文明開化が目覚ましい日本。
遙か昔、日本に災いが降り注いだ。
突如として現れた災いが形となったもの、異形が人々を襲った。
異形は人間の深い悲しみや怨念などを感じると襲いかかり、襲った人間に悪夢を見させ深い眠りにつかせる。
甚大な被害を受け人々が悲しみに暮れる中、ある一人の人物が体に秘めていた力に目覚め異形を倒した。
名を斎園寺秀一郎。
強力な力で現れた全ての異形を倒し、日本に平和をもたらした。
人々はその力を異能と呼び、秀一郎を崇めた。
秀一郎の家は元々小さな神社だったがやがて帝都で一番の権力をもつ名家となった。
時代が進むにつれ異能に目覚める人々が増えた。
災いは現在も時折、降り注いでおり襲撃に対抗する為軍隊も発足されている。
他には異能を使用して様々な事業を行っていたり自然災害が起こった際の復興に尽力したりする者もいる。
今では日本各地に異能の家系が存在している。
その中でも勢力を拡大しているのは帝都に屋敷を構える美藤《みふじ》家。
莫大な資産と広大な敷地を所有しており様々な事業を行っている。
美藤家のような異能の家系で生まれてくる子は物心がつく頃には自身の異能に目覚めていた。
しかし十六歳になっても異能に目覚めない美藤家の人間がいた。
「花!どうして頼んでおいた掃除をしていないの!」
屋敷中に響き渡るような怒鳴り声を発しながら少女に近づく女性。
少女の目の前に来ると勢い良く頬を手の平で叩く。
「うっ……!」
その強さで後ろの壁に背中を打ち、ずるずると床に座り込む。
赤くなりじんわりと痛む頬を押さえているのは美藤花。
由緒正しい異能の家系である美藤家の血が流れているが十六歳になった今でも異能に目覚めていない。
本来ならもうとっくに目覚めていてもおかしくない年齢だが何故か花は無能の存在だった。
「申し訳ありません……」
「これだから異端の子は…!何度見てもその髪は不気味だわ!」
異能が使えない上に花の髪色は薄桜色ということから周囲から『異端の子』と呼ばれ虐げられていた。
美藤の人間でありながらも令嬢としてでは無く使用人のような扱いを受けていた。
身に纏う着物は古びており、他の美藤家の人間達の食事のお膳立てや片付け、屋敷の掃除は全て行っていた。
使用人達も花の存在を不気味に感じており誰も助けようとはしなかった。
花を叩いたのは母の透緒子。
花にとって実の母だが自分の子供が異端の子だと知ると性格が豹変してしまった。
面倒をほとんど見ず乳母に任せていた。
実の父である貴之は花が幼い頃に亡くなった。
死去の後すぐに現在の美藤家の当主である蓮太郎がこの屋敷にやって来た。
使用人達が噂していたのは浮気。
貴之が亡くなる前から逢瀬を重ねていたらしい。
「あら、花がまた怒られてる」
ニヤニヤと笑いながら花の前に現れたのは姉の未都。
体を蹌踉けさせながら立ち上がる花を見て嘲笑うような視線を送る。
「本当にとろいわね。次苛々させたらまた記憶消すわよ」
花には幼い頃の記憶が無かった。
それは未都の異能、記憶の消去。
数年前に体調が悪くふらついた時に誤って未都の大切な着物にお茶をこぼしてしまった。
その際、怒りの沸点に達した未都は花の幼少期の記憶を消した。
それからはこの屋敷で使用人のように働く記憶しかない。
未都の異能は美藤家にとって重宝された。
自分達に都合の悪い事は記憶を消して他の名家に圧力をかけてきた。
未都は花とは違い、周囲から愛されている。
美しい細工が施された髪飾りを付け上等な着物を身に纏い、欲しい物があればねだれば全て手に入っていた。
花も可愛らしい小物や着物に憧れはあった。
しかしそんなお願いをすれば怒鳴られるのは目に見えている。
いつしか自分なんかが夢や希望をもってはいけないと思うようになった。
「掃除が終わったら食事の準備をしなさい」
「はい……」
二人は踵を返すとその場をあとにした。
まだジンジンと頬が痛む。
本当は濡れた布で冷やしたいがそんなことをしていたらまた怒られてしまう。
花は掃除用具を取りに向かう為、足早に廊下を歩き出した。
とある日。
仕事を終え、花が自室へ戻っていると明かりが点いているのが分かった。
消し忘れたのだろうかと不思議に思い戸を開けるとそこには未都がいた。
机の引き出しを開け、中を物色していたのか辺りの畳に物が散らばっていることが分かった。
花が唖然としていると未都の手に簪《かんざし》があることに気がついた。
「その簪……」
「どうして花がこんな上等な簪を持っているの?」
その簪は使用人として働いていた花の唯一の味方だった静江から貰った簪だった。
静江は田舎の両親からお見合いを勝手に勧められやむを得ず仕事を辞め、村へ帰った。
帰る直前、花に今までのお礼と傍に居られないことへの謝罪として上等な簪を贈ってくれたのだ。
花も寂しかったが静江は高齢の両親を案じているのを知っていた為、止めることはしなかった。
普段は簪を身に付けることは出来なかったので毎晩、就寝前に引き出しから取り出して元気を貰っていた。
その大事にしていた簪を今は自分を虐めている未都が持っている。
「これ私に頂戴」
「えっ……!?」
「何?私に口答えするつもり?」
未都は簪を手にしたまま、部屋を出て行こうとする。
花は無意識に未都から簪を奪い取った。
「ちょっと!何するの!」
「こっ、これは私の大事な……」
初めて家族に逆らった。
普段なら異論や反論は絶対にしない。
しかしこの簪が取られてしまったら明日からどう生きていけば良いのだろうと思い、気づいたときには腕が伸びていた。
自分に逆らってきた格下の姉に腹が立っているのか未都は顔が真っ赤だった。
「生意気よ!言うことを聞きなさい!」
未都の手が伸びてまた簪を奪おうとする。
「嫌です……!」
花も抵抗し揉み合いになる。
すると急に未都は小さく笑い、力を緩める。
蹌踉けたように体勢を崩し尻餅をつく。
花は押したりしていないのにわざとらしく手を出されたような演技をした。
「誰か!助けて!」
大声で助けを呼ぶとすぐに母の透緒子と使用人が来た。
座り込む未都に気がつくとすぐに傍に寄る。
「花が私を押し飛ばしたの……」
うっすらと涙を溜めて話す未都に透緒子は鋭い視線を花に送る。
殺気立った目に体が硬直してしまう。
「花!貴女何てことを!」
「ちが……!」
「未都は美藤家にとって大事な存在なのよ!傷がついたらどうするの!?」
花も美藤家の令嬢なのに。
薄々分かっていたがもう他の人にとって自分はこの家の人間ではなく、ただの使用人なのだ。
心の中で今までの頑張りが解けるような感覚がした。
ここにいても自分はこのまま使用人として働くだけ。
最近はろくに食事や睡眠をとっていないからか体調が悪くなることが多かった。
いつ倒れて死んでもおかしくないと思っていた。
逆に花はそうなることを願っていた。
そうすればこの生活から抜け出せるから。
でもこの家で死ぬのは嫌だ。
どうせ死ぬのなら一人で静かに死にたい。
花は拳をぎゅっと握り締め、外に向かって駆けだした。
「な……!花待ちなさい!あの子を早く捕まえて!」
思わぬ花の行動に一瞬目を見開いたがすぐに隣にいた使用人に命令をする。
「は、はい!」
使用人は立ち上がり急いで花を追いかけながら他の使用人にも声をかける。
花は草履を履かず廊下の窓を開け庭に出る。
玄関から出るのは諦めていた。
庭の掃き掃除をしている時に偶然見つけた人一人通れるような隙間を見つけたのを思い出しそこから敷地の外に出る。
今は夜も遅い。
少ない街灯を頼りに無我夢中で足を動かす。
「待ちなさい!」
後ろから使用人達が追いかけてくるのに気がついた。
せめて死ぬ時は誰にも縛られず自由でいたい。
花は振り返らず目の前の暗闇に進んで行った。
どれくらい走っただろう。
見渡す景色を見るかぎり美藤家の近所では無い所まで来たようだ。
近くには竹藪が生い茂っており辺りには住宅もない。
「はぁ、はぁ……」
体調が悪いのによくここまで走れたと思う。
死ぬ直前の振り絞った力が湧き上がったのかもしれない。
過呼吸のようになり心臓も痛い。
もう少し逃げたいのに体が動かず思わず物陰に隠れ座り込む。
「どこだー!?」
近くから使用人の声が聞こえる。
使用人には男性もいるので追いつかれるのも時間の問題だろう。
段々、花を探す声が近くなってきている。
今立ち上がったらすぐに見つかってしまうだろう。
息を殺してじっと蹲る。
見つからないように祈りながらこの時間を耐える。
その時。
花の肩に手が置かれた。
見つかってしまった。
捕まってしまったらきっと屋敷牢に入れられてしまう。
あの人達のことだ。
花が自害したように見せかけて命を狙うかもしれない。
やはり最初から逃げるなんて無理だったのだ。
逃げ切れると思った自分が馬鹿に思えてくる。
諦めながら顔をゆっくり上げるとそこには見知らぬ男性が立っていた。
綺麗な黒髪に吸い込まれるような瞳、陶器のような肌に上等な着物を着ている。
美藤家で働く使用人ではないのはすぐに分かった。
(誰だろう……)
聞きたいのに疲労からか喉が詰まったような感覚がして言葉が出てこない。
戸惑う花の目の前に手が差し出される。
「こちらへ」
花を捕らえようとする人物なら見つけた瞬間から強引に手を出すだろう。
しかしこの男性は動けない花にそっと手を差し出しているので今回の件とは関係が無さそうだ。
でも今初めて会った人をすぐに信頼しても良いのだろうかと考えてしまい手を取ることが出来ない。
そんな様子を見て花の考えに気づいたのか男性は小さく微笑む。
「大丈夫だから」
その一言が絶望で支配されていた花の心に光を差し込んだ。
勇気を出して差し出された手を取る。
男性は花の手を優しく握るとゆっくりと立ち上がらせてくれる。
「歩けるか?」
「……はい」
振り絞った小さな返事を聞くと男性は手を引き花の歩幅に合わせながらその場から離れた。
暫く歩くと追いかけてくる使用人達の声は次第に聞こえなくなった。
花は男性に手を引かれながら竹藪の中を歩いていた。
会話も無くただ静かな時間が流れる。
(何処に行くのだろう……)
心の中に疑問が生まれ問おうとした時、竹藪から開けた所にとてつもない広大な屋敷が見えた。
美藤家や他の名家とは比べ物にならないほどの大きさに思わず立ち尽くす。
「ここは……?」
ポツリと呟いた花の言葉を聞いた男性が繋いでいた手をそっと離し向かい合うように立つ。
「紹介が遅くなってすまない。俺は斎園寺燈夜。ここは斎園寺家の屋敷だ」
斎園寺……!?)
花は慌てて頭を下げる。
花の目の前にいるのは日本に数多ある異能持ちの名家の中で最高位に君臨する斎園寺家の当主、斎園寺燈夜。
絶大な力を所有することから異能軍の軍隊長として働き、日本の一番の権力者である帝の次に名高い存在だ。
小学校までしか通っていない花でも話には聞いたことがある。
そんな人物が蹲っていた自分を助けて下さったのだ。
深く頭を下げ感謝と謝罪を伝える。
「助けて下さりありがとうございます……!そしてご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません!」
この国では格上の家系である斎園寺家の当主様に迷惑をかけてしまった。
今の自分には頭を下げることしか出来ない。
顔を見た時点で気がつくべきなのに無知な自分が恥ずかしくなる。
「顔を上げて」
優しい声色にゆっくりと顔を上げる。
本当はまだ頭を下げていたいほど後悔の念があったが相手は皇室の次に権力をもつ斎園寺家の当主。
命令には絶対に従わなくてはいけないと判断する花。
そんな花に燈夜は温かな眼差しを向ける。
「困っている人を助けるのは当然だ。だから謝らないで」
「斎園寺様…」
異端の子と呼ばれ虐げられてきた自分に慈悲深さを見せてくれる人は元使用人の静江以外で初めてだ。
「名前を聞いても良いか?」
「あっ……!」
相手が名乗り、自分は助けてもらった身分なのに名前を言っていないことに背筋に汗が伝うのが分かった。
また慌てて頭を下げる。
「美藤花と申します……!ご挨拶が遅れて申し訳ありません!」
「花……。愛らしい名前だね」
思わずパッと顔を上げ燈夜を見つめる。
自分の名前が愛らしいなんて言われたのは思い返す限りの記憶の中では無い。
名前を付けたのは両親だが父の記憶は無いし、母が異端の子に可愛いなんて言うはずが無い。
恥ずかしさと嬉しさで頬が熱くなるのが分かった。
顔を赤くして照れている花を燈夜は微笑みながら見る。
「花と呼んでも良いか?」
「は、はい」
初めて家族以外に名前で呼ばれることに驚いたが勢いで了承してしまった。
だが燈夜の願いを断るという選択肢も無かった。
「花、手の薬指を見てごらん」
「薬指……?」
突然そう言われ自分の右手の薬指を見ると何かの模様が浮かんでいるのが分かった。
「これは……!?」
いつから浮かんでいるのだろう。
言われて初めて気づいた。
美藤家の屋敷から逃げ出す前には無かった模様。
左手でそっと触ってみるが消えない。
困惑している花の前にすっと燈夜が自分の手を出す。
その薬指には花と同じ模様が浮かんでいる。
「同じ模様が……!」
特に痛さも痒さも無い。
これはどういうことなのかさらに頭の中が混乱する。
燈夜は一歩前に出て花の顔を覗き込む。
急に近づいた距離に花は胸が高鳴る。
「これは西園寺家の家紋だよ」
「家紋……?どうして……」
不思議なことだが、まだ燈夜の指に浮かぶのは分かる。
しかし何故、斎園寺家とは関係の無い花まで家紋が浮かんでいるのか。
花の考えがまるでお見通しかのように燈夜は口を開く。
「花に家紋が浮かんでいるのは私の花嫁の証だからだ」
「花嫁……!?」
先程から驚くことばかりで心臓がおかしくなりそうだ。
自分があの斎園寺家の当主の花嫁だと言われてもすぐに信じられない。
「古くからの言い伝えは聞いたことあるか?」
「言い伝え……?あ……」
『家紋』『花嫁』『言い伝え』
この言葉を繋げると頭の中にとある話が思い浮かぶ。
花が屋敷で家事をしていた時に美藤家の使用人達が話しているのを偶然聞いてしまったことがある。
数多ある異能の家系で薬指に家紋が浮かんだ男女二人は幸せな夫婦になると。
旦那様になる男性は女性と出会った瞬間、恋い焦がれるような気持ちになり、花嫁は旦那様に真綿で包まれるように一生大事にされる憧れの存在だということを使用人達は羨ましそうに話していた。
しかし実際はここ数百年、その現象は起こっていないそう。
今や事実なのか誰かの作り話なのか分からないと言われている。
花もその話を聞いて一瞬、憧れたがそんな夢のようなことは無いと思っていた。
「少しだけ聞いたことはあります。でも本当に私が……?何かの間違いでは……」
妹とは違い、異能が使えるわけでも無く髪も薄桜色。
仮に言い伝えが本当だとしても簡単に信じられることは出来ない。
花の動揺する瞳を真っ直ぐに見る燈夜。
「間違いではないよ。確かに数百年、この現象は起きていなかった。でも俺の先祖である斎園寺秀一郎は薬指に家紋が浮かび、その直後に後に妻になる女性と出会った」
真剣に話す燈夜が嘘をついているようには見えない。
自分の薬指に浮かぶ家紋を見つめ使用人達が話していた言い伝えは信じられないようだが紛れもない事実だったのだと分かった。
「花」
自然と俯いていた花の頬に燈夜は手を伸ばし優しく上を向かせる。
冷たい頬に温かな体温が伝わって緊張で体が固まってしまう。
「俺と結婚しないか?」
「え……」
人生で初めての求婚に驚きを隠せない。
それ以前に男性に愛の言葉を囁かれたこともないのに数分前に会ったばかりの男性に結婚を申し込まれてる。
しかも相手はあの斎園寺家の当主。
家紋が浮かんだだけでそんな簡単に花嫁を決めてしまって良いのだろうか。
「私は美藤家の血が流れていますが異能が使えない無能の存在なのです。それに髪も他の人とは違う薄桜色……。こんな自分は花嫁にはなれません」
自分で自分の存在を言葉にして否定するのは想像より辛くて視界が涙で歪む。
こんな様を斎園寺家の当主に見せてはいけないと手で拭う。
泣いてはいけないと思えば思うほど何故か涙が零れてしまう。
その時。
一筋の零れ落ちた涙を燈夜の指先が拭った。
「私は花が良いんだ。異能が使えなくても良い。それにその薄桜色の髪も美しいよ」
初めてだった。
今まで無能と髪のせいで虐げられてきたのにそれを男性で認めて褒めてくれる人と会ったのは。
美藤家にいた頃は未来が真っ暗に見えて嬉しさや喜びの感情が無かった。
周囲から罵声を浴びるうちに自分でも自分のことが嫌いになった。
でも燈夜のその言葉で光が差し込んだような気がした。
「もしかして恋仲がいたか?」
「い、いえ!そのような方はいません!」
「そうか。それなら良かった」
安心したように微笑む燈夜が美しくて思わず見蕩れてしまう。
お互いに見つめ合うような形になってしまい花は恥ずかしさを誤魔化すように視線を逸らす。
優しくだが逸らすのは許さないとでも言うように燈夜に顎を掬われ再び顔を上に向かせられる。
「結婚の返事はどうだ?」
「あ……」
美藤家でのあの騒動でもう帰ることは出来ない。
もう直ぐ死ぬのだと覚悟していた自分に他に行く所も無い。
それに何よりあの斎園寺家の当主からの頼み。
断るという選択肢は初めから無い。
ただ自分はどんな命令や頼みでも頷いて実行するだけ。
それが自分のすべきことだと自負している。
燈夜に向かって深々と頭を下げる。
「かしこまりました……」
そう言って今まで母や妹に従ってきた。
無論、この国の格上の存在である燈夜なら尚更。
頭を下げたままじっと燈夜の次の言葉を待つ。
「花、顔を上げなさい」
ゆっくり顔を上げると燈夜は花の頭を撫でた。
予想外の出来事に思考が停止する。
「これは命令ではないよ。一人の男として花に求婚をしているんだ」
熱を含んだ目で見つめられ鼓動が早くなる。
真剣に結婚を申し込んでくれていることは伝わっているし少しだけ嬉しさもあった。
しかし燈夜のことも知らない、自分には教養も無い、簡単に返事をしてしまって良いのだろうか。
戸惑っている花を見て燈夜は口を開く。
「困らせてしまったね。返事はまた今度で良いから。もう夜も遅い。家まで送るよ」
「い、家は……。その……」
何て説明したら良いのだろう。
今、屋敷に帰ったらどんな目にあわせられるのか考えるだけで心が恐怖で支配される。
体を小刻みに震わせ怯えている花を見て燈夜はそっと手を握る。
「何か事情があるようだね。それならこの屋敷に居なさい」
「しかし……!」
由緒ある西園寺家に異端の子が居たら必ず迷惑になる。
そのことに関しては、はっきり断ろうとした時冷たい風が体に吹き付けた。
思わずぶるっと震わせる。
季節は春。
日中は暖かいが夜はまだまだ寒い。
美藤家の屋敷から飛び出して来たので特別温かい格好もしていない。
手を擦りながら再び口を開こうとした時、ふわりと体に何か掛かった。
ちらりと見ると燈夜の羽織だった。
「いけません…!私は平気ですから斎園寺様が着ていて下さい!」
慌てて脱ごうとするが手で制止させられる。
「遠慮はしないで。風邪をひいたら大変だ」
花は虐げられるだけの自分は体調が悪くなっても良いと思った。
しかし燈夜が体を壊し万が一のことがあったらこの国の途轍もない損失。
存在の価値を考えてすぐに分かることだ。
大人しそうに見えてなかなか強情な花に燈夜は困ったように笑う。
「じゃあ、これは命令だ。このまま羽織を着て斎園寺家の屋敷に居なさい」
と言いつつも口調はとても優しくてとても命令には聞こえない。
そんなことは初めてできょとんとする花に愛おしそうに笑う燈夜。
でも命令は命令。
断る選択肢を捨て頷く。
「はい……」
花の返事を聞いて満足そうに微笑むと手を引かれる。
「さあ、屋敷に入ろう」
燈夜に連れられ玄関の戸を開けると中年くらいの女性が小走りで廊下の奥からこちらへ来た。
「燈夜様……!中々戻られないので心配しましたよ!」
燈夜の顔を見ると安心したようにホッと息をつく女性。
その燈夜の少し後ろにいる花にもすぐに気づいた女性は不思議そうな驚いたような表情を浮かべる。
「燈夜様、そちらのご令嬢は?」
「私の想い人の美藤花だ。今日からこの屋敷で暮らすことになった」
「まあ!ついに燈夜様が……!」
嬉しそうに口元を押さえる女性はすぐに花に視線を向ける。
「私、燈夜様のお世話係の千代子と申します」
丁寧にお辞儀をされ花も慌てて頭を下げる。
「美藤花と申します……!宜しくお願い致します」
「とても可愛らしい方ですわ……!ハッ!急いで花様の部屋の準備を致します!」
「あと食事と風呂、着替えも頼む」
「かしこまりました!」
そう言うと千代子は慌てて踵を返し再び廊下を小走りしながら去って行った。
廊下の奥へ消えていく千代子を見つめながら嵐のような出来事に唖然としてしまう花。
自分が暮らす為の準備を今からするのだろう。
何か自分も手伝わなくてはと焦りが出て燈夜を見る。
「私もお手伝いさせて下さい……!」
花のお願いに燈夜は考えるそぶりを見せるがすぐに首を横に振った。
「花の願いは何でも聞いてあげたいが今は千代子に任せよう」
「しかし……!」
美藤家に居た頃は食事や風呂などの準備は花が行ってきた。
働くことが体に染みついている。
それに全て任せてしまうのは気が引ける。
何か少しでも自分に出来ることをしたいという思いで燈夜を見つめる。
懇願の瞳を向けられた燈夜は花の頬にそっと触れる。
「顔色が悪い。このままだと倒れてもおかしくない。今日は食事と風呂を済ませたら寝た方が良い」
そう言われて確かに頭が少しふらつく感覚が分かった。
美藤家の屋敷を飛び出す前は体調が悪く食事を取らずにいた。
その上、長い距離を走ったので体調も悪化してしまったようだ。
この状態で手伝いをしたら逆に迷惑をかけてしまうだろう。
燈夜の言葉に小さく花は頷く。
「分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」
「ああ。好きなだけ甘えなさい」
愛おしそうに優しく頭を撫でられていると風呂の準備が出来たと報告する為、千代子がこちらへ来るのだった。
遙か昔、日本に災いが降り注いだ。
突如として現れた災いが形となったもの、異形が人々を襲った。
異形は人間の深い悲しみや怨念などを感じると襲いかかり、襲った人間に悪夢を見させ深い眠りにつかせる。
甚大な被害を受け人々が悲しみに暮れる中、ある一人の人物が体に秘めていた力に目覚め異形を倒した。
名を斎園寺秀一郎。
強力な力で現れた全ての異形を倒し、日本に平和をもたらした。
人々はその力を異能と呼び、秀一郎を崇めた。
秀一郎の家は元々小さな神社だったがやがて帝都で一番の権力をもつ名家となった。
時代が進むにつれ異能に目覚める人々が増えた。
災いは現在も時折、降り注いでおり襲撃に対抗する為軍隊も発足されている。
他には異能を使用して様々な事業を行っていたり自然災害が起こった際の復興に尽力したりする者もいる。
今では日本各地に異能の家系が存在している。
その中でも勢力を拡大しているのは帝都に屋敷を構える美藤《みふじ》家。
莫大な資産と広大な敷地を所有しており様々な事業を行っている。
美藤家のような異能の家系で生まれてくる子は物心がつく頃には自身の異能に目覚めていた。
しかし十六歳になっても異能に目覚めない美藤家の人間がいた。
「花!どうして頼んでおいた掃除をしていないの!」
屋敷中に響き渡るような怒鳴り声を発しながら少女に近づく女性。
少女の目の前に来ると勢い良く頬を手の平で叩く。
「うっ……!」
その強さで後ろの壁に背中を打ち、ずるずると床に座り込む。
赤くなりじんわりと痛む頬を押さえているのは美藤花。
由緒正しい異能の家系である美藤家の血が流れているが十六歳になった今でも異能に目覚めていない。
本来ならもうとっくに目覚めていてもおかしくない年齢だが何故か花は無能の存在だった。
「申し訳ありません……」
「これだから異端の子は…!何度見てもその髪は不気味だわ!」
異能が使えない上に花の髪色は薄桜色ということから周囲から『異端の子』と呼ばれ虐げられていた。
美藤の人間でありながらも令嬢としてでは無く使用人のような扱いを受けていた。
身に纏う着物は古びており、他の美藤家の人間達の食事のお膳立てや片付け、屋敷の掃除は全て行っていた。
使用人達も花の存在を不気味に感じており誰も助けようとはしなかった。
花を叩いたのは母の透緒子。
花にとって実の母だが自分の子供が異端の子だと知ると性格が豹変してしまった。
面倒をほとんど見ず乳母に任せていた。
実の父である貴之は花が幼い頃に亡くなった。
死去の後すぐに現在の美藤家の当主である蓮太郎がこの屋敷にやって来た。
使用人達が噂していたのは浮気。
貴之が亡くなる前から逢瀬を重ねていたらしい。
「あら、花がまた怒られてる」
ニヤニヤと笑いながら花の前に現れたのは姉の未都。
体を蹌踉けさせながら立ち上がる花を見て嘲笑うような視線を送る。
「本当にとろいわね。次苛々させたらまた記憶消すわよ」
花には幼い頃の記憶が無かった。
それは未都の異能、記憶の消去。
数年前に体調が悪くふらついた時に誤って未都の大切な着物にお茶をこぼしてしまった。
その際、怒りの沸点に達した未都は花の幼少期の記憶を消した。
それからはこの屋敷で使用人のように働く記憶しかない。
未都の異能は美藤家にとって重宝された。
自分達に都合の悪い事は記憶を消して他の名家に圧力をかけてきた。
未都は花とは違い、周囲から愛されている。
美しい細工が施された髪飾りを付け上等な着物を身に纏い、欲しい物があればねだれば全て手に入っていた。
花も可愛らしい小物や着物に憧れはあった。
しかしそんなお願いをすれば怒鳴られるのは目に見えている。
いつしか自分なんかが夢や希望をもってはいけないと思うようになった。
「掃除が終わったら食事の準備をしなさい」
「はい……」
二人は踵を返すとその場をあとにした。
まだジンジンと頬が痛む。
本当は濡れた布で冷やしたいがそんなことをしていたらまた怒られてしまう。
花は掃除用具を取りに向かう為、足早に廊下を歩き出した。
とある日。
仕事を終え、花が自室へ戻っていると明かりが点いているのが分かった。
消し忘れたのだろうかと不思議に思い戸を開けるとそこには未都がいた。
机の引き出しを開け、中を物色していたのか辺りの畳に物が散らばっていることが分かった。
花が唖然としていると未都の手に簪《かんざし》があることに気がついた。
「その簪……」
「どうして花がこんな上等な簪を持っているの?」
その簪は使用人として働いていた花の唯一の味方だった静江から貰った簪だった。
静江は田舎の両親からお見合いを勝手に勧められやむを得ず仕事を辞め、村へ帰った。
帰る直前、花に今までのお礼と傍に居られないことへの謝罪として上等な簪を贈ってくれたのだ。
花も寂しかったが静江は高齢の両親を案じているのを知っていた為、止めることはしなかった。
普段は簪を身に付けることは出来なかったので毎晩、就寝前に引き出しから取り出して元気を貰っていた。
その大事にしていた簪を今は自分を虐めている未都が持っている。
「これ私に頂戴」
「えっ……!?」
「何?私に口答えするつもり?」
未都は簪を手にしたまま、部屋を出て行こうとする。
花は無意識に未都から簪を奪い取った。
「ちょっと!何するの!」
「こっ、これは私の大事な……」
初めて家族に逆らった。
普段なら異論や反論は絶対にしない。
しかしこの簪が取られてしまったら明日からどう生きていけば良いのだろうと思い、気づいたときには腕が伸びていた。
自分に逆らってきた格下の姉に腹が立っているのか未都は顔が真っ赤だった。
「生意気よ!言うことを聞きなさい!」
未都の手が伸びてまた簪を奪おうとする。
「嫌です……!」
花も抵抗し揉み合いになる。
すると急に未都は小さく笑い、力を緩める。
蹌踉けたように体勢を崩し尻餅をつく。
花は押したりしていないのにわざとらしく手を出されたような演技をした。
「誰か!助けて!」
大声で助けを呼ぶとすぐに母の透緒子と使用人が来た。
座り込む未都に気がつくとすぐに傍に寄る。
「花が私を押し飛ばしたの……」
うっすらと涙を溜めて話す未都に透緒子は鋭い視線を花に送る。
殺気立った目に体が硬直してしまう。
「花!貴女何てことを!」
「ちが……!」
「未都は美藤家にとって大事な存在なのよ!傷がついたらどうするの!?」
花も美藤家の令嬢なのに。
薄々分かっていたがもう他の人にとって自分はこの家の人間ではなく、ただの使用人なのだ。
心の中で今までの頑張りが解けるような感覚がした。
ここにいても自分はこのまま使用人として働くだけ。
最近はろくに食事や睡眠をとっていないからか体調が悪くなることが多かった。
いつ倒れて死んでもおかしくないと思っていた。
逆に花はそうなることを願っていた。
そうすればこの生活から抜け出せるから。
でもこの家で死ぬのは嫌だ。
どうせ死ぬのなら一人で静かに死にたい。
花は拳をぎゅっと握り締め、外に向かって駆けだした。
「な……!花待ちなさい!あの子を早く捕まえて!」
思わぬ花の行動に一瞬目を見開いたがすぐに隣にいた使用人に命令をする。
「は、はい!」
使用人は立ち上がり急いで花を追いかけながら他の使用人にも声をかける。
花は草履を履かず廊下の窓を開け庭に出る。
玄関から出るのは諦めていた。
庭の掃き掃除をしている時に偶然見つけた人一人通れるような隙間を見つけたのを思い出しそこから敷地の外に出る。
今は夜も遅い。
少ない街灯を頼りに無我夢中で足を動かす。
「待ちなさい!」
後ろから使用人達が追いかけてくるのに気がついた。
せめて死ぬ時は誰にも縛られず自由でいたい。
花は振り返らず目の前の暗闇に進んで行った。
どれくらい走っただろう。
見渡す景色を見るかぎり美藤家の近所では無い所まで来たようだ。
近くには竹藪が生い茂っており辺りには住宅もない。
「はぁ、はぁ……」
体調が悪いのによくここまで走れたと思う。
死ぬ直前の振り絞った力が湧き上がったのかもしれない。
過呼吸のようになり心臓も痛い。
もう少し逃げたいのに体が動かず思わず物陰に隠れ座り込む。
「どこだー!?」
近くから使用人の声が聞こえる。
使用人には男性もいるので追いつかれるのも時間の問題だろう。
段々、花を探す声が近くなってきている。
今立ち上がったらすぐに見つかってしまうだろう。
息を殺してじっと蹲る。
見つからないように祈りながらこの時間を耐える。
その時。
花の肩に手が置かれた。
見つかってしまった。
捕まってしまったらきっと屋敷牢に入れられてしまう。
あの人達のことだ。
花が自害したように見せかけて命を狙うかもしれない。
やはり最初から逃げるなんて無理だったのだ。
逃げ切れると思った自分が馬鹿に思えてくる。
諦めながら顔をゆっくり上げるとそこには見知らぬ男性が立っていた。
綺麗な黒髪に吸い込まれるような瞳、陶器のような肌に上等な着物を着ている。
美藤家で働く使用人ではないのはすぐに分かった。
(誰だろう……)
聞きたいのに疲労からか喉が詰まったような感覚がして言葉が出てこない。
戸惑う花の目の前に手が差し出される。
「こちらへ」
花を捕らえようとする人物なら見つけた瞬間から強引に手を出すだろう。
しかしこの男性は動けない花にそっと手を差し出しているので今回の件とは関係が無さそうだ。
でも今初めて会った人をすぐに信頼しても良いのだろうかと考えてしまい手を取ることが出来ない。
そんな様子を見て花の考えに気づいたのか男性は小さく微笑む。
「大丈夫だから」
その一言が絶望で支配されていた花の心に光を差し込んだ。
勇気を出して差し出された手を取る。
男性は花の手を優しく握るとゆっくりと立ち上がらせてくれる。
「歩けるか?」
「……はい」
振り絞った小さな返事を聞くと男性は手を引き花の歩幅に合わせながらその場から離れた。
暫く歩くと追いかけてくる使用人達の声は次第に聞こえなくなった。
花は男性に手を引かれながら竹藪の中を歩いていた。
会話も無くただ静かな時間が流れる。
(何処に行くのだろう……)
心の中に疑問が生まれ問おうとした時、竹藪から開けた所にとてつもない広大な屋敷が見えた。
美藤家や他の名家とは比べ物にならないほどの大きさに思わず立ち尽くす。
「ここは……?」
ポツリと呟いた花の言葉を聞いた男性が繋いでいた手をそっと離し向かい合うように立つ。
「紹介が遅くなってすまない。俺は斎園寺燈夜。ここは斎園寺家の屋敷だ」
斎園寺……!?)
花は慌てて頭を下げる。
花の目の前にいるのは日本に数多ある異能持ちの名家の中で最高位に君臨する斎園寺家の当主、斎園寺燈夜。
絶大な力を所有することから異能軍の軍隊長として働き、日本の一番の権力者である帝の次に名高い存在だ。
小学校までしか通っていない花でも話には聞いたことがある。
そんな人物が蹲っていた自分を助けて下さったのだ。
深く頭を下げ感謝と謝罪を伝える。
「助けて下さりありがとうございます……!そしてご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありません!」
この国では格上の家系である斎園寺家の当主様に迷惑をかけてしまった。
今の自分には頭を下げることしか出来ない。
顔を見た時点で気がつくべきなのに無知な自分が恥ずかしくなる。
「顔を上げて」
優しい声色にゆっくりと顔を上げる。
本当はまだ頭を下げていたいほど後悔の念があったが相手は皇室の次に権力をもつ斎園寺家の当主。
命令には絶対に従わなくてはいけないと判断する花。
そんな花に燈夜は温かな眼差しを向ける。
「困っている人を助けるのは当然だ。だから謝らないで」
「斎園寺様…」
異端の子と呼ばれ虐げられてきた自分に慈悲深さを見せてくれる人は元使用人の静江以外で初めてだ。
「名前を聞いても良いか?」
「あっ……!」
相手が名乗り、自分は助けてもらった身分なのに名前を言っていないことに背筋に汗が伝うのが分かった。
また慌てて頭を下げる。
「美藤花と申します……!ご挨拶が遅れて申し訳ありません!」
「花……。愛らしい名前だね」
思わずパッと顔を上げ燈夜を見つめる。
自分の名前が愛らしいなんて言われたのは思い返す限りの記憶の中では無い。
名前を付けたのは両親だが父の記憶は無いし、母が異端の子に可愛いなんて言うはずが無い。
恥ずかしさと嬉しさで頬が熱くなるのが分かった。
顔を赤くして照れている花を燈夜は微笑みながら見る。
「花と呼んでも良いか?」
「は、はい」
初めて家族以外に名前で呼ばれることに驚いたが勢いで了承してしまった。
だが燈夜の願いを断るという選択肢も無かった。
「花、手の薬指を見てごらん」
「薬指……?」
突然そう言われ自分の右手の薬指を見ると何かの模様が浮かんでいるのが分かった。
「これは……!?」
いつから浮かんでいるのだろう。
言われて初めて気づいた。
美藤家の屋敷から逃げ出す前には無かった模様。
左手でそっと触ってみるが消えない。
困惑している花の前にすっと燈夜が自分の手を出す。
その薬指には花と同じ模様が浮かんでいる。
「同じ模様が……!」
特に痛さも痒さも無い。
これはどういうことなのかさらに頭の中が混乱する。
燈夜は一歩前に出て花の顔を覗き込む。
急に近づいた距離に花は胸が高鳴る。
「これは西園寺家の家紋だよ」
「家紋……?どうして……」
不思議なことだが、まだ燈夜の指に浮かぶのは分かる。
しかし何故、斎園寺家とは関係の無い花まで家紋が浮かんでいるのか。
花の考えがまるでお見通しかのように燈夜は口を開く。
「花に家紋が浮かんでいるのは私の花嫁の証だからだ」
「花嫁……!?」
先程から驚くことばかりで心臓がおかしくなりそうだ。
自分があの斎園寺家の当主の花嫁だと言われてもすぐに信じられない。
「古くからの言い伝えは聞いたことあるか?」
「言い伝え……?あ……」
『家紋』『花嫁』『言い伝え』
この言葉を繋げると頭の中にとある話が思い浮かぶ。
花が屋敷で家事をしていた時に美藤家の使用人達が話しているのを偶然聞いてしまったことがある。
数多ある異能の家系で薬指に家紋が浮かんだ男女二人は幸せな夫婦になると。
旦那様になる男性は女性と出会った瞬間、恋い焦がれるような気持ちになり、花嫁は旦那様に真綿で包まれるように一生大事にされる憧れの存在だということを使用人達は羨ましそうに話していた。
しかし実際はここ数百年、その現象は起こっていないそう。
今や事実なのか誰かの作り話なのか分からないと言われている。
花もその話を聞いて一瞬、憧れたがそんな夢のようなことは無いと思っていた。
「少しだけ聞いたことはあります。でも本当に私が……?何かの間違いでは……」
妹とは違い、異能が使えるわけでも無く髪も薄桜色。
仮に言い伝えが本当だとしても簡単に信じられることは出来ない。
花の動揺する瞳を真っ直ぐに見る燈夜。
「間違いではないよ。確かに数百年、この現象は起きていなかった。でも俺の先祖である斎園寺秀一郎は薬指に家紋が浮かび、その直後に後に妻になる女性と出会った」
真剣に話す燈夜が嘘をついているようには見えない。
自分の薬指に浮かぶ家紋を見つめ使用人達が話していた言い伝えは信じられないようだが紛れもない事実だったのだと分かった。
「花」
自然と俯いていた花の頬に燈夜は手を伸ばし優しく上を向かせる。
冷たい頬に温かな体温が伝わって緊張で体が固まってしまう。
「俺と結婚しないか?」
「え……」
人生で初めての求婚に驚きを隠せない。
それ以前に男性に愛の言葉を囁かれたこともないのに数分前に会ったばかりの男性に結婚を申し込まれてる。
しかも相手はあの斎園寺家の当主。
家紋が浮かんだだけでそんな簡単に花嫁を決めてしまって良いのだろうか。
「私は美藤家の血が流れていますが異能が使えない無能の存在なのです。それに髪も他の人とは違う薄桜色……。こんな自分は花嫁にはなれません」
自分で自分の存在を言葉にして否定するのは想像より辛くて視界が涙で歪む。
こんな様を斎園寺家の当主に見せてはいけないと手で拭う。
泣いてはいけないと思えば思うほど何故か涙が零れてしまう。
その時。
一筋の零れ落ちた涙を燈夜の指先が拭った。
「私は花が良いんだ。異能が使えなくても良い。それにその薄桜色の髪も美しいよ」
初めてだった。
今まで無能と髪のせいで虐げられてきたのにそれを男性で認めて褒めてくれる人と会ったのは。
美藤家にいた頃は未来が真っ暗に見えて嬉しさや喜びの感情が無かった。
周囲から罵声を浴びるうちに自分でも自分のことが嫌いになった。
でも燈夜のその言葉で光が差し込んだような気がした。
「もしかして恋仲がいたか?」
「い、いえ!そのような方はいません!」
「そうか。それなら良かった」
安心したように微笑む燈夜が美しくて思わず見蕩れてしまう。
お互いに見つめ合うような形になってしまい花は恥ずかしさを誤魔化すように視線を逸らす。
優しくだが逸らすのは許さないとでも言うように燈夜に顎を掬われ再び顔を上に向かせられる。
「結婚の返事はどうだ?」
「あ……」
美藤家でのあの騒動でもう帰ることは出来ない。
もう直ぐ死ぬのだと覚悟していた自分に他に行く所も無い。
それに何よりあの斎園寺家の当主からの頼み。
断るという選択肢は初めから無い。
ただ自分はどんな命令や頼みでも頷いて実行するだけ。
それが自分のすべきことだと自負している。
燈夜に向かって深々と頭を下げる。
「かしこまりました……」
そう言って今まで母や妹に従ってきた。
無論、この国の格上の存在である燈夜なら尚更。
頭を下げたままじっと燈夜の次の言葉を待つ。
「花、顔を上げなさい」
ゆっくり顔を上げると燈夜は花の頭を撫でた。
予想外の出来事に思考が停止する。
「これは命令ではないよ。一人の男として花に求婚をしているんだ」
熱を含んだ目で見つめられ鼓動が早くなる。
真剣に結婚を申し込んでくれていることは伝わっているし少しだけ嬉しさもあった。
しかし燈夜のことも知らない、自分には教養も無い、簡単に返事をしてしまって良いのだろうか。
戸惑っている花を見て燈夜は口を開く。
「困らせてしまったね。返事はまた今度で良いから。もう夜も遅い。家まで送るよ」
「い、家は……。その……」
何て説明したら良いのだろう。
今、屋敷に帰ったらどんな目にあわせられるのか考えるだけで心が恐怖で支配される。
体を小刻みに震わせ怯えている花を見て燈夜はそっと手を握る。
「何か事情があるようだね。それならこの屋敷に居なさい」
「しかし……!」
由緒ある西園寺家に異端の子が居たら必ず迷惑になる。
そのことに関しては、はっきり断ろうとした時冷たい風が体に吹き付けた。
思わずぶるっと震わせる。
季節は春。
日中は暖かいが夜はまだまだ寒い。
美藤家の屋敷から飛び出して来たので特別温かい格好もしていない。
手を擦りながら再び口を開こうとした時、ふわりと体に何か掛かった。
ちらりと見ると燈夜の羽織だった。
「いけません…!私は平気ですから斎園寺様が着ていて下さい!」
慌てて脱ごうとするが手で制止させられる。
「遠慮はしないで。風邪をひいたら大変だ」
花は虐げられるだけの自分は体調が悪くなっても良いと思った。
しかし燈夜が体を壊し万が一のことがあったらこの国の途轍もない損失。
存在の価値を考えてすぐに分かることだ。
大人しそうに見えてなかなか強情な花に燈夜は困ったように笑う。
「じゃあ、これは命令だ。このまま羽織を着て斎園寺家の屋敷に居なさい」
と言いつつも口調はとても優しくてとても命令には聞こえない。
そんなことは初めてできょとんとする花に愛おしそうに笑う燈夜。
でも命令は命令。
断る選択肢を捨て頷く。
「はい……」
花の返事を聞いて満足そうに微笑むと手を引かれる。
「さあ、屋敷に入ろう」
燈夜に連れられ玄関の戸を開けると中年くらいの女性が小走りで廊下の奥からこちらへ来た。
「燈夜様……!中々戻られないので心配しましたよ!」
燈夜の顔を見ると安心したようにホッと息をつく女性。
その燈夜の少し後ろにいる花にもすぐに気づいた女性は不思議そうな驚いたような表情を浮かべる。
「燈夜様、そちらのご令嬢は?」
「私の想い人の美藤花だ。今日からこの屋敷で暮らすことになった」
「まあ!ついに燈夜様が……!」
嬉しそうに口元を押さえる女性はすぐに花に視線を向ける。
「私、燈夜様のお世話係の千代子と申します」
丁寧にお辞儀をされ花も慌てて頭を下げる。
「美藤花と申します……!宜しくお願い致します」
「とても可愛らしい方ですわ……!ハッ!急いで花様の部屋の準備を致します!」
「あと食事と風呂、着替えも頼む」
「かしこまりました!」
そう言うと千代子は慌てて踵を返し再び廊下を小走りしながら去って行った。
廊下の奥へ消えていく千代子を見つめながら嵐のような出来事に唖然としてしまう花。
自分が暮らす為の準備を今からするのだろう。
何か自分も手伝わなくてはと焦りが出て燈夜を見る。
「私もお手伝いさせて下さい……!」
花のお願いに燈夜は考えるそぶりを見せるがすぐに首を横に振った。
「花の願いは何でも聞いてあげたいが今は千代子に任せよう」
「しかし……!」
美藤家に居た頃は食事や風呂などの準備は花が行ってきた。
働くことが体に染みついている。
それに全て任せてしまうのは気が引ける。
何か少しでも自分に出来ることをしたいという思いで燈夜を見つめる。
懇願の瞳を向けられた燈夜は花の頬にそっと触れる。
「顔色が悪い。このままだと倒れてもおかしくない。今日は食事と風呂を済ませたら寝た方が良い」
そう言われて確かに頭が少しふらつく感覚が分かった。
美藤家の屋敷を飛び出す前は体調が悪く食事を取らずにいた。
その上、長い距離を走ったので体調も悪化してしまったようだ。
この状態で手伝いをしたら逆に迷惑をかけてしまうだろう。
燈夜の言葉に小さく花は頷く。
「分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」
「ああ。好きなだけ甘えなさい」
愛おしそうに優しく頭を撫でられていると風呂の準備が出来たと報告する為、千代子がこちらへ来るのだった。