「坂下季帆さんっていうんだって。四組に来た転校生」
 いちごミルクにストローを差しながら、理沙ちゃんが何気ない調子で教えてくれた。
「へー、坂下さん」
 はじめて知ったその名前を、わたしは口の中で繰り返す。そうしてわたしも、手元のゆずレモンにストローを差した。
「七海ちゃん、見た? 転校生。たしかにかわいかったよ」
「え、そうなんだ。まだ見てない」

 その日の教室は、四組にやってきた転校生の話題で持ち切りだった。
 高校に転校生なんてめずらしいし、しかもかわいい女の子だったということで、とくに男子たちが騒いでいた。わざわざ四組まで見にいったり、さっそく突撃してきた人もいるみたいだった。「転校生めっちゃ塩対応だった……」と、クラスでもとくにお調子者の男子が、肩を落として帰ってきている姿を見かけた。

 ――かわいらしいというよりきれい系。茶髪でちょっと派手な感じ。うちの高校の近くにある、私立の女子校から転校してきた。男子への対応はかなり塩。

 教室内では、転校生についてのそんな情報があちこちで飛び交っていて、まだ見てもいないその転校生のことを、わたしもなんとなく把握することができた。そしてなんとなく把握した情報だけで、わたしはきっとその子と仲良くはなれないんだろうな、ということも、すぐに察した。
 そういう女の子は、同じようにおしゃれでメイクの上手い、垢抜けた女の子たち同士で仲良くするものだから。きっと、わたしとは違う世界の住人だ。

 だから話しかけにいこうなんて考えにはまったく至らず、集めようとせずとも聞こえてくる転校生についての情報を、ただぼんやり拾っているだけだったけれど、
「まあでも、合同体育のときとか四組ともいっしょにやるかもだし、そのときには見れるもんね」
 理沙ちゃんが思い出したように口にした言葉に、はっとした。
 そういえばそうだ、と言われて思い当たる。体育の授業は他クラスと合同で行うことも多い。クラスが違うから関わりはないと思っていたけれど、そこで関わる機会はあるのか。
 思い至ったとき、ふと胸の奥が波立った。
 なぜか、本当になぜか、そこで樋渡くんの顔が浮かんで。

「……ね、理沙ちゃん」
「うん?」
「かわいいって、どれぐらいかわいかったのかな? その、転校生って」
 我ながら変な言い回しになってしまったことには、すぐに気づいた。
 案の定、「へ?」と理沙ちゃんも目を丸くしていた。なにを訊かれたのかわからなかったみたいに。
「あ、い、いや、その」わたしは顔の前で意味もなく手を振りながら、おたおたと言葉を手繰ると、
「ほんとにその、芸能人みたいにかわいいのかな、とか……見たらぜったい、誰でも見惚れちゃうぐらいなのかな、とか」
「え、そんなに気になるなら、今から見にいく?」
「あ、いやっ、そんな、気になるってほどじゃなくて」
「ええ、なにそれ」
 落ち着きなく手を振り回しながら口ごもるわたしに、理沙ちゃんは怪訝そうに眉を寄せる。
「ごめん、なんでもない!」
 わたしはあわてて話を切り上げると、ごまかすようにストローに口をつけた。
 わたし、なにを訊こうとしたんだろう。かわいい転校生が来て、その子といっしょに体育の授業をすることになって、それでなにを気にしたんだろう。
 胸がざわつく理由がわからなくて、困惑しながらゆずレモンを飲んでいたとき、

「……あ、ひょっとして」
 理沙ちゃんが、ふと思い当たったように声を上げた。
「七海ちゃん、心配してるの?」
「え?」
「樋渡くんのこと」
 今度はわたしが、なにを訊かれたのかわからず、きょとんとする番だった。
「なにが?」
 訊き返しながら理沙ちゃんの顔を見ると、いたずらっぽく目を細めた彼女と目が合う。
 その瞬間だった。おくれて追いついた理解に、ぶわっと顔が一気に熱くなるのを感じた。
 あ、と掠れた声がこぼれる。だけどなにも言葉が続かず、ただ口をぱくぱくさせていたら、

「や、でも、大丈夫だと思うよ」
 そんなわたしを見てますます目を細めた理沙ちゃんが、楽しそうな声で続けた。
「たしかに転校生はきれいな子だったけど、ちょっと派手目だったし。樋渡くんのタイプではなさそうというか。樋渡くんってもっとこう、清楚でかわいらしい系が好きそうじゃない? だから大丈夫なんじゃないかな、うん」
「……そ、そう、かな」
「うん。大丈夫、大丈夫」
 もう、ごまかしようもないほど顔が赤くなっているのはわかっていた。触れた首筋が、びっくりするぐらい熱い。だからわたしはうつむいて、もごもごとそれだけ返せば、理沙ちゃんからはそんな明るい声が返ってきた。
 鼓動が速まり、高い音を立てる。

 ――認めたのは、はじめてだった。
 理沙ちゃんは薄々勘づいていたようで、ときどき、からかうようなことを言われることはあったけれど。そのたび、わたしはいつも、はぐらかすように笑ってばかりだったから。
 口に出して肯定したら、よりいっそう、その想いが鮮烈になるのを感じた。

「ていうか七海ちゃん、そんなに心配するぐらいなら、さっさと告白しちゃえばいいじゃん」
「へ!?」
「付き合っちゃえば、かわいい転校生が来たぐらいでいちいち不安にならなくていいだろうし。ぜったい上手くいくと思うし、早く言っちゃいなよ」
「……で、でも」
 顔は笑っていたけれど、どこか真面目なトーンで理沙ちゃんに言われ、わたしは顔を伏せる。そうしてゆずレモンのパックについた水滴を、意味もなく指先で拭いながら、
「今のままでもすごく楽しいし、充分というか……」
 いっしょに生徒会活動をして、それが終わったら、他愛ない話をしながらいっしょに下校して。それだけで今、充分すぎるほど楽しい。なんの不満もないのに、それをあえてべつのものに変える必要なんて、感じられなかった。むしろ変えることで、今の幸せが少しでも壊れてしまうかもしれないと思うと、そのほうが怖かった。

「あのねえ、七海ちゃん」
 だけどそう伝えれば、理沙ちゃんは盛大なため息をついて
「じゃあもし、例のかわいい転校生が、樋渡くんに一目惚れでもしたらどうする?」
「え」
「それであの転校生が、樋渡くんにめちゃくちゃアプローチしてきたら?」
「えっ、やだ」
 考えるより先に、ぽろっとそんな本音がすべり落ちていた。
 想像するだけで、背中に冷たい汗が浮かぶような光景だった。茶髪で美人な、垢抜けたかわいい女の子。その子が樋渡くんの隣で笑って、樋渡くんの目を見つめて、樋渡くんの手に触れて。そうしてそれに、樋渡くんが照れたように笑い返したりしていたら。
「嫌でしょ」
「うん」
 強張った声で頷いたわたしを、理沙ちゃんは、なんだか物分かりの悪い子どもを見るような目で見て、
「だったら、今のままじゃ駄目ってことだよ」
「……そうなの、かな」
「そうだよ。だいたい、転校生がかわいかったって聞いただけで七海ちゃん、迷子になった子どもぐらい不安そうな顔してたよ。そんな不安になるぐらいなら、ぜったい、言っちゃったほうがいいって。後悔してからじゃ遅いんだから」
 力強く言い切って、ぐっと拳を握ってみせた。