自分よりも先をゆく雪女に、華代はついて行くのに精一杯だ。
自分よりも数段前にいる、冬結と名乗った雪女は、本当に薄気味悪い女である。
彼女は、まるで、胴に芯があるかのように真っ直ぐ立ち、歩く。その上、足音は一切せず、着物が擦れ合う音もしない。
微かに、髪が擦れ合う音だけが聞こえてくる。
彼女といればいるほど帰りたくなる。
「もうすぐ‥‥‥早く、華代」
背中に嫌な汗が伝う。心臓を冷たい手で撫でられたように、身体が震える。まるで、地獄に連れて行かれるかのようだった。
華代は、一度立ち止まり、足をたたいた。足に血を巡らせ、震える身体に鞭を打った。
大きく深呼吸をして、彼女を追いかけるべく、階段を登った。
全段登れば、広い境内が見える。
手入れがよくなされているのだろう。狛犬にも、石の鳥居にも、苔ひとつついていない。
ただ、社は荒屋を彷彿とさせるほど古く、さびれていた。少し風が吹けば、根こそぎ飛んでいってしまうのではないか、と考えずにはいられない。
「‥‥‥本当に、人なんて住んでるの?」
不安げな華代の声を聞き、冬結は、
「‥‥‥結は、もっと自分を甘やかすべきだと思う」
と言った。
ただ、表情が変わらない彼女の心情は読めない。今の言葉も、場合によっては、馬鹿にしているとも取れるし、身を案じているとも取れる。「えっと、つまり、ここに住んでるのであってるんですよね?」
「夏が快適ならいいみたい。でも、きっと夏も快適じゃない。それに冬はもっと辛い」
「冬‥‥‥確かに、雪が降ったら寒そうですね」
「冬は重ね着すればいいって言って、私のいうことを聞いてくれない。本当に、自分勝手」
先ほどから、会話が噛み合っているようで噛み合っていない。
冬結はきっと、自分の話を聞いていないのだろう。と、華代は察した。
しばらく話して満足したのか、冬結は、社を指差す。
「あそこにいる。扉を叩いてみて」
自分一人で行かせるのか、と思ったが、よくよく考えたら、彼女はあくまで、厚意で案内してくれただけだ。ここまで来て、その陰陽師を紹介する筋合いは、確かにない。
(‥‥‥叩いただけで、壊れそう)と思いながら、控えめに戸を叩く。
「ご、ごめんください‥‥‥!」
絞り込むように言うと、木が軋む音と共に、扉が開いた。
中はそこまで広くない。
生活感のない室内の奥には、薄絹の帳がかかっている。その奥に、誰かいる。
「っ‥‥‥」
思わず身構える。
「誰‥‥‥?」
聞こえてきたのは低い声。
それ共に、帳の隙間から、白い手が伸びてきた。その手が、ゆっくりと帳を上げる。
そして、白い手の持ち主の美しい顔が露わになった。
息を、呑んだ。
出てきたのは、黒と紫の袴と、陰気な雰囲気を身に纏った青年だった。
絹糸のようにさらりとした黒髪。前髪は、若白髪なのか、右の方が白くなっている。
彼の陰気な雰囲気を出す瞳は、月色に輝いている。
美しい。そう思わずにはいられなかった。
「あ、あの、あなたが‥‥‥?」
華代は、驚いていた。それは、彼の美しさに対してだけではなく、彼の見た目に関してでもある。
『結』という名、そして、陰陽師という、怪異と関わる、尋常ではない仕事なのだから、てっきり、年老いた女性が出てくるものかと思っていたら、出てきたのは、自身と年も変わらない、若い青年だったのだ。
「君が、『陰陽師の結』を探してるなら、僕がそうだよ」
心にスッと入ってくる彼の言葉に、華代は肩を下ろす。
冬結が、怖い印象だったからか、無意識に、彼にもそんな印象を抱いていたのかもしれない。
「結、もう少し、住んでる場所をわかりやすくしようとは思わないの?」
「考えた事ないよ」
冬結の疑問に、結は即答した。まるで、聞かれることがわかっていたようだ。
「この子、この山と間違えて、妖山に来てたの。間違える人がいるんだから、わかりやすくした方がいい」
「それ、単にこの子が自殺志願者か、馬鹿だっただけじゃない? 冬結が勘違いして連れてきちゃっただけじゃない?」
なんとも気だるげな言い方だが、遠回しにも馬鹿にされた華代の心情は、複雑だ。
「‥‥‥そんなことない。結に依頼したいことがあるって言ったから」
冬結の言い方が強みを帯びる。
「そう‥‥‥。じゃあ、話を聞こうかな」
結は茶の用意をしに、厨に行ってしまった。一人置いてきぼりを食らった華代は、居心地悪そうに辺りを見渡す。
先ほども言ったが、なんともまあ生活感のない部屋だ。調度品どころか家具一つ置いていない。あるのは壊れかけた床板と壁だけだ。
いや、彼は帳の向こうから出てきたので、そこに布団や火鉢などの日用品がある可能性もあるのか‥‥‥。
一人黙考していると、冬結が、
「‥‥‥出入り口の前に突っ立ってるのは無作法じゃない?」
と僅かに目を細める。
そんなこと言われても、一体どこに行けば良いのか。華代は冬結を睨む。
「帳の向こう」
「え?」
華代は思わず声が出る。
「帳の向こうに行けばいいの」
そう言って帳の先を指差す冬結。
「え、でも‥‥‥」
華代は躊躇う。あの向こう側は、彼の部屋のようなものなのではないか。入られたら迷惑になるのではないか。
そんな考えが脳裏をよぎり、華代は混乱した。
「どうせあっちに連れて行かれるから、関係ない」
冬結の声は、抑揚がないと、この時思った。
「あ‥‥‥わかりました」
華代は渋々だが、帳の間を潜った。
自分よりも数段前にいる、冬結と名乗った雪女は、本当に薄気味悪い女である。
彼女は、まるで、胴に芯があるかのように真っ直ぐ立ち、歩く。その上、足音は一切せず、着物が擦れ合う音もしない。
微かに、髪が擦れ合う音だけが聞こえてくる。
彼女といればいるほど帰りたくなる。
「もうすぐ‥‥‥早く、華代」
背中に嫌な汗が伝う。心臓を冷たい手で撫でられたように、身体が震える。まるで、地獄に連れて行かれるかのようだった。
華代は、一度立ち止まり、足をたたいた。足に血を巡らせ、震える身体に鞭を打った。
大きく深呼吸をして、彼女を追いかけるべく、階段を登った。
全段登れば、広い境内が見える。
手入れがよくなされているのだろう。狛犬にも、石の鳥居にも、苔ひとつついていない。
ただ、社は荒屋を彷彿とさせるほど古く、さびれていた。少し風が吹けば、根こそぎ飛んでいってしまうのではないか、と考えずにはいられない。
「‥‥‥本当に、人なんて住んでるの?」
不安げな華代の声を聞き、冬結は、
「‥‥‥結は、もっと自分を甘やかすべきだと思う」
と言った。
ただ、表情が変わらない彼女の心情は読めない。今の言葉も、場合によっては、馬鹿にしているとも取れるし、身を案じているとも取れる。「えっと、つまり、ここに住んでるのであってるんですよね?」
「夏が快適ならいいみたい。でも、きっと夏も快適じゃない。それに冬はもっと辛い」
「冬‥‥‥確かに、雪が降ったら寒そうですね」
「冬は重ね着すればいいって言って、私のいうことを聞いてくれない。本当に、自分勝手」
先ほどから、会話が噛み合っているようで噛み合っていない。
冬結はきっと、自分の話を聞いていないのだろう。と、華代は察した。
しばらく話して満足したのか、冬結は、社を指差す。
「あそこにいる。扉を叩いてみて」
自分一人で行かせるのか、と思ったが、よくよく考えたら、彼女はあくまで、厚意で案内してくれただけだ。ここまで来て、その陰陽師を紹介する筋合いは、確かにない。
(‥‥‥叩いただけで、壊れそう)と思いながら、控えめに戸を叩く。
「ご、ごめんください‥‥‥!」
絞り込むように言うと、木が軋む音と共に、扉が開いた。
中はそこまで広くない。
生活感のない室内の奥には、薄絹の帳がかかっている。その奥に、誰かいる。
「っ‥‥‥」
思わず身構える。
「誰‥‥‥?」
聞こえてきたのは低い声。
それ共に、帳の隙間から、白い手が伸びてきた。その手が、ゆっくりと帳を上げる。
そして、白い手の持ち主の美しい顔が露わになった。
息を、呑んだ。
出てきたのは、黒と紫の袴と、陰気な雰囲気を身に纏った青年だった。
絹糸のようにさらりとした黒髪。前髪は、若白髪なのか、右の方が白くなっている。
彼の陰気な雰囲気を出す瞳は、月色に輝いている。
美しい。そう思わずにはいられなかった。
「あ、あの、あなたが‥‥‥?」
華代は、驚いていた。それは、彼の美しさに対してだけではなく、彼の見た目に関してでもある。
『結』という名、そして、陰陽師という、怪異と関わる、尋常ではない仕事なのだから、てっきり、年老いた女性が出てくるものかと思っていたら、出てきたのは、自身と年も変わらない、若い青年だったのだ。
「君が、『陰陽師の結』を探してるなら、僕がそうだよ」
心にスッと入ってくる彼の言葉に、華代は肩を下ろす。
冬結が、怖い印象だったからか、無意識に、彼にもそんな印象を抱いていたのかもしれない。
「結、もう少し、住んでる場所をわかりやすくしようとは思わないの?」
「考えた事ないよ」
冬結の疑問に、結は即答した。まるで、聞かれることがわかっていたようだ。
「この子、この山と間違えて、妖山に来てたの。間違える人がいるんだから、わかりやすくした方がいい」
「それ、単にこの子が自殺志願者か、馬鹿だっただけじゃない? 冬結が勘違いして連れてきちゃっただけじゃない?」
なんとも気だるげな言い方だが、遠回しにも馬鹿にされた華代の心情は、複雑だ。
「‥‥‥そんなことない。結に依頼したいことがあるって言ったから」
冬結の言い方が強みを帯びる。
「そう‥‥‥。じゃあ、話を聞こうかな」
結は茶の用意をしに、厨に行ってしまった。一人置いてきぼりを食らった華代は、居心地悪そうに辺りを見渡す。
先ほども言ったが、なんともまあ生活感のない部屋だ。調度品どころか家具一つ置いていない。あるのは壊れかけた床板と壁だけだ。
いや、彼は帳の向こうから出てきたので、そこに布団や火鉢などの日用品がある可能性もあるのか‥‥‥。
一人黙考していると、冬結が、
「‥‥‥出入り口の前に突っ立ってるのは無作法じゃない?」
と僅かに目を細める。
そんなこと言われても、一体どこに行けば良いのか。華代は冬結を睨む。
「帳の向こう」
「え?」
華代は思わず声が出る。
「帳の向こうに行けばいいの」
そう言って帳の先を指差す冬結。
「え、でも‥‥‥」
華代は躊躇う。あの向こう側は、彼の部屋のようなものなのではないか。入られたら迷惑になるのではないか。
そんな考えが脳裏をよぎり、華代は混乱した。
「どうせあっちに連れて行かれるから、関係ない」
冬結の声は、抑揚がないと、この時思った。
「あ‥‥‥わかりました」
華代は渋々だが、帳の間を潜った。