お昼ご飯を食べ終えると、椚君が私に向き合うように座った。
 スマホに向かって何かを言っているのが分かった。
 私はすぐに答えられるように、ノートを地面に置いて前屈みになった。椚君はノートの横に自分のスマホを置いてくれた。

『秋波は、昼が終わったら階段を下りていくけど、どこに行ってるの?』
『教科棟』
『教科棟?』
『そこに特別クラスがあるの。私が通ってる教室』

 教科棟は、普段の授業で使う機会のある場所だから、私たちとすれ違っていてもおかしくはない。
 だけど彼は知らない様子だった。
 もっとも、私たちも必要がなければ教室から出ないから、知らなくても仕方がないかもしれない。

『1階の奥に多目的室があって、そこで』
『へぇ。1階に用事があることないから、知らなかった』

 科目教室は2階と3階だし、4階は図書室。1階は教科準備室になっているから、先生たちしか使うこともないだろう。
 そう考えると、確かに1階に用事があることはない。
 教科棟は本校舎とは繋がる渡り廊下が1階にしかないため、その時に通るくらいだろう。そう考えると、やっぱり知らなくても不思議はなかった。

『その、言いたくなかったらいいんだけど』
『何?』
『耳が聞こえない人の生活って、どんなのかな。って思って』

 椚君は、不安気に視線を泳がせている。

『静かだよ』

 私はそれだけを書いて見せた。
 何も聞こえない。
 何も聞かなくていい。
 目を閉じれば、一瞬で世界から人が消える。一瞬で私だけが取り残される。

 私はハッとして椚君を見た。
 椚君が辛そうな顔で私をジッと見ていた。どうしてあなたがそんな顔するの。
 私は慌ててノートにペンを走らせる。

『でも、授業聞こえないし、車の音とか聞こえないからって、自転車に乗せてもらえないのは不便かな』

 ノートを椚君の顔の前に持っていく。
 目で文字を追っていた椚君が、ノートから顔を出して何か言った。
 スマホの画面があれば、わざわざ顔を出さなくても分かるけど、椚君はちゃんと顔が見えるように話してくれる。律儀な人だと思った。
 結局私はスマホがないと、相手の話を理解できないのだけれど。
 私はノートを地面に戻し、スマホに目を通す。

『もしかして、自転車乗ったことない?』
『あるよ』
『乗れるの?』
『一応』

 椚君は『そうなんだ』と言っただけだった。
 彼はしばらく考え込むように黙り込んだ。
 話題を考えているのか、それとも、何を聞いていいのかで迷っているのか。
 今度は私から話題を振ってみようかと思い、少しだけ考えてノートに椚君への質問を書いた。

『椚君は何か部活入ってるの?』

 椚君は私を伺うように見てから、短く口を動かした。

『軽音部』
『楽器は?』
『弾けない。おれはボーカル』
『歌うの? かっこいいね!』

 私だったら、人前で歌うなんて緊張してできない。
 舞台の真ん中で、人に注目されて歌うって、どんな気分なんだろう。私には想像もつかない。

『椚君は好きな曲とかあるの?』
『好きな曲と言うか、好きなアーティスがいて。父親がよく聴いてるバンドで』
『誰?』
『えっと、MONGOL800って言うんだけど』

 そのバンドなら私も知っている。
 中学の音楽の授業で、取り上げられたことがあったはずだ。その音楽の先生が好きなバンドということで、いくつか紹介していたのを思い出す。

『その人たちって、『あなたに』って曲歌ってる人だよね』
『知ってるの?』
『中学の時、授業で歌詞を見た。あと、『ターコイズ』と『小さな恋の歌』はまだ覚えてるよ』

 他の曲も調べてみたかったけど、当時の私はネットを制限されていて調べられなかった。スマホも持っていなかったし。ネットを使えたとしても、私がそれを使いこなせた自信はないけど……。
 おかげで授業で紹介された数曲しか知らないけれど、どれもいい歌詞だなと思ったのは覚えている。

『そっか。歌詞だけでも、いい曲ってたくさんあるよね』

 椚君はどこか安心したように微笑む。この話題を続けていいものか迷っていたのだろう。
 私は頷いて椚君の言葉に同意した。
 私がペンを走らせる手を止めたからか、椚君がどこか落ち着きをなくしたようにそわそわしていた。次の話題を探しているのかもしれない。

『秋波は、その、部活とかは』

 椚君の口は、モゴモゴと小さく動いている。
 だいぶ言葉を選んでいるのが伝わってくる。

『部活は入ってない。帰宅部』
『そっか。その、どこまで訊いていいのかよく分からなくて』
『好きに訊けばいいよ』
『分かった』

 気まずそうだった椚君の表情が和らいだ。
 椚君は少しだけ考える素振りを見せてから、今度はスラスラと口を動かした。

『秋波は授業はどうやって受けてるの?』
『先生が、授業の内容をパソコンに打ち込んでくれるよ』
『小学生や中学の時とかもそうしてたの?』

 小学生と中学生の頃か……。
 私は目を細めてほんの数カ月前までのことを思い出した。

『そんなことなかったよ』

 そんなことはなかった。
 自分で書いた言葉に、なぜかチクリと胸が痛んだ気がした。
 私は顔を上げないまま、椚君の次の質問を待った。

『耳が聞こえないのも、大変だよね』
『そうかもね。……でも聞こえても大変なとき、あるでしょ?』
『え?』
『聞きたくない言葉とか、あったりしない?』

 椚君の視線を感じて隣を見る。
 何を考えているのか分からない目で見られていた。何か変なことを言ってしまっただろうか。
 不安に思っていると、椚君はすぐに笑顔を取り繕った。

『おれね、いろんな音、全部拾っちゃうんだよね。同じ大きさで全部入って来るから、人の声を聞き分けるの苦手なんだ。だから、音が煩わしくなる時がある』

 椚君が苦笑する。
 やっぱり聞こえても辛いときって、あるものだ。
 彼は耳が良すぎるのかもしれない。それとも、音に過敏なのか。

『耳が聞こえなくなればいいって思ったことある?』

 ほとんど無意識に手が動いていた。
 椚君が困った様子で、伺うように私を見ていた。
 ハッとして文字を塗りつぶした。何を聞いているんだ、私は。

『ごめん。忘れていいよ』
『秋波に言っていいのか分かんないけど、思ったことはあるよ。でも、実際聞こえなくなったら困るし。だから、せめて静かな場所に逃げてやりすごしてる』

 言葉を選んでチラチラと私の様子を伺いながら、言いにくそうにしながらも答えてくれた。
 こういうところがいい人というか、律儀というか、誠実というか。
 私はフッと微笑を浮かべて手を動かした。

『だから、屋上にいるの?』

 ここなら人はいないから、静かな場所に来ているのかなと思った。
 それは正解だったようで、椚君は小さく苦笑いをして頷いた。

『ご飯は教室で食べてたけど。でも、長時間あんなうるさい場所にいるのは疲れる』
『でも軽音部なんだ?』

 私は揶揄うように笑った。
 音楽って、いろんな楽器の音が一斉に鳴るはずだ。バンドや吹奏楽だと、かなり近くで大きな音が鳴るんじゃないだろうか。
 そりゃあ音楽だし、不協和音ってことはないかもしれないけど。

『音楽だったら平気なんだ。楽器の音も聞き分けられる。自分でも不思議』
『音楽、好き?』
『好きだよ』
『好きなことなら、平気なのかもね』

 私は体を起こして笑った。
 椚君が柔らかい笑みを浮かべて、『そうかも』と答えた。

 しばらく他愛のない話をしていると、予鈴が鳴る時間になった。

『戻ろっか』

 私はその文字を見せて、ノートを閉じる。
 屋上を出るために立ち上がろうとした瞬間、腕を掴まれた。昨日もこんなことがあったような……。
 ビックリして固まってしまった私の目の前に、椚君のスマホが近づいてきた。

『明日も、一緒に食べていい?』

 椚君は眉尻を下げて、私を伺うように見ていた。
 別に断る理由もない。私は首を縦に振った。それだけで、椚君は嬉しそうな顔をした。
 私なんかとお昼を過ごして、楽しいんだろうか。会話に時間がかかって、話しづらいんじゃないだろうか。
 そもそも、1人になりたいから屋上に来ているんじゃ……。

『あ、そろそろ戻らないとね』

 椚君は私の迷いなんて露知らず、笑顔でそう言うと屋上を出て行った。
 まるでスキップでもしそうな背中が見えなくなってから、我に返った。
 私も教室に戻らなきゃ。また遅刻ギリギリになってしまう。
 私は弁当袋を引っ掴み、屋上を出た。