🐟
その日の夜は雨が降っていた。
いつもより一段と分厚い雲のせいで、星々がすっかり隠れてしまって暗い。
それなのに、スマホ越しに聞く橘君の声はやけに明るく弾んでいた。
「俺、人魚になるんだ。だから……」
――ブツン。
唐突に、橘君の声が消えた。
そしてそのまま橘君との通話は切れてしまった。
――なんでこんなタイミングでスマホ死ぬんだよぉ。
私が右手に握ったスマホの画面は、黒くひび割れている。
あーあ、きのう踏んづけて画面が割れた時にちゃんとお店に行けばよかった、あーあ。
あの時はまだ電源入ったし面倒くさかったしメモリーも大丈夫そうだったし面倒くさかったから放置してたけど……なにやってんだ過去の私!
ムカついてスマホを振ったり叩いたりしたけどダメだったから、私はカーテンを閉めてベッドにごろんと寝転んだ。
天井の白さを眺めながら思考をぐるぐる巡らせてみる。
今は夜の12時、真夜中だ。
明日の9時か10時くらいにならないとスマホはどうにもできないし、橘君と連絡を取ることもできないし、小腹が空いたし、ちょっと眠いし、見逃し配信でドラマ見たいし……あ、なんか耳の奥が痒くなってきた、かも。
だいたい、あんなタイミングでスマホの寿命が終わるなんて本当についてない。
これでは橘君に、私が通話をブッチした情緒不安定なヤツだと思われても言い訳できない。
もしも今、目の前に神様か妖精か魔人か猫型ロボットが現れて「君の願いをなんでも叶えてあげるよ」って言ってきたら、私は迷わずに言う。
「今朝の私に、スマホを修理に出すよう伝えて下さい!」
いや、もっとシンプルに
「スマホを直して下さい!」
いやいや、いっそのこと本音をぶつけて
「私を美人にして橘君に会わせて下さい!」
橘君に会いたい、けどすっぴんじゃ無理。今からメイクする元気、ない。
そもそも橘君の家に押しかけて何て言えばいいの? 「ごめん、スマホ壊れちゃって……さっきのわざとじゃないから、話の続きしよ?」って言えばいいの?
🐟
話の続きってなんだっけ……。
「俺、人魚になる。だから……」
人魚になるってなに? 人生で初めてできた彼氏がニンギョニナルってなんだ? 橘君は今までは、まごうことなく人間だったけどキャラ変して人魚なるってこと? 人類から魚類になるってこと?
まって、人魚って人類と魚類どっちなの?「彼氏の人魚になります宣言」ググっても出てこねぇ……。恋愛初心者の私にはベリーベリーハードでトラウマ確定案件なんですけど。
じゃあ仮に、橘君が人類史場初の人魚になるとしたら、私は人類史上初の「彼氏が人魚になった女」になるのかな、そんなニュースが流れたら、きっとヤフコメ民が黙っていない。「彼氏が人魚になったなら、お前も人魚になるべき」「売名ですか? 金魚のフンとは、まさにあなたのことですね」「人魚の彼女は一生魚介類を口にしないと約束してください」「多様性の時代なんだから、人魚くらいで騒ぐな」「こんなしょうもない記事が配信されるなんて世も末」みんな言いたい放題言って、誰も私の気持ちなんて理解してくれないんだろうなぁ。
でもあれかも、精神的人魚か物理的人魚かでもだいぶ違うかも。
マインドが人魚になる的な話だったら、デートだってできるし、生活に支障ないけど、物理的人魚だったらそうもいかない。
橘君は身長180センチオーバーの細マッチョの橘マーメイドだから、水槽だってホームセンターで売ってるのじゃムリムリ。特注の強化ガラスで下に車輪がついてるようなやつ。
それで一緒に水族館デートするんだぁ。
マリントンネルは誰だって分け隔てなくロマンチックに出迎えてくれるはず!
🐟
そういえば、橘君と初めてデートしたのは半年前の水族館だった。
それまでの私たちは、同じ高校にこそ通っているけど学科が違って接点がなかった。
3階の長い廊下の一番右端が食物科の私のクラス、一番左端が橘君の水産科のクラス。
デートまでは緊張してたけど、いざ橘君に会ったら、あとはもうキラキラした瞳で水槽を見つめる橘君に見惚れちゃって、最高だったなぁ。
橘君は水産科の魚たちの飼育とバイトで忙しいし、私も実習と部活と塾でまぁまぁ忙しい。だから、この半年間で三回しかデートできないけど私的には、まあそれでいい。
デートの直前だけダイエットして加圧タイツ履いて、デートの日だけメイク頑張って、全然それでいい。
普段の、気をぬきまくって浮腫んでる姿なんて橘君に見せたくない。もしも私と橘君の未来に同棲とか結婚なんてことがあったら、毎日早く起きてメイクして、ご飯なんか当たり前に作って、掃除も洗濯も洗い物もして……って、すっごく疲れるんだろうなぁ。
橘君が人魚になったら、週一で海に会いに行けばいいのかな? それとも風呂場を橘君専用のお部屋にしてあげればいいのかな、人魚ってなに食べるんだろう? やっぱり味付け海苔? 枝豆? それとも塩?
私、自分のことばっかり考えてたけど、考えてみたら橘君の方が、きっと、ずっと不安なはず。だって、もしかしたら世界中でたった一人の人魚に、ひとりぼっちの存在に橘君はなってしまうのかもしれないから。だって新参者の橘君に、生まれてこのかた純粋な人魚たちが仲良くしてくれるとは思えない。人魚は人に見つからないくらい警戒心が高いというのに、どうやって馴染めばいいんだろう。そもそも人魚って何語で話してんの? 日本語……ではないよね。アンデルセンの故郷のデンマーク語だ!
デンマーク語デンマーク語、なにも出てこないムリ、でも大丈夫、私には翻訳アプリが付いてるんだから、いや、今は壊れてる。まじでスマホに頼りすぎな生活モロくて泣ける。
だから、だから、人魚になりたての橘君はしばらくの間、友達ができないんじゃないかと思う。
橘君ってなんていうのかな、一般的なイケメンっていうより「好きな人は好きな顔」って感じだし、「目立たないけどいいやつ」ポジションなんだよなぁ。時間をかけて良さが伝わるタイプなんだよ橘君は。
きっと、人魚になった橘君の友達はしばらく私だけになるんじゃないかと思う。
橘君と私が落ち合う場所は、決まって海岸沿いのボロい空き家。何年も前から誰も住んでいない、潮風でカラカラに干からびた板と柱をパズルみたいに簡単に重ねて紐でくくっただけの、なんちゃって家屋。
冷静に考えてみれば、橘君が見つかったらマスコミに追いかけられるに決まってるんだから、大きめの人魚体をむき出しにして水族館デートなんて叶わない。
毎週日曜日になると、私は唐揚げとフライドポテトをジップロックに入れて、瓶のコーラを1ダース担いで待ち合わせ場所に行く。初日に味付け海苔を差し入れしたら橘君に「海でとれないものを差し入れて欲しいな」と言われたからだ。
橘君の方は、お得意のフィッシュバーガーを準備してくている。橘君がとった小魚を、顔馴染みの小汚いザリガニがくれたバンズで挟んだものだ。
私たちは、お互いに持ち寄ったものを食べながら、これからの明るい未来の話をしてお互いを励まし合うんだ。
受験とか学校とか親に縛られている私と、いろんな繋がりを断ち切って海に飛び込んだ橘君。レールの上を歩く私と、レールから大きくはみ出した橘君。
そんなわかりきったことを話題にするのは辛いから、きっと私たちは食べ物をつまみながらデンマーク語の勉強をする。
コーラを一口飲んで「コーク!」と言い放った私は、次に、フィッシュバーガーにかぶりつく。
だけど……私自身の上の歯と下の歯が固くこすれただけで、期待した食感は得られなかった。あ、なんだっけこの感じ……前にもあった気がする。手に持っているはずのフィッシュバーガーの存在感がどんどん曖昧になっていく。
――あ。私、寝てたんだ。いつの間に。
全身が布団にめり込むように、ずっしりと重く気だるい。
薄く目を開けると、照明の白い明かりが眩しかった。
ゔあーーー、と小さく呻きながら上半身を起こす。すると、画面にヒビが入った私のスマホが置いてあった。
起動ボタンを長押ししてみたけど、スマホはやっぱり動かない。
ベッド横のテーブルに置いている楕円形の小さなリモコンを手にとってスイッチを押して、煌々と照らす部屋の電気を消した。
不意にカラスのかすれた声が聞こえて、窓の方を見やると、カーテンの隙間から光の筋が細長く射していた。
カーテンを開けてみる。
外には、まだ明けきれていない朝の空と、作り物みたいに無機質に並ぶ住宅街が広がっていた。
私以外、誰も存在していないような不気味な静けさがこわい。
――そんなことより……
私はスウェットワンピースの上にコートを羽織って、部屋を出た。
🐟
「橘君、会いにきたよ」
「うん、急でびっくりした」
橘君は驚いたような表情をしたあと、微笑んでくれた。雨上がりの朝は少しだけ冷たい空気と湿気で支配されていた。
水族館へ行ったデートの時、橘君は毎朝、駅前までジョギングしていて、シャッターが閉まった商店街を走るのは気持ちいいよって言っていたことは本当だったみたいだ。
橘君の髪は汗で少しだけペタンコになっているし、私だって、結局、すっぴん寝起きの顔だけど、格好つけないで、橘君に伝えたいことがあるんだ。
だから、私は橘君をシャッターが閉まってまだ起きていない商店街で待ったんだ。
「橘君、私、ちゃんと会いに行くから、橘君を一人きりになんてしないから」
「結衣ちゃん、どうしたの?」
橘君は不思議そうな表情を浮かべていた。あ、そっか。思いだけ先に走って、肝心なこと、言ってなかった。
「で、いつ人魚になるの? 午後から?」
「来月から」
やっぱり、さらっと言う感じ、かっこいいけど、来月からってどういうことだろう?
「ずっと憧れてたんだけど、水族館で働けることになったんだ。最初は清掃員としてだけど、水槽に入れるかもしれないんだって」
「え、橘君すごい! おめでとう!」
あれ、だけど、人魚と関係なくない? 私は多様性を重視して、橘君の口から大事なことを告げるまで、それっぽい言葉で返して、橘君の言葉を待つことにした。
「ありがとう、まだまだこれからだよ。それで、俺が大水槽の中を魚と一緒に泳いでる姿、結衣ちゃんからみたら人魚みたいに見えるんじゃないかなぁって思ったんだ。だから人魚って言ってみたんだけど、まさかの結衣ちゃんに通話切られちゃった」
「なんだ……そういう意味だったんだ」
一拍おいて、私はポケットの中から割れたスマホを取り出して橘君に見せた。
「ごめんね、最悪のタイミングでスマホ壊れた」
それだけで、橘君はいろんなことを察してくれたように菩薩くらい深く微笑んでくれた。
「ううん、そのせいで結衣ちゃんが会いにきてくれたから、俺は嬉しいよ。あ、虹がでてる」
「え?」
振り返ると、まだ灰色の雨雲が抜けきれていない空に、半円の大きな虹がくっきりと架かっていた。
水気を含んだコートの重さを急に感じて、私は、ここに来るまでの間、雨に打たれていたことに、初めて気づいた。
そして、ほっとしたのか何なのか、よくわからないぬるい涙が頬をつたった。
風邪ひくよ、と優しい声で言って上着をかけてくれた橘君は確かに同じ世界に存在しているあたたかさがあってほっとする。
あぁ、私、橘君が本当の人魚になるのが本当はすごく寂しくて怖かったんだ。
「そうだ、家までついてきてよ」
そんなこと、橘君が急に言い出すから、私は一気に生々しい超緊張モードに突入した。
🐟
商店街から歩いて5分くらいで橘君の家に着いた。
「玄関前で待ってて」
そう言い残して、橘君はドアの向こうに姿を消した。
小鳥がちゅんちゅん鳴く音だけが辺りに響いていた。
――お部屋、片付けてるのかな。
そんなことを考えていたら、ドアが開いた。
両手になにかを持った橘君はまた、微笑んでくれた。
「会いに来てくれたから、これ、持っていってよ」
とりあえず私は、両手を橘君の方に出し、四角い水槽を受け取った。水槽の中には、ビニール袋の中で泳ぐ2匹の金魚と、金魚のエサが入った四角い箱、そして、小さな酸素ポンプが入っている。
「ありがとう。だけど……」
「せっかく会いに来てくれたんだし、なにかしないと悪いよ。それに金魚は淡水魚だから、何かあっても簡単だからね」
「何かって……」
金魚の顔を見ると、すでに何かやばいことに巻き込まれていると勘づいているらしく、不安気に黒目をキョロキョロさせている。
「じゃあ、俺はランニングの続きがあるから」
そう言い残して、橘君は走り始めた。
私は慌てて、その後を追うように路地に出たけど、橘君は、もうすっかり晴れた空の下を、走っていた。
急に彼女が会いにきても、自分のペースを崩さない橘君が好きだ。
そして、急に会いにきた私に、せっかくだからと言って、金魚二匹と飼育セットを持たせてくれた橘君が好きだ。
私は今日も、橘君が好きだ。
🐟🐟
その日の夜は雨が降っていた。
いつもより一段と分厚い雲のせいで、星々がすっかり隠れてしまって暗い。
それなのに、スマホ越しに聞く橘君の声はやけに明るく弾んでいた。
「俺、人魚になるんだ。だから……」
――ブツン。
唐突に、橘君の声が消えた。
そしてそのまま橘君との通話は切れてしまった。
――なんでこんなタイミングでスマホ死ぬんだよぉ。
私が右手に握ったスマホの画面は、黒くひび割れている。
あーあ、きのう踏んづけて画面が割れた時にちゃんとお店に行けばよかった、あーあ。
あの時はまだ電源入ったし面倒くさかったしメモリーも大丈夫そうだったし面倒くさかったから放置してたけど……なにやってんだ過去の私!
ムカついてスマホを振ったり叩いたりしたけどダメだったから、私はカーテンを閉めてベッドにごろんと寝転んだ。
天井の白さを眺めながら思考をぐるぐる巡らせてみる。
今は夜の12時、真夜中だ。
明日の9時か10時くらいにならないとスマホはどうにもできないし、橘君と連絡を取ることもできないし、小腹が空いたし、ちょっと眠いし、見逃し配信でドラマ見たいし……あ、なんか耳の奥が痒くなってきた、かも。
だいたい、あんなタイミングでスマホの寿命が終わるなんて本当についてない。
これでは橘君に、私が通話をブッチした情緒不安定なヤツだと思われても言い訳できない。
もしも今、目の前に神様か妖精か魔人か猫型ロボットが現れて「君の願いをなんでも叶えてあげるよ」って言ってきたら、私は迷わずに言う。
「今朝の私に、スマホを修理に出すよう伝えて下さい!」
いや、もっとシンプルに
「スマホを直して下さい!」
いやいや、いっそのこと本音をぶつけて
「私を美人にして橘君に会わせて下さい!」
橘君に会いたい、けどすっぴんじゃ無理。今からメイクする元気、ない。
そもそも橘君の家に押しかけて何て言えばいいの? 「ごめん、スマホ壊れちゃって……さっきのわざとじゃないから、話の続きしよ?」って言えばいいの?
🐟
話の続きってなんだっけ……。
「俺、人魚になる。だから……」
人魚になるってなに? 人生で初めてできた彼氏がニンギョニナルってなんだ? 橘君は今までは、まごうことなく人間だったけどキャラ変して人魚なるってこと? 人類から魚類になるってこと?
まって、人魚って人類と魚類どっちなの?「彼氏の人魚になります宣言」ググっても出てこねぇ……。恋愛初心者の私にはベリーベリーハードでトラウマ確定案件なんですけど。
じゃあ仮に、橘君が人類史場初の人魚になるとしたら、私は人類史上初の「彼氏が人魚になった女」になるのかな、そんなニュースが流れたら、きっとヤフコメ民が黙っていない。「彼氏が人魚になったなら、お前も人魚になるべき」「売名ですか? 金魚のフンとは、まさにあなたのことですね」「人魚の彼女は一生魚介類を口にしないと約束してください」「多様性の時代なんだから、人魚くらいで騒ぐな」「こんなしょうもない記事が配信されるなんて世も末」みんな言いたい放題言って、誰も私の気持ちなんて理解してくれないんだろうなぁ。
でもあれかも、精神的人魚か物理的人魚かでもだいぶ違うかも。
マインドが人魚になる的な話だったら、デートだってできるし、生活に支障ないけど、物理的人魚だったらそうもいかない。
橘君は身長180センチオーバーの細マッチョの橘マーメイドだから、水槽だってホームセンターで売ってるのじゃムリムリ。特注の強化ガラスで下に車輪がついてるようなやつ。
それで一緒に水族館デートするんだぁ。
マリントンネルは誰だって分け隔てなくロマンチックに出迎えてくれるはず!
🐟
そういえば、橘君と初めてデートしたのは半年前の水族館だった。
それまでの私たちは、同じ高校にこそ通っているけど学科が違って接点がなかった。
3階の長い廊下の一番右端が食物科の私のクラス、一番左端が橘君の水産科のクラス。
デートまでは緊張してたけど、いざ橘君に会ったら、あとはもうキラキラした瞳で水槽を見つめる橘君に見惚れちゃって、最高だったなぁ。
橘君は水産科の魚たちの飼育とバイトで忙しいし、私も実習と部活と塾でまぁまぁ忙しい。だから、この半年間で三回しかデートできないけど私的には、まあそれでいい。
デートの直前だけダイエットして加圧タイツ履いて、デートの日だけメイク頑張って、全然それでいい。
普段の、気をぬきまくって浮腫んでる姿なんて橘君に見せたくない。もしも私と橘君の未来に同棲とか結婚なんてことがあったら、毎日早く起きてメイクして、ご飯なんか当たり前に作って、掃除も洗濯も洗い物もして……って、すっごく疲れるんだろうなぁ。
橘君が人魚になったら、週一で海に会いに行けばいいのかな? それとも風呂場を橘君専用のお部屋にしてあげればいいのかな、人魚ってなに食べるんだろう? やっぱり味付け海苔? 枝豆? それとも塩?
私、自分のことばっかり考えてたけど、考えてみたら橘君の方が、きっと、ずっと不安なはず。だって、もしかしたら世界中でたった一人の人魚に、ひとりぼっちの存在に橘君はなってしまうのかもしれないから。だって新参者の橘君に、生まれてこのかた純粋な人魚たちが仲良くしてくれるとは思えない。人魚は人に見つからないくらい警戒心が高いというのに、どうやって馴染めばいいんだろう。そもそも人魚って何語で話してんの? 日本語……ではないよね。アンデルセンの故郷のデンマーク語だ!
デンマーク語デンマーク語、なにも出てこないムリ、でも大丈夫、私には翻訳アプリが付いてるんだから、いや、今は壊れてる。まじでスマホに頼りすぎな生活モロくて泣ける。
だから、だから、人魚になりたての橘君はしばらくの間、友達ができないんじゃないかと思う。
橘君ってなんていうのかな、一般的なイケメンっていうより「好きな人は好きな顔」って感じだし、「目立たないけどいいやつ」ポジションなんだよなぁ。時間をかけて良さが伝わるタイプなんだよ橘君は。
きっと、人魚になった橘君の友達はしばらく私だけになるんじゃないかと思う。
橘君と私が落ち合う場所は、決まって海岸沿いのボロい空き家。何年も前から誰も住んでいない、潮風でカラカラに干からびた板と柱をパズルみたいに簡単に重ねて紐でくくっただけの、なんちゃって家屋。
冷静に考えてみれば、橘君が見つかったらマスコミに追いかけられるに決まってるんだから、大きめの人魚体をむき出しにして水族館デートなんて叶わない。
毎週日曜日になると、私は唐揚げとフライドポテトをジップロックに入れて、瓶のコーラを1ダース担いで待ち合わせ場所に行く。初日に味付け海苔を差し入れしたら橘君に「海でとれないものを差し入れて欲しいな」と言われたからだ。
橘君の方は、お得意のフィッシュバーガーを準備してくている。橘君がとった小魚を、顔馴染みの小汚いザリガニがくれたバンズで挟んだものだ。
私たちは、お互いに持ち寄ったものを食べながら、これからの明るい未来の話をしてお互いを励まし合うんだ。
受験とか学校とか親に縛られている私と、いろんな繋がりを断ち切って海に飛び込んだ橘君。レールの上を歩く私と、レールから大きくはみ出した橘君。
そんなわかりきったことを話題にするのは辛いから、きっと私たちは食べ物をつまみながらデンマーク語の勉強をする。
コーラを一口飲んで「コーク!」と言い放った私は、次に、フィッシュバーガーにかぶりつく。
だけど……私自身の上の歯と下の歯が固くこすれただけで、期待した食感は得られなかった。あ、なんだっけこの感じ……前にもあった気がする。手に持っているはずのフィッシュバーガーの存在感がどんどん曖昧になっていく。
――あ。私、寝てたんだ。いつの間に。
全身が布団にめり込むように、ずっしりと重く気だるい。
薄く目を開けると、照明の白い明かりが眩しかった。
ゔあーーー、と小さく呻きながら上半身を起こす。すると、画面にヒビが入った私のスマホが置いてあった。
起動ボタンを長押ししてみたけど、スマホはやっぱり動かない。
ベッド横のテーブルに置いている楕円形の小さなリモコンを手にとってスイッチを押して、煌々と照らす部屋の電気を消した。
不意にカラスのかすれた声が聞こえて、窓の方を見やると、カーテンの隙間から光の筋が細長く射していた。
カーテンを開けてみる。
外には、まだ明けきれていない朝の空と、作り物みたいに無機質に並ぶ住宅街が広がっていた。
私以外、誰も存在していないような不気味な静けさがこわい。
――そんなことより……
私はスウェットワンピースの上にコートを羽織って、部屋を出た。
🐟
「橘君、会いにきたよ」
「うん、急でびっくりした」
橘君は驚いたような表情をしたあと、微笑んでくれた。雨上がりの朝は少しだけ冷たい空気と湿気で支配されていた。
水族館へ行ったデートの時、橘君は毎朝、駅前までジョギングしていて、シャッターが閉まった商店街を走るのは気持ちいいよって言っていたことは本当だったみたいだ。
橘君の髪は汗で少しだけペタンコになっているし、私だって、結局、すっぴん寝起きの顔だけど、格好つけないで、橘君に伝えたいことがあるんだ。
だから、私は橘君をシャッターが閉まってまだ起きていない商店街で待ったんだ。
「橘君、私、ちゃんと会いに行くから、橘君を一人きりになんてしないから」
「結衣ちゃん、どうしたの?」
橘君は不思議そうな表情を浮かべていた。あ、そっか。思いだけ先に走って、肝心なこと、言ってなかった。
「で、いつ人魚になるの? 午後から?」
「来月から」
やっぱり、さらっと言う感じ、かっこいいけど、来月からってどういうことだろう?
「ずっと憧れてたんだけど、水族館で働けることになったんだ。最初は清掃員としてだけど、水槽に入れるかもしれないんだって」
「え、橘君すごい! おめでとう!」
あれ、だけど、人魚と関係なくない? 私は多様性を重視して、橘君の口から大事なことを告げるまで、それっぽい言葉で返して、橘君の言葉を待つことにした。
「ありがとう、まだまだこれからだよ。それで、俺が大水槽の中を魚と一緒に泳いでる姿、結衣ちゃんからみたら人魚みたいに見えるんじゃないかなぁって思ったんだ。だから人魚って言ってみたんだけど、まさかの結衣ちゃんに通話切られちゃった」
「なんだ……そういう意味だったんだ」
一拍おいて、私はポケットの中から割れたスマホを取り出して橘君に見せた。
「ごめんね、最悪のタイミングでスマホ壊れた」
それだけで、橘君はいろんなことを察してくれたように菩薩くらい深く微笑んでくれた。
「ううん、そのせいで結衣ちゃんが会いにきてくれたから、俺は嬉しいよ。あ、虹がでてる」
「え?」
振り返ると、まだ灰色の雨雲が抜けきれていない空に、半円の大きな虹がくっきりと架かっていた。
水気を含んだコートの重さを急に感じて、私は、ここに来るまでの間、雨に打たれていたことに、初めて気づいた。
そして、ほっとしたのか何なのか、よくわからないぬるい涙が頬をつたった。
風邪ひくよ、と優しい声で言って上着をかけてくれた橘君は確かに同じ世界に存在しているあたたかさがあってほっとする。
あぁ、私、橘君が本当の人魚になるのが本当はすごく寂しくて怖かったんだ。
「そうだ、家までついてきてよ」
そんなこと、橘君が急に言い出すから、私は一気に生々しい超緊張モードに突入した。
🐟
商店街から歩いて5分くらいで橘君の家に着いた。
「玄関前で待ってて」
そう言い残して、橘君はドアの向こうに姿を消した。
小鳥がちゅんちゅん鳴く音だけが辺りに響いていた。
――お部屋、片付けてるのかな。
そんなことを考えていたら、ドアが開いた。
両手になにかを持った橘君はまた、微笑んでくれた。
「会いに来てくれたから、これ、持っていってよ」
とりあえず私は、両手を橘君の方に出し、四角い水槽を受け取った。水槽の中には、ビニール袋の中で泳ぐ2匹の金魚と、金魚のエサが入った四角い箱、そして、小さな酸素ポンプが入っている。
「ありがとう。だけど……」
「せっかく会いに来てくれたんだし、なにかしないと悪いよ。それに金魚は淡水魚だから、何かあっても簡単だからね」
「何かって……」
金魚の顔を見ると、すでに何かやばいことに巻き込まれていると勘づいているらしく、不安気に黒目をキョロキョロさせている。
「じゃあ、俺はランニングの続きがあるから」
そう言い残して、橘君は走り始めた。
私は慌てて、その後を追うように路地に出たけど、橘君は、もうすっかり晴れた空の下を、走っていた。
急に彼女が会いにきても、自分のペースを崩さない橘君が好きだ。
そして、急に会いにきた私に、せっかくだからと言って、金魚二匹と飼育セットを持たせてくれた橘君が好きだ。
私は今日も、橘君が好きだ。
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