次にかんちゃんと顔を合わせたのは、翌朝。わたしの家の前でだった。
「おはよ」
 いってきます、と告げて開けた玄関ドアの向こう。すぐに見つけたその姿に、わたしは目を見開く。
 かんちゃんがいた。門の傍に、鞄を肩に掛けて立っていた。
 驚いてその場に立ちつくしてしまったわたしに、かんちゃんはどこかぎこちなく、短い挨拶をして、
「いっしょに学校行ってもいい?」
「うん。……もちろん」
 ほんの少し緊張の交じる声だった。それにつられるよう、わたしもちょっと緊張しながら頷く。そうして街路樹の揺れる細い道を、かんちゃんと並んで歩きだした。

 いつ以来だろう。歩きながら、わたしはぼんやりと思う。
 思い出そうとしたけれど、わからなかった。
 小学校の頃は毎日、かんちゃんといっしょに歩いていた道。中学校に上がってかんちゃんが部活に入ってからはめっきり頻度が減って、高校に上がってからはほとんど、いっしょに歩くことはなくなった。
 考えていたら、ふっと感傷が胸に湧いて、
「なんか、久しぶりだね」
 それはそのまま、声になってこぼれていた。なつかしさに、思わず目をすがめながら、
「この道、かんちゃんといっしょに歩くの」
「そうだっけ」
「そうだよ。高校生になってからは、いっしょに学校行くときも、駅で会う感じだったでしょ」
「そういえば、そっか」

 小学校の頃は、かんちゃんが毎朝、わたしを家まで迎えにきてくれていたことを思い出す。ちょうど今日みたいに。玄関のドアを開けるといつも、家の前にはかんちゃんがいた。
 ふとなつかしくなって、わたしがその話をすると、
「あの頃は、おまえがちゃんと無事に学校までたどり着けるか心配だったから」
 からかうような口調でかんちゃんが言って、わたしは笑った。だけど笑い声は、底がついたみたいにすぐに途切れた。なぜだか、それ以上はうまく笑えなかった。
 ――あの頃はそれを、当たり前だと思っていた。
 かんちゃんがわたしを待っていてくれることも、かんちゃんがわたしの歩幅に合わせて、隣を歩いてくれることも。
 ずっと変わらないと、無邪気に信じていた。

「……かんちゃん」
「ん?」
「昨日はごめんね」
 交差点にかかる横断歩道の前で、足を止めたとき。わたしは肩に掛けていた鞄の紐をぎゅっと握りしめながら、声をこぼした。
 かんちゃんがわたしのほうを見るのがわかった。だけどわたしはかんちゃんの顔を見る勇気がなくて、うつむいたまま、じっと自分の足元を見つめていた。

「……いや」
 短い沈黙のあとで、かんちゃんは乾いた声を押し出すように、
「俺も、ごめん」
「ううん、先に言い出したのはわたしで」
「昨日のことだけじゃなくて」
「え」
「今まで、ずっと、ごめん」
 絞り出すような声に、わたしは顔を上げ、かんちゃんのほうを見た。
 なにが、と訊き返そうとした。けれどちょうどそのとき、信号が青に変わった。周りの人たちがいっせいに動きだし、その流れに押されるよう、わたしたちも足を進める。

「柚島のこと」
 そうして横断歩道を渡り終えたところで、かんちゃんはまた口を開くと、
「ごめん。俺がおばさんにバラした。七海が嘘ついて、樋渡と柚島に行こうとしてるって」
「……うん」
 昨日は頭の中が真っ暗になってしまうぐらいショックだったその事実を、今はひどく落ち着いて受け止めていた。動揺でなにも見えなくなっていたものが、今なら見える。
 かんちゃんにはきっと、悪意があったわけではなくて。
「わたしには、無理だと思ったからでしょ。わたしのこと、心配してくれて」
「違う」
 考えを整理するように並べたわたしの言葉は、だけど即座に、かんちゃんから否定された。
「俺は、ただ」
 かんちゃんは顔を伏せると、ひどく苦いものを吐き出すように、
「七海が俺から離れていくのが、嫌だっただけで」
 鼓膜を揺らしたその言葉の意味を、わたしは咄嗟に理解できなかった。
 反応が追いつかず、呆けたようにかんちゃんの顔を見つめる。
 そのとき、かんちゃんがふいにわたしの腕をつかんだ。軽く引っ張られ、よろめくように二三歩かんちゃんのほうへ近づく。直後、わたしの横を自転車が勢いよく走り抜けていった。
 わ、と思わず声が漏れる。
「あ、ありがとう。かんちゃん」
 急に現れた自転車に驚きながら、わたしはちょっと上擦る声でお礼を言った。
 普段からぼうっとしているらしいわたしは、よく、後ろから近づいてくる人や自転車に気づかない。そのたび、いつもこんなふうにかんちゃんが教えてくれた。小学校の頃から、もう何度も。

 思い出したら、ふいに胸が詰まった。鼻の奥がつんと熱くなる。
 そのまま瞼の裏にまで広がりかけた熱をあわてて振り払うように、わたしはかんちゃんの顔を見上げた。そうしてもう一度、「ありがとう」と繰り返しかけたとき。
 呼吸が、止まった。

「……俺さ」
 こちらを見つめるかんちゃんの顔も、まるで、今にも泣きだしそうに歪んでいたから。
「七海が好きだった」

 ひどく単純なはずのその言葉の意味が、一瞬わからなかった。
 目を見開く。世界から音が消える。
「ずっと」呆然とかんちゃんの顔を見つめるわたしに、かんちゃんはゆっくりと、言葉を重ねる。
「たぶん、保育園の頃から」
 かんちゃんも、わたしの顔から目を逸らさなかった。苦しげに眉を寄せ、それでも必死に、逸らさないようにしているように見えた。
 だからわたしも、逸らせなかった。絞り出すように言葉を続けるかんちゃんの顔を、ただじっと、見つめていた。
「だからずっと、俺が七海を助けたかった。助けさせてほしかった。そのために、七海には変わらないでほしかった。ずっと、なにもできない、かわいそうなやつのままで。俺に七海を、守らせてほしかったんだよ。これからもずっと。ぜんぶ、そんな、俺のわがままで」
 だから、と重ねた声が、かすかに掠れる。
「ごめん。七海の言うように、俺はおまえを応援なんてしたくなかった。七海がなにをしたいのかとか、どうなりたいのかなんてどうでもよくて、ただ、俺のためにずっと昔のままでいてほしかった。俺を頼ってくれる、弱い七海のままで」
 ごめん。
 繰り返して、かんちゃんがわたしの腕を放す。同時に、かんちゃんの視線がふっと下へ落ちた。
 つられるように、わたしも自分の腕へ目を落とす。まだそこに、かんちゃんの手の感触が残っている気がして。
 目を伏せると、瞼の裏には、保育園の教室が浮かんだ。

 ――ななみちゃん。
 園庭で遊ぶみんなの中に入れず、ひとり教室に残っていたわたしの手を、はじめてかんちゃんが引いてくれた。いっしょにお絵描きをしよう、と言ってくれた。
 その日からずっと、わたしの傍にはかんちゃんがいた。わたしといっしょに、お絵描きをしてくれた。当たり前みたいに、ずっと。ずっと。

 だけど。
「……かんちゃんは」
 本当は、知っていた。
「お絵描き、本当は好きじゃなかったんだよね」
 思い出す。外から聞こえてきた歓声に、ぱっとかんちゃんが画用紙から顔を上げ、窓の外を見たこと。セミがいた、とみんなが騒ぐ園庭のほうを、眩しそうに眺めていたこと。だけどすぐにはっとしたようにわたしの顔へ視線を戻し、わたしがなにか言うより先に、「セミなんてきょうみない」とぶっきらぼうに言い捨て、またお絵描きを再開したこと。

「……は、お絵かき?」
「本当は、外で遊ぶほうが好きだったんでしょ。鬼ごっことかサッカーとか。だけど我慢して、わたしといっしょにお絵かきしてくれてたの。わたしがひとりで寂しくないように」
 そのあとかんちゃんは、こっそり友達のところへ行って、その子が捕まえたセミを見せてもらっていた。すげえ、と目を輝かせて、弾んだ声を上げて。
「……知ってたよ、わたし」
 そのときのかんちゃんの、心底楽しそうな笑顔も。それでもまたすぐにわたしのもとへ戻ってきて、クレヨンを手に取ってくれたことも。
 わたしはずっと、覚えていた。