最初の体育は、どうしても参加したかった。入学したときから、わたしはそれだけは強く心に決めていた。
 初っ端から見学なんてして、”あの子は体育に参加できない子”という認識を持たれるのは避けたかった。中学のとき、そうだったように。
 せめてそこだけでも、高校では変えたかった。せっかく環境が変わったのだから、ここが絶好のチャンスだと思った。

 それでも内容によっては見学もやむを得ないとは思っていたけれど、最初の体育の内容は、『軽く身体を動かしましょう』ということで、ストレッチやジョギングをやると聞いた。
 それならきっと大丈夫だ、とわたしは思った。ストレッチやジョギングなら激しく動くこともないし、きつくなってきたら早めに休めばいい。走るのは少し心配だけど、ジョギングなら自分のペースでやれる。無理をしないよう自分で調整しながら、参加すればいい。そう考えて、わたしは自信をもって、今日の体育に挑んだのだけれど――。

 ……見誤った。
 グラウンドを走りながら、わたしはつくづくそんなことを噛みしめていた。

 結論から言うと、まったく大丈夫ではなかった。
 始まってすぐに、みんなにとっての『軽く』とわたしにとっての『軽く』がぜんぜん違うことを、思い知ることになった。
 わたしの思っていたジョギングは、それこそ歩くよりほんの少しだけ速いぐらいの速さで、のんびりと走ることだった。
 けれどスタートの合図とともに走りだしたみんなの中に、そんな速さの人はひとりもいなかった。ぐんぐん前へ進むみんなに、あっという間に置いていかれたわたしは、しばしあっけにとられて遠ざかるみんなの背中を眺めてしまった。

 うそ、速い。
 驚いて、わたしは思わず周りを見渡す。誰もいない。わたしひとり、ぽつんと取り残されている。前を見ると、速い人はすでにグラウンドを半周回ろうとしている。
 ――みんなにとっての”軽いジョギング”って、こんなに速いんだ。
 衝撃を受けながら、わたしもあわてて速度を上げた。
 焦ってしまった。ひとりだけ置いていかれていることが、急に恥ずかしくなって。
 少し前を女子の集団が走っていたので、せめてそれに追いつきたかった。
 きっとのんびりと走っているのだろう彼女たちも、わたしにとってはだいぶ速かった。必死に腕を振り、速度を上げても、なかなか距離は縮まらない。むしろついていくのがやっとだ。気を抜けば、ますます離されてしまう。

 無理なく、自分のペースで、なんて。実際走ってみると、とうてい無理だった。ただ、置いていかれたくない。その思いですぐに頭がいっぱいになった。
 ひとりだけみんなより圧倒的に遅いペースでのろのろ走っていたら、きっと悪目立ちしてしまう。やる気がない不真面目な子と見られるかもしれない。最初の授業でそんな印象をつけるのはぜったいに良くない。もしかしたら、体育に参加できない子と認識されるより、そちらのほうがまずかったかもしれない。

 ……ああ、失敗した、かも。
 いっこうに距離の縮まらない集団の背中を見ながら、わたしは泣きたくなってくる。
 自惚れていた。ここまで、わたしができないとは思わなかった。昔よりちょっと身体が丈夫になったぐらいで、きっとみんなと同じようにやれると、慢心していた。

 半周を過ぎる頃には、わたしの喉はぜえぜえと鳴っていた。
 苦しい。前を走っている女の子たちなんて、みんな涼しい顔をして、時折雑談なんかもしているみたいなのに。
 ――どうしてわたしだけ、こうなんだろう。
 じわっと目の奥が熱くなって、かすかに視界がにじむ。

 止まったほうがいいと、頭ではわかっていた。それでもわたしの足は、止まろうとしなかった。止まりたくないと、心のどこかが叫んでいた。
 いちばん最初の授業の軽いジョギングですら、グラウンド一周も走れずに終わってしまうなんて、たまらなく嫌だった。出だしでつまずいてしまったら、この先もずっと駄目になりそうだった。わたしはやっぱり”できない子”なのだと、これで烙印を押されてしまう気がした。
 だから頑張りたくて、けれど鉛を括りつけられたみたいに重たい足は、これ以上速く動いてはくれない。そのあいだにもどんどん遠ざかっていくみんなの背中を、途方に暮れたように眺めていたとき、

「――ねえ、大丈夫?」
 ふいに横から声がした。
 はっとして声のしたほうを振り向くと、グラウンドの外に、制服を着たひとりの男の子がいた。
「きつそうだよ。ちょっと休んだら?」
 のろのろと走るわたしの横を、同じ速さで歩きながら、彼はそんな言葉を投げてくる。

 大丈夫、とわたしは咄嗟に首を振ろうとした。
 だけど声を出そうとした瞬間、うまく息を吸えずに思いきり咳き込んだ。背中を丸め、立ち止まる。咳は連続して込み上げ、わたしは苦しさに思わずしゃがみこんだ。目尻に涙が浮かぶ。
 彼はなにも言わず、咳き込むわたしの背中に手を置いた。そうして何度か、上下にゆっくりと撫でた。
 その動作がなんだかひどく落ち着いていて優しくて、安心したのを覚えている。

「おい、どうした、大丈夫か」
 そうしているうちに先生も気づいたようで、声を上げながらこちらへ駆け寄ってきた。
 そのときにはもうさすがに、まだ走りたい、なんて気持ちは萎んでいた。身体が限界だというのも、自分でわかった。
 呼吸が落ち着いたところで、わたしは先生とその男の子に支えられるようにして、校舎近くの日陰まで移動した。保健室に行くかと先生に訊かれたけれど、わたしは首を横に振った。単純に無理をしたから疲れただけで、休めば回復するのはわかっていたから。
 わたしの体調がさほど深刻ではないことを確認すると、「ここで休んでおくように」と言い置いて、先生は授業に戻っていった。

「大丈夫?」
 先生がいなくなると、わたしの隣に座った男の子が、再度訊ねてきた。
 うん、と頷きながら振り向いて、わたしはそこではじめてちゃんと彼の顔を見た。
 肌が白いなあ、と最初に思った。今までほとんど外で活動してこなかったわたしだって人のことは言えないけれど、彼の白さは一瞬はっとしてしまうほどだった。まるで今まで一度も陽の光を浴びたことがないかのような。身体つきもほっそりしていて、耳にかかる程度の癖のない髪や、涼しげな一重の目元も合わせて、全体的に線が細い印象の男の子だった。

「ありがとう、声かけてくれて。えっと……」
「あ、樋渡卓といいます。よろしくお願いします」
 名前を呼ぼうとしてわたしが口ごもると、彼はすぐに察したように、笑って名乗ってくれた。
 その笑顔のやわらかさに、つられるようにわたしも笑うと、
「ごめんね、同じクラスなのに、まだ覚えてなくて……」
「いや、ふつうでしょ。まだ三日目だし、俺もぜんぜん覚えてないよ。というわけで、きみの名前は」
「あ、わたしは椎野七海です。えっと、よろしくね」
「椎野さん。よろしくね」
 そう言って笑った樋渡くんの笑顔は、とても感じが良かった。表情も口調もやわらかくて、全身から穏やかさがにじみ出ているような人だなあ、とわたしが感じていると、
「保健室は、本当に行かなくて大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫だよ」
 思い出したように樋渡くんに訊かれたので、わたしは笑顔で頷いた。
「わたし、こういうの、よくあるから」
 だから心配することはない、というつもりで、軽く重ねた言葉だった。けれど樋渡くんはそれを聞いて、むしろ眉を寄せると、
「よくあるの?」
 訊き返した彼の口調が少し硬かったので、心臓がどくんと音を立てた。頬が強張る。

 失敗した、と咄嗟に思った。
 ――よくあるなら気をつけないと駄目じゃん。なんで体育参加したの。次からはちゃんと見学しなよ。
 聞いたわけでもないのに、彼が次に続けるそんな言葉が、耳元で響いた気がして、
「あ、う、うん。あの、わたしね」
 追い立てられるように、わたしはあわてて口を開いていた。
「ちょっと身体が、えっと、あんまり強くなくて。でも今日は軽く身体動かすだけだって聞いてたから、いけるかなー、なんて思ったんだけど、やっぱりぜんぜん駄目だった。甘かったな。失敗しちゃった。次からはちゃんと、見学しなきゃだね」
 へらっと笑いながら、言い訳するような早口でわたしが言うと、

「……え、なんで?」
「え」
「今日駄目だったからって、次見学しなくてもいいと思うけど」
 樋渡くんは眉を寄せたまま、じっとわたしの顔を見ていた。
 思いがけない言葉が返ってきたことに、わたしは反応が遅れた。思わず、無言で樋渡くんの目を見つめ返してしまっていると、
「べつに、今日が駄目だったから次も駄目とは限らないじゃん。いけるかな、と思ったら参加していいんじゃない?」
 至極当たり前のことを告げるかのようなあっさりした調子で、樋渡くんは言葉を続けた。

「え……で、でも」
 わたしは困惑して、つかえながら返す。
「参加したら、たぶん、またわたし、具合悪くなるし……」
「そうなったら休めばいいじゃん。今日みたいに。そんな、最初から見学って決めなくても」
 迷いのない口調で言い切った樋渡くんの顔を、わたしが黙って見つめていると、

「ああ、ごめん」
 わたしの視線になにを思ったのか、ふいに樋渡くんは苦笑して、指先で自分の頬を掻いた。
「べつに、参加しなって言ってるわけじゃないよ。ただ、見学しなきゃって思う必要はないんじゃない、って言いたかっただけ。椎野さんが参加したくないならそれでいいと思う。今日みたいに具合悪くなるの、そりゃ嫌だよね。きついし」
「あ、ううん。あの、違くて」
 困ったようなその笑顔を見たわたしは、あわてて口を開いた。
「嫌じゃ、なくて」
 声は、ひとりでに喉からすべり出ていた。

 そうだ、嫌じゃない。口にしたあとで自覚する。
 なんにも嫌じゃない。体育に参加して、そのせいで具合が悪くなったとしても。そりゃそのときはきついけれど、それが嫌だから体育に参加したくない、なんて思わない。
 むしろ、それよりもずっと、
「体育を見学してるほうが、わたしは嫌で」
 体操服を着て、グラウンドの中を駆け回るみんなを、ひとりだけ制服を着たまま、外から眺めているあの時間が、わたしにはたまらなく苦痛だった。
 ひとりだけみんなと違う格好からすべて、わたしだけがみんなと違う異質な存在なのだと、なによりも突きつけられるのが、あの時間だったから。
 ――だから、わたしは。

「参加、したい。体育、次も」
 思えば、その気持ちを口に出したのは、それがはじめてだった。
 口に出してから、自分が本当に、心の底からそう思っていたことを痛感した。胸の奥が疼いて、ふつふつと熱いものが込み上げてくるぐらいに。
「そっか」
 わたしの言葉を聞いて、樋渡くんが微笑む。そうして続けた。ひどくさらっとした口調で。なんでもないことを、ごく当たり前みたいに告げるみたいに。
「じゃあ、しなよ」
 って。