巴は私の心の中を覗くみたいに、じっと目を見てきた。
口が動き、何を言ったのか知るためにその視線から逃れる。
『嘉那は、何に怖がってるの?』
見透かしたような顔で、それでも私の口から言わせようとしてくる。相変わらず、意地の悪い人だ。
『何かあったから、恋愛相談室に来たんでしょ?』
なわけあるか。そもそもここは恋愛相談室じゃなくてただの病室だ。
いたずらっぽく笑っていた巴は、駄々っ子を宥めるような顔になった。
『紅弥と何かあった?』
『何もない』
『進展が欲しいの?』
どうしてそうなる。
『椚君とは、そんなんじゃない』
『そんなん、になりたいんじゃないの?』
私は持っていたペンを握り直した。
だけど何も言葉が出てこない。
ただノートを芯の先でコツコツと叩き、小さな点を量産するだけだった。
よく考えてみたら、「そんなん」かもしれない。
『そんなん、に、なりたいのは……私じゃない、かも』
『なるほどー。そう来たかー。やるなー』
今のだけで理解したらしい。その理解力が勉強に向けば、新はもっと楽できるだろうに。
チラッと見た巴は、心底楽しそうだった。
だけど冷やかすようなニヤニヤした笑みとは違う、純粋な嬉しさが顔に滲み出ていた。
私は巴の言葉のせいで、一気に心に靄がかかった気分だというのに。
『ちなみに、前に紅弥がうちのクラスに来て以降、文化祭には誘われた?』
訊ねている割に、答えは知っていそうな顔をしている。
巴に隠しごとなんて、できるわけないか。私は素直に頷いた。
やっぱり、と言いたそうな顔で深く頷かれてしまった。一体どこまで分かっているんだろう。
『で、嘉那はまだ答えてないんだ?』
『どこで見てたの?』
『ふーん。図星か』
どうしてこんなに何でも知ってるんだこいつは。
見透かされていることに、恥ずかしさよりも苛立ちが湧き上がってきた。
八つ当たりのように睨みつけるが、いつものように飄々としているだけだった。
『答えてないってことは、迷ってるってことだね。嘉那はどう思ってる?』
『どうって』
どうって言われても。
そんなの、決まってる。
『私といても、迷惑かける』
『それは嘉那の気持ちじゃないよ』
どういう意味だ。
怪訝に思っていると、さらにスマホに文字が入力された。
巴は、ベッドテーブルに置かれていたスマホを取り、巴の膝の上に置いた。
『迷惑と思うかどうかは、紅弥が決める。紅弥は迷惑だって言ってる? 僕には、彼が嘉那といて迷惑に思っているようには見えないけどなー』
私は巴の顔を見れなかった。
椚君に迷惑だと言われたことはない。そんなことは思っていないとすら言われた。
だけど、それでも……。
『嘉那さ。自分のこと話した?』
自分のこと、という単語に、体に力が入った。
『耳のこと、ちゃんと話した?』
逃げるようにスマホ画面から目を逸らした。だけど巴はそれを許してくれなかった。
スマホを私の視線の先に移動させる。
『どうして話してないの? 話すのが怖いから? どうして怖いの? 嫌われたくないから? それはどうして?』
文字だけを見れば、まるで責められているみたい。
でも巴がそんな風に言っていないことくらい、顔を見なくても分かる。
ただ私の考えを突き詰めようとしているだけだ。
思考を誘導されるように、私までどうして? と考えてしまう。
『案外、答えは出てるんじゃない?』
『私は』
私は……。
私は椚君のことを……。
『分からない。どう思ってるのか、よく分からない』
『じゃあ、文化祭のことだけを考えてみようか。文化祭は行きたい?』
行きたいかと言われると、本当にどっちでもいい。
でも巴が訊きたいのは、そう言うことじゃないと分かっている。文化祭に、椚君と、行きたいかどうかという話だ。
巴が訊きたいことを理解しているのに、私は自分の気持ちがよく分からなかった。
『んー。じゃあ、背中押してあげよっか。行ってきなよ。で、紅弥のライブの動画よろしく』
椚君のライブを見たいのが本音なだけでは?
巴は上機嫌に笑っている。ケタケタと笑う、という表現がしっくりくるような笑い方だった。
『目的は僕と新のお願い聞くってのでもいいじゃん? そこに紅弥も一緒にいるって感じでさ。あんまり深く考えずに、行ってごらん』
『そんな軽い感じでいいのかな』
『文化祭のほうは、それでいいと思うよ』
巴が頷く。文化祭のほうは、か。
私は不意に浮かんだ疑問を文字にする。
『巴は、恋愛経験あるの?』
人のことでばっかり楽しんでいるけど、巴は恋をしたことはあるのだろうか。
『あるよ』
巴はそう答えて、窓の外を見た。視線はそれよりも遠いところを見ている気がする。実際に目では見えない場所を見ているような……。切ない光を目に宿していた。見ている私のほうが、胸が苦しくなった。
『ごめん、訊いちゃいけなかった?』
『昔の話だよ。中学生くらいかな。あの子とは、この病院で出会ったんだ。彼女も心臓があまりよくなかった。天然っぽいところがあって、可愛い子だった』
その人のことを思い出しているのか、とても愛おしそうな目をした。
巴のそんな顔、初めて見た。
すぐに現実に戻ってきた巴は、その瞳に私を映した。
『ねぇ嘉那。考えるのもいいけど、考えすぎるのもよくないと思う。いつまでも紅弥がいるとは限らない。それは嘉那のほうかもしれない』
私は巴が抱えているものに気が付いた。その人はきっともう……。
『巴は、その人に言えなかったことがあるの?』
『ない。伝えたい気持ちはたくさん伝えた。まー、もっと伝えたかったなー、とは思うけどねー』
巴は清々しい顔で、私を見ていた。
未練はないのだろうか。それとも、これも強がっているだけだろうか。つかみどころのない巴の表情からは、真意は読み取れなかった。
『だからこそ、嘉那にもたくさん自分の気持ちを伝えてほしい。たくさん話をしてほしい。どんな話でもいいから。自分の話をしてもいい。相手のことを訊いてもいい。終わらない宿題の話でもいいから。考えて、考えて考えて、考えすぎて何も言えなくなるより何倍もいいよ』
飄々とした態度が消えている。
冷やかしでも何でもなく、本心からの言葉だと分かった。懸命に私に伝えようとしてくれているのが分かった。
その表情は大人っぽくて、無駄に顔が整っているだけに説得力があった。
『明美ちゃん先生みたいに、ギャンブルは嫌いって伝えてても上手くいかないことはあるけどね』
巴はおどけて付け足した。
そんなこともあったな。
『そんなに恋愛を怖がらなくても、大丈夫だと思うよ。嘉那は、どうしたい?』
私は……。
しばらく黙り込んで考える。
徐に手を動かした。
『文化祭、行ってくる』
『ん。動画待ってるねー。写真もお願いねー。あ、紅弥とのツーショットなんてあるとなおよし』
いつもの巴だった。ニヤニヤと、人の恋バナを楽しむ顔。
さっきまでの巴は、珍しくかっこよかったのになぁ。
その切り替えの早さに、苦笑いが零れた。
***
話題を変えて、ここ一週間の教室の様子を話していると、いつの間にか日が沈みかけていた。
『そろそろ帰るよ』
『えー。もうちょっといいじゃんかー』
『暗くなったら怖いもん』
『嘉那の怖いものかー。まー普通に危ないもんね。今日は来てくれてありがとう。気を付けて帰って』
巴はヒラヒラと手を振る。
どこか寂しそうに見えたのは、たぶん気のせいじゃない。
『寂しくて泣きそうになったら、さっきの封筒見てね』
『違う意味で泣かせようとしてない?』
私はペロッと舌を出し、巴に手を振って病室を出た。
口が動き、何を言ったのか知るためにその視線から逃れる。
『嘉那は、何に怖がってるの?』
見透かしたような顔で、それでも私の口から言わせようとしてくる。相変わらず、意地の悪い人だ。
『何かあったから、恋愛相談室に来たんでしょ?』
なわけあるか。そもそもここは恋愛相談室じゃなくてただの病室だ。
いたずらっぽく笑っていた巴は、駄々っ子を宥めるような顔になった。
『紅弥と何かあった?』
『何もない』
『進展が欲しいの?』
どうしてそうなる。
『椚君とは、そんなんじゃない』
『そんなん、になりたいんじゃないの?』
私は持っていたペンを握り直した。
だけど何も言葉が出てこない。
ただノートを芯の先でコツコツと叩き、小さな点を量産するだけだった。
よく考えてみたら、「そんなん」かもしれない。
『そんなん、に、なりたいのは……私じゃない、かも』
『なるほどー。そう来たかー。やるなー』
今のだけで理解したらしい。その理解力が勉強に向けば、新はもっと楽できるだろうに。
チラッと見た巴は、心底楽しそうだった。
だけど冷やかすようなニヤニヤした笑みとは違う、純粋な嬉しさが顔に滲み出ていた。
私は巴の言葉のせいで、一気に心に靄がかかった気分だというのに。
『ちなみに、前に紅弥がうちのクラスに来て以降、文化祭には誘われた?』
訊ねている割に、答えは知っていそうな顔をしている。
巴に隠しごとなんて、できるわけないか。私は素直に頷いた。
やっぱり、と言いたそうな顔で深く頷かれてしまった。一体どこまで分かっているんだろう。
『で、嘉那はまだ答えてないんだ?』
『どこで見てたの?』
『ふーん。図星か』
どうしてこんなに何でも知ってるんだこいつは。
見透かされていることに、恥ずかしさよりも苛立ちが湧き上がってきた。
八つ当たりのように睨みつけるが、いつものように飄々としているだけだった。
『答えてないってことは、迷ってるってことだね。嘉那はどう思ってる?』
『どうって』
どうって言われても。
そんなの、決まってる。
『私といても、迷惑かける』
『それは嘉那の気持ちじゃないよ』
どういう意味だ。
怪訝に思っていると、さらにスマホに文字が入力された。
巴は、ベッドテーブルに置かれていたスマホを取り、巴の膝の上に置いた。
『迷惑と思うかどうかは、紅弥が決める。紅弥は迷惑だって言ってる? 僕には、彼が嘉那といて迷惑に思っているようには見えないけどなー』
私は巴の顔を見れなかった。
椚君に迷惑だと言われたことはない。そんなことは思っていないとすら言われた。
だけど、それでも……。
『嘉那さ。自分のこと話した?』
自分のこと、という単語に、体に力が入った。
『耳のこと、ちゃんと話した?』
逃げるようにスマホ画面から目を逸らした。だけど巴はそれを許してくれなかった。
スマホを私の視線の先に移動させる。
『どうして話してないの? 話すのが怖いから? どうして怖いの? 嫌われたくないから? それはどうして?』
文字だけを見れば、まるで責められているみたい。
でも巴がそんな風に言っていないことくらい、顔を見なくても分かる。
ただ私の考えを突き詰めようとしているだけだ。
思考を誘導されるように、私までどうして? と考えてしまう。
『案外、答えは出てるんじゃない?』
『私は』
私は……。
私は椚君のことを……。
『分からない。どう思ってるのか、よく分からない』
『じゃあ、文化祭のことだけを考えてみようか。文化祭は行きたい?』
行きたいかと言われると、本当にどっちでもいい。
でも巴が訊きたいのは、そう言うことじゃないと分かっている。文化祭に、椚君と、行きたいかどうかという話だ。
巴が訊きたいことを理解しているのに、私は自分の気持ちがよく分からなかった。
『んー。じゃあ、背中押してあげよっか。行ってきなよ。で、紅弥のライブの動画よろしく』
椚君のライブを見たいのが本音なだけでは?
巴は上機嫌に笑っている。ケタケタと笑う、という表現がしっくりくるような笑い方だった。
『目的は僕と新のお願い聞くってのでもいいじゃん? そこに紅弥も一緒にいるって感じでさ。あんまり深く考えずに、行ってごらん』
『そんな軽い感じでいいのかな』
『文化祭のほうは、それでいいと思うよ』
巴が頷く。文化祭のほうは、か。
私は不意に浮かんだ疑問を文字にする。
『巴は、恋愛経験あるの?』
人のことでばっかり楽しんでいるけど、巴は恋をしたことはあるのだろうか。
『あるよ』
巴はそう答えて、窓の外を見た。視線はそれよりも遠いところを見ている気がする。実際に目では見えない場所を見ているような……。切ない光を目に宿していた。見ている私のほうが、胸が苦しくなった。
『ごめん、訊いちゃいけなかった?』
『昔の話だよ。中学生くらいかな。あの子とは、この病院で出会ったんだ。彼女も心臓があまりよくなかった。天然っぽいところがあって、可愛い子だった』
その人のことを思い出しているのか、とても愛おしそうな目をした。
巴のそんな顔、初めて見た。
すぐに現実に戻ってきた巴は、その瞳に私を映した。
『ねぇ嘉那。考えるのもいいけど、考えすぎるのもよくないと思う。いつまでも紅弥がいるとは限らない。それは嘉那のほうかもしれない』
私は巴が抱えているものに気が付いた。その人はきっともう……。
『巴は、その人に言えなかったことがあるの?』
『ない。伝えたい気持ちはたくさん伝えた。まー、もっと伝えたかったなー、とは思うけどねー』
巴は清々しい顔で、私を見ていた。
未練はないのだろうか。それとも、これも強がっているだけだろうか。つかみどころのない巴の表情からは、真意は読み取れなかった。
『だからこそ、嘉那にもたくさん自分の気持ちを伝えてほしい。たくさん話をしてほしい。どんな話でもいいから。自分の話をしてもいい。相手のことを訊いてもいい。終わらない宿題の話でもいいから。考えて、考えて考えて、考えすぎて何も言えなくなるより何倍もいいよ』
飄々とした態度が消えている。
冷やかしでも何でもなく、本心からの言葉だと分かった。懸命に私に伝えようとしてくれているのが分かった。
その表情は大人っぽくて、無駄に顔が整っているだけに説得力があった。
『明美ちゃん先生みたいに、ギャンブルは嫌いって伝えてても上手くいかないことはあるけどね』
巴はおどけて付け足した。
そんなこともあったな。
『そんなに恋愛を怖がらなくても、大丈夫だと思うよ。嘉那は、どうしたい?』
私は……。
しばらく黙り込んで考える。
徐に手を動かした。
『文化祭、行ってくる』
『ん。動画待ってるねー。写真もお願いねー。あ、紅弥とのツーショットなんてあるとなおよし』
いつもの巴だった。ニヤニヤと、人の恋バナを楽しむ顔。
さっきまでの巴は、珍しくかっこよかったのになぁ。
その切り替えの早さに、苦笑いが零れた。
***
話題を変えて、ここ一週間の教室の様子を話していると、いつの間にか日が沈みかけていた。
『そろそろ帰るよ』
『えー。もうちょっといいじゃんかー』
『暗くなったら怖いもん』
『嘉那の怖いものかー。まー普通に危ないもんね。今日は来てくれてありがとう。気を付けて帰って』
巴はヒラヒラと手を振る。
どこか寂しそうに見えたのは、たぶん気のせいじゃない。
『寂しくて泣きそうになったら、さっきの封筒見てね』
『違う意味で泣かせようとしてない?』
私はペロッと舌を出し、巴に手を振って病室を出た。