小学校六年間、中学校一年と少し。
学校という集団の中で行事でも日常生活でも、私は何か誰かの役に立てたといえることはしていないと思う。
皆が当たり前にやっていることを、私は頑張らないとそのスピードに追い付けない。
委員会や係で仕事が早いと言われたことがあっても、それは周りの倍にも及びそうな時間を使って家で行っていたから。
彼らは私の家でのことは知らない。
私の頑張りの時間は見えないていない。
彼らに見えるのは私が与えられた仕事を何日で終わらせたかだけ。
その仕事に何時間かけようと彼らは私が言わない限り知らることはない。
私はそう言う人間だ。
のろまで、これといったものを持ち合わせていない。
おまけにこの国の社会構成に合わない身体。
私なんて社会に出ても踏みつぶされて終わりだろう。
だから、高校の話をされるのも社会人になったときの話も、大人が言う職場の苦楽の話も聞きたくなかった。
将来への不安を取り除こうと話す教師がいるのは知っている。
が、それが返って不安を実らせていることを彼らは知らないのだ。
大人、特に教育者の立場の人は『世界中の人の中に全く同じ考えや思いを持って身長も体重も顔立ち、体格、家族も住む場所も全部一緒の人。絵を描きなさいと言われたら全く同じ絵を描く人。そんな人いないよ』といった内容をよく口にする。
それはつまり私と全く同じ人はおらず、そんな話をする大人とも能力が同じことはない。
『俺みたいな馬鹿が大丈夫だったんだから皆も大丈夫だよ』なんてよく言ったものだ。
どんなに馬鹿が上手く社会で動けようとも、だからといって私までも上手く社会で働けるわけではない。
いつかにお母さんが言っていた。
『勉強のできない馬鹿と日常生活に関して何もできない馬鹿は違うんだよ。学生の時は親に育てられているから生活面はあまりできなくても問題ないけど、勉強ができないと成績で行ける学校が変わるんだから問題大有りでしょ?でもね、社会人になって一人で生きていかなきゃいけなくなると生活面ができないと大問題。勉強は仕事の分野によって違っても大抵は最低限のことができてれば仕事はできるの。それと、どの仕事も性格が悪かったらそもそも採用されないからね』
公で口にしたら怒られそうな言葉だけど、すごくしっくりきた。
馬鹿だと言う、または言われる人だって勉強ができなくても人柄が良ければ一応働くことはできる。
必要なことを働きながら学ぶ。
学校という集団の中で行事でも日常生活でも、私は何か誰かの役に立てたといえることはしていないと思う。
皆が当たり前にやっていることを、私は頑張らないとそのスピードに追い付けない。
委員会や係で仕事が早いと言われたことがあっても、それは周りの倍にも及びそうな時間を使って家で行っていたから。
彼らは私の家でのことは知らない。
私の頑張りの時間は見えないていない。
彼らに見えるのは私が与えられた仕事を何日で終わらせたかだけ。
その仕事に何時間かけようと彼らは私が言わない限り知らることはない。
私はそう言う人間だ。
のろまで、これといったものを持ち合わせていない。
おまけにこの国の社会構成に合わない身体。
私なんて社会に出ても踏みつぶされて終わりだろう。
だから、高校の話をされるのも社会人になったときの話も、大人が言う職場の苦楽の話も聞きたくなかった。
将来への不安を取り除こうと話す教師がいるのは知っている。
が、それが返って不安を実らせていることを彼らは知らないのだ。
大人、特に教育者の立場の人は『世界中の人の中に全く同じ考えや思いを持って身長も体重も顔立ち、体格、家族も住む場所も全部一緒の人。絵を描きなさいと言われたら全く同じ絵を描く人。そんな人いないよ』といった内容をよく口にする。
それはつまり私と全く同じ人はおらず、そんな話をする大人とも能力が同じことはない。
『俺みたいな馬鹿が大丈夫だったんだから皆も大丈夫だよ』なんてよく言ったものだ。
どんなに馬鹿が上手く社会で動けようとも、だからといって私までも上手く社会で働けるわけではない。
いつかにお母さんが言っていた。
『勉強のできない馬鹿と日常生活に関して何もできない馬鹿は違うんだよ。学生の時は親に育てられているから生活面はあまりできなくても問題ないけど、勉強ができないと成績で行ける学校が変わるんだから問題大有りでしょ?でもね、社会人になって一人で生きていかなきゃいけなくなると生活面ができないと大問題。勉強は仕事の分野によって違っても大抵は最低限のことができてれば仕事はできるの。それと、どの仕事も性格が悪かったらそもそも採用されないからね』
公で口にしたら怒られそうな言葉だけど、すごくしっくりきた。
馬鹿だと言う、または言われる人だって勉強ができなくても人柄が良ければ一応働くことはできる。
必要なことを働きながら学ぶ。