世界でいちばん遠いような気がしていたその場所は、拍子抜けするほど、あっけなく到着した。電車を乗り換える必要もなかったので、けっきょく、二時間もかからなかった。
 駅に降りると、はじめて嗅ぐ潮の匂いが鼻腔をくすぐる。
 まだ海は遠いのに、その匂いは他のどんな匂いよりも濃く、辺りに漂っていた。
 前を見ると水平線がもう視界に見えていて、胸が高鳴る。まずは砂浜へ行きたいというわたしの言葉に、卓くんは頷いてくれた。ふたりで駅を出て、海のほうへ歩き出す。

「あの、卓くん」
「うん?」
 空は少し曇っていて、風があった。
 わたしは日傘を差すのをやめ、卓くんと手をつないで歩きながら、
「最近、坂下さん、どう?」
 ふと気になったことをそのまま口にしたら、変な言い回しになってしまった。
 それでも卓くんは、わたしの訊きたいことを察してくれたようで、
「最近はあんまり話してないよ。教科書借りにくることもなくなったし」
「そっか」
「むしろ最近は、土屋とよくいっしょにいるよね、坂下さん」
「……うん。そうだね」

 知っていた。わたしも、何度か見かけていた。
 いちばん最近見たのは、先週、職員室の近くを通りがかったとき。成績表の貼られた掲示板の前で、ふたりがしゃべっていた。結果はかんちゃんが一位で、坂下さんが二位だったみたいで、
『あー、実は私、テストの日風邪気味だったんですよ。だからぜんぜん本調子じゃなくて』
『え、なにその言い訳。だっさ。つーか、風邪ひいてたのは俺もいっしょだから。季帆のせいで』
 言い合う二人の声に、遠慮はなかった。だけど刺々しさもなく、むしろ楽しそうだった。
『じゃあ約束どおり、なんか飲み物奢ってもらお』
『抹茶ラテなら買ってますよ。これでいいですか?』
『よくない。それ苦手だって言っただろ』
『あ、そうだ。抹茶ラテだけはだめなんでしたね、そういえば』

 なんとなく、わたしは話しかけにいけないまま、少し離れた場所からそんなふたりを見ていた。知らなかった、とぼんやり思いながら。
 ――かんちゃんって、抹茶ラテ、苦手だったんだ。

 思い出したのは、小学校の頃、下校中にかんちゃんと飲み物を交換した日のことだった。
 わたしがかんちゃんの飲んでいたゆずジンジャーを欲しがったから、かんちゃんがひとくちくれた。そのおいしさにわたしが感動していたら、かんちゃんはゆずジンジャーとわたしの抹茶ラテを交換してくれた。抹茶ラテをひとくち飲んだあとで、これもうまい、交換して、って。
 かんちゃんから、そう言ってくれた。

『おいしいのになあ。抹茶ラテ』
『どこが。抹茶を無理やり甘くする意味がわからない。ぜったい抹茶は甘くするべきじゃない』
『なんですかそれ』
 本気で嫌そうに顔をしかめるかんちゃんに、坂下さんが笑う。
 わたしはその場で立ちつくしたまま、最後まで動けなかった。そんな会話を交わしながら立ち去るふたりの背中を、ただ見送っていた。

「坂下さんって」
 そのときのことを思い出していたわたしは、卓くんの続けた声に、はっと我に返る。
 うん、と訊き返しながら卓くんのほうを見ると、
「たぶん本当は、俺が好きだったわけじゃないんじゃないかな」
「……うん。たぶん」
 曖昧な言い方だったけれど、卓くんの言いたいことは、よくわかった。
 わたしも、今はそう確信している。坂下さんが、突然卓くんに接近してきた理由。

 今思い返せば、どう見ても不自然だった。なんの接点もなかった卓くんに、あるときから急にアプローチを始めた坂下さん。だけどその積極さのわりに、卓くんに話しかける坂下さんの顔に、緊張や恥じらいの色はまったく見えなかったこと。対して、保健室でわたしと向き合ったときの坂下さんの顔には、抑えきれない怒りがあふれていたこと。土屋くんの気持ちも考えて、と絞り出すように訴えた彼女の声が、本当に切実だったこと。

 かんちゃんは、わたしのことが好きだったと言った。もし坂下さんも、その気持ちを知っていたのなら。
 坂下さんは、かんちゃんの恋を叶えようとしていたのではないだろうか。そのためにはわたしと卓くんを引き離す必要があって、それが目的で卓くんに近づいたのではないだろうか。はじめから、坂下さんの頭にあったのは、きっとかんちゃんのことだけだった。
 それぐらい強く、坂下さんがかんちゃんのことを想っているのは、あのときよくわかったから。