかだが、葵は心のどこかで期待していた。
御蔭が葵がいなくなることを淋しがったり、あるいはいっしょにここを出たいというような言葉を口にすることを。けれど。
「私はこれからも変わらずここにいますよ。鯉たちもいますから」
御蔭はゆるりと口角を上げると、のんびりとした口調でそう言った。
(御蔭は、わたしがここを去ることを淋しいとも思ってくれないのね)
御蔭は、出会ったときから不思議な空気を持つ男だった。御蔭はおだやかで落ち着いていて、感情の波を荒立てることがない。池の鯉に餌をやること以外、何事にも関心がない。
葵に対してはずっとやさしかったが、それも何か特別な感情があってのことではなかったのだろう。
そのことをせつなく思うけれど、御蔭が初めからそういう態度だったからこそ、葵は彼のそばが心地よいと感じていたのだ。
もし、葵に本音を言うことが許されるなら、一つ目の龍神様と離縁したあと、御蔭のそばで生きていきたい。それがどんな関係でも構わないから、ただそばに……。
だが、古い因習にとらわれた竜堂家の使い捨ての駒でしかない葵に、何かを望むことなど許されない。
わかってはいるが、考えてしまう。
もしほんとうに一つ目の龍神様がいらっしゃるのなら、離縁する花嫁の願いをひとつだけでも聞き入れてほしい、と。
「せめて離縁の雨が、一日でも長く降り続いてくれますように……」
薄墨色の空を見上げた葵は、小さく祈りの言葉を溢すのだった。