エイトが珍しく風邪で寝込んでいた。ナナは看病を献身的にしようと思った。たった一人の家族の苦しみを少しでも和らげたい気持ちがあったからだ。

「半妖でも風邪ひくんだ」

「バカは風邪ひかないという感覚で半妖を使うな」

 合併号の後で、少し時間があるときで良かった。と思いつつ、エイトのためにできることを考える。

「食欲ないから、何も作らなくていいぞ」

「飲み物は飲んでね。水分は大切よ」

「わかったからゆっくりさせてくれ」
 
 そういうと、エイトは自分の部屋で眠ってしまった。彼のスケジュールは知れば知るほど過酷だ。いくら若くて半妖でも体力が普通の人間よりあるとは言っても働き方を改革しなければいけないのではないのでは? そんな疑念がよぎる。

 人気漫画家というだけでも忙しいのだが、アニメ化のほうの監修やグッズの件、映画化の打ち合わせ、原案、忙しいのはよくわかる。定食屋の経営もやって、半妖としてのお役目も果たすというのは彼には過酷な現状だ。それで、ナナのような家族を養うというのだから、本当に幅広い分野で役割を担っている。

 チーム半妖のリーダーとしても彼の存在は大きい。彼は、ナナにとっても大きな存在だ。この場所が自分の家だと感じられるくらい最近は馴染んできた。不思議と距離を感じないエイト。年が近いからだろうか。だからこそ、彼を失ってしまったら。この世からいなくなってしまったら怖い。一番怖いことがエイトを失うことになっているナナがいた。

「たまご酒作ってみたの。栄養あるし、しょうがも入れたから体、温まるよ」
 起きたころにそっとベッドの横でささやいてみる。

「ああ、ありがと。少し寝たらよくなってきたよ」

「私、エイトがいなくなったら怖いから、いなくならないで」

「はぁ? 何言ってんだよ?」

「私、これ以上大事な人を失いたくないの。だから、過労で倒れるようなことはしないで、もっと手を抜いていいから、長生きしてよ」

「これでも、半妖なんだ。普通の人よりは長生きするさ。しかも死神の血が入っているんだ」
 そんなエイトに不意打ちのスプーンを口元に持っていく。

「なんだよ、自分で飲むから、あっちにいってろ」
 減らず口を叩けるくらい元気になってきたエイトの顔を見ると、ナナはうれしくなった。

「これ、おいしいな」
 たまご酒をひとくちのんだエイトの顔色が少し良くなってきたように感じた。

「私が独立して、結婚したらもう、こんなことはなくなっちゃうね。私は旦那様のものになっちゃうしさ。エイトの老後の世話もできるかどうか……」

「あのなー、老後って俺、半妖だから結構若い時代が長いし、寿命も長いんだって」

「でも、不死身じゃないんだよね。エイトがいなくなったら寂しいから、死なないでよ」

「お前には将来、ちゃんと旦那がいるから寂しくないだろ。子どもだって生まれて幸せになって……」

「エイトっておじいちゃんポジション?」

 ナナがからかうと、エイトがうつむき加減で目頭に指を当てている。どうしたのだろう? もしかして、目がかゆいとか? 頭痛がひどいのかな? ナナが心配になって覗き込むと……泣いている? なんで?

「どうしたの?」
 からかいモードを辞めて聞いてみる。

「おまえが嫁に行くのを想像したら、泣けてきた。最近歳とって涙もろくなったのかも」
 白目が赤く充血している。真面目に泣いているの?? ナナが驚きながら、エイトを真剣に見つめてしまう。

「もう、ナナがここにはいなくなって、誰かの嫁になるって思ったらさ。幸せを祝福したいけれど、父親みたいな寂しい心境になっちまった」

 エイトは見かけによらず純粋だ。だから、子どもにも人気がある漫画を描けるのかもしれない。もしかしたら、弱っているからこそ、涙腺も弱っている可能性もある。

「まあ、今は父親代わりだからね。感謝してるよ」
 ナナは何と言っていいのか複雑な気持ちになった。

「泣かないでよ。ずっとそばにいるし、どこにもいかないから」

「そんなことしたら、嫁に行き遅れるぞ」

「私はずっと独身でもいいよ、エイトと一緒に住んでチーム半妖と一緒に仲良くしていきたいの」

「どうしても、嫁の貰い手がなかったら……」

 そこで、エイトが黙る。この流れだと俺がもらってやるとかそういった台詞を期待してしまうのだが――

 エイトの表情を確認すると、眠っている。おでこを触るとかなり熱い。熱にうなされているようで、意識がはっきりしていない感じだ。

「氷枕取り替えないと、さっき薬は飲ませたし」
 ゆっくり休ませようとエイトを静かに寝かせた。リビングに戻ったナナはあのセリフの続きが気になってしまう。「嫁の貰い手がなかったら……」の続きのことだ。でも、こちらから聞くきっかけもないだろうし。

 多分、嫁の貰い手がなかったら俺の家に住んでもかまわねーぞ、とか男を紹介してやるとかそういった話だったんじゃないかな。でも、未来を考えて涙を流すなんて、熱でどうにかしていたのかもしれない。あの涙は保護者としての自我が芽生えたのだろう、とナナは1人で納得していた。

♢♢♢
エイトの夢の中――

 夢の中でエイトはうなされる。それはナナが遠くに行ってしまう夢だった。自分の手が届かない場所にナナが行ってしまう。それは自分にはどうしようもない絶望の底に落とされた夢だった。暗く深い闇の中に一人ぼっちで取り残されていた。いつも悪い夢の中に出てくる会ったこともない父親の姿が俺の前に立ちはだかる。それは半妖ではない本当の妖怪である死神だった。父は威厳に満ちていて、俺の前で追いかけることを邪魔する。力の差は歴然だ。どうしようもなく孤独で寂しい夢が目の前に広がる。

「エイト、エイト」

 この心地いい声はナナだ。遠くに行っていなかったのか。エイトは安堵の気持ちに満たされる。体を揺らされて、目を覚ました。悪い夢をみただけだったのか。目の前にいるナナを確認すると現実に引き戻された。

「エイト、すごい汗。悪夢でも見た? 体拭いて、着替えたほうがいいよ」

「わりい。熱のせいで悪夢を見たみたいだ」

「どんな夢だったの?」
 エイトは目を逸らして、本当のことは言えずにいた。

「忘れたけど、なんだか怖い寂しい夢だったような……」

「でも、少し熱下がったね。薬効いたんじゃない?」
 ナナが額に手を当てる。

「これ、着替えと体を拭くタオル準備してきたから」

「弱っているときに家族がいるといいもんだな」

「エイトのお父さん、どこかで生きているかもしれないんでしょ?」

「父親は妖怪だからな。俺とは違うし、一生会うこともないんじゃないか」

「でも、いつか会えるかもしれないし、一緒に住むことだってあるかもよ?」

 優しい人間なんだなと感じる。そして、あの夢のごとく、ナナが離れていくのを怖いと感じていた。

 ♢♢♢

 ナナは時折、寂しく辛くなる。それはたった一人の家族を失った喪失感が突如心臓を貫くような激しい痛みが走る。それは、ふと一人になった時に襲われる虚無感だ。辛い、どうすればいいの。

 涙があふれる。何もしなくてもまぶたの内側から勝手に湧き水のほうに溢れて来る。ナナは誰にも見られていないことを確認して涙を流すようにしていた。それは、誰にも知られてはいけない秘密だ。いつも笑顔で明るい私でいたい。

「泣いているのか?」

「泣いてないよ」

「でも、涙……」

「これ、目薬を入れすぎちゃって」
 持っていた目薬を差し出す。

「いつものからかいかよ」
 
「一人で抱え込むな。俺がいる。辛いのは俺も一緒だ。だから、一緒に毎日お母さんに水と食べ物を供えて、手を合わせよう」

 エイトは毎日母のために手を合わせ、供えることを忘れない。愛情が深い義理堅いタイプだ。

「時々、涙が流れることはあるよ。でも、エイトと一緒にいると落ち着くんだ。私ずっとこの家にいようかな。なんだかここが私の家みたいに錯覚してきちゃう」

「ずっとって?」

「おばあさんになってもここに住みたい」

「別に構わねーよ」

「でも、エイトにお嫁さんがいたら邪魔者になるよね」

「ナナは特別だから、嫁がいても文句は言わせないけどな」

「特別って? 婚約していた人の娘だから?」

「俺にもよくわかんねーけど、一緒にいると落ち着く、みたいな。本来俺は、人に簡単に心を開くタイプじゃないんだ」

「そうなの?」

「手を出して」

「ん? こうか?」

 エイトが差し出す手のひら。彼はこの手で人気漫画を生み出し、時には半妖としての仕事をする。力強い大きな掌を握る。

「なんだよ?」

「握手」
 絶望の淵から救ってくれた恩人に笑顔を向ける。

「ありがとう」

 エイトといえば、一瞬だけナナの顔を見たのだが、それ以来ナナを見ようともしない。きっと照れているのだろう。これはナナの精一杯の感謝の気持ちだ。長くも感じるけれど、きっと短い時間だったのかもしれない。ふたりには共通の愛する人がいてその人を失ってしまった同士だ。ふたりはそれ以上でもそれ以下でもない関係だ。

 ナナは握手をした手を離さなかった。そんな二人だけの静かな時間は安らぎの時間だ。

「今度の日曜は墓参りに行こう」

「そうだね」

 二人の気持ちが重なった。