宴の三日目、再びセシルは来客の前に姿を現した。
 緑がかった金髪を結い上げ、細い首筋をさらした横顔を、子弟たちは飽くことなく目で追った。
 相変わらずセシルの席は皇帝の隣で容易に近づくことはできなかったが、その日は正妃メティスも皇帝の隣に坐し、彼女と談笑する際に盗み見るようにセシルをうかがうことができた。
 薄桃色の花びらのような唇は、どんな声で言葉をこぼすのだろうか。いや、言葉でなくともいい。春風のようなため息を感じることができたなら……。
「私は少し外す。メティス、セシルを頼む」
 子弟たちの夢想は、思わぬ形で叶えられることになった。宴が始まって四半刻も経たない内に、セルヴィウスが席を立って諸侯たちと庭を散策しに行ったのだ。
「姫宮、私どもも参りませんか」
「お供いたします」
 浮足立ち、甘くささやく子弟たちに、セシルは怯えた。瞳を揺らしてうつむいたのが恥ずかしそうで、子弟たちをまたざわめかせた。
 けれどメティスを後宮から追いやった自責の念からメティスに助けを求めることができず、一人必死で言葉を探していて、メティスは切なくなった。そっと助け船を出す。
「お手を私に、姫宮。お好きなクロッカスの花を見に参りましょう」
 セシルはためらいがちにメティスを見上げた。メティスが困ったようにほほえんでうなずくと、おずおずと手を差し出す。
 春になって起き上がることはできるようになったものの、まだ一人で歩くことはできない。メティスに支えられて、セシルは泉のほとりの東屋に席を移す。
 泉に身を寄せるようにして、幼子のようなクロッカスが咲いていた。セシルは女官に手を借りて、クッションの敷き詰められた大理石の台座に腰を下ろす。その様を見ていたメティスが、向かい側で目を細める。
「また姫宮とここに座ることができたのは、うれしゅうございます」
 春の庭は正妃の宮の中にあり、セシルが自分の宮以外で唯一滞在した庭だった。セシルの姿と東屋から見える泉の景色が相まって、メティスには懐かしく感じられた。
 女官が下がったのを見て、セシルはこらえていたものがあふれるように震えた。
「……ごめんなさい。義姉上」
 ぽろぽろと涙をこぼすセシルに、メティスはゆっくりとかぶりを振る。
「姫宮、お心に病まれますな。私は臣下の一人なのです。皇帝陛下のお気持ちに沿うことができなければ、後宮を退くのは当然のことです」
 しかしセシルは震えながら、言葉もなくしゃくりあげる。涙が次々とこぼれて、膝の上の手を濡らしていく。
 メティスはセシルが泣くのを見るたび、彼女は確かに生まれながらの姫なのだと思い知らされる。姑息な子どものように相手の顔色をうかがうこともなく、悲劇の主人公のように悲しみに酔うこともない。ただ悲しみの奔流に裸で立ちすくむ様は、高貴で痛々しかった。
 私にはこの御方を傷つけることはできないだろう。初めて会ったときから、メティスは確信を抱いていた。
 メティスは絹のハンカチを取り出し、セシルの涙を拭う。背中をさすって数刻経つ内、セシルはようやく泣き止んだ。
「私が戻って参ったのは、ご紹介したい娘がいるからなのです。……ここへ」
 セシルが落ち着いたのを見計らって、メティスは自分に仕えている女官を呼ぶ。女官は一礼して下がると、一人の少女を連れて現れた。
 それは十五歳にも届かない、まだ子どもにも見える少女だった。華やかではないが、癖毛の茶色の髪と、愛嬌たっぷりの栗色の瞳をしていた。
「初めまして、ルイジアナと申します。月の姫宮!」
 元気に自己紹介をした少女は、きらきらと輝く目でセシルをみつめていた。
 メティスは彼女を示して言う。
「私の母方の従妹です。ル・シッド公国から、兄のアレン公子と参りました」
「ル・シッド公国から……」
「ひどいんですよ。お前はそそっかしいからと言って、兄上は今日まで宴に出してもくださいませんでした!」
 ルイジアナはぷくっとむくれて、次の瞬間に弾ける笑顔になる。
「でも今日でよかったです! あこがれの月の姫宮と直接お話できるなんて。持つべきものはいいところにお嫁に行ったお姉さまです!」
「ルイジアナ」
 メティスは苦笑してたしなめる。
「だからそそっかしいと言われるのです。月の姫宮はクレスティア帝国の皇妹殿下なのですよ。お行儀よくなさい」
「はい! お行儀よくします!」
「まったく。姫宮、お許しください」
「いえ、私は……」
 そう言いながら、メティスは本気で怒っている様子ではなかった。セシルも臣下の無礼は気にしない性質だが、ルイジアナの悪びれない表情は拍子抜けしてしまう。
 メティスはセシルの表情が和らいでいるのを見てほっと安堵の息をつくと、慎重に告げる。
「まだ内々ではあるのですが……。陛下のお声がかりで、ルイジアナを後宮入りさせる予定なのです」
「陛下の、新しいお妃に?」
 セシルが目をまたたかせると、メティスはうなずく。
「姫宮は可愛がっておられた末の妹君が嫁がれて、寂しい思いをなさったでしょう。姫宮には妹のような話し相手が必要であろうと、陛下はお考えなのです」
 セシルはその言葉を聞いて、不思議な思いがした。今までも、たびたび年若い妃が後宮入りしたと聞いていた。だがこうして紹介されたことは初めてだった。
 思案して、セシルは久しぶりにほほえむ。
「陛下が好いていらっしゃるのですね」
「姫宮」
 メティスは眉を寄せて声を上げる。
「いいえ、陛下の御心を占めるのは姫宮だけです。ただ姫宮とお言葉を交わすには、少なくとも妃の身分がなければならないゆえ」
 セシルはメティスの心遣いに感謝しながらうなずく。
(そう、兄上が。よかった)
 ルイジアナに視線を移すと、生命の色に満ち溢れた姿がまぶしかった。自分のような病人とは違う。きっと御子にも恵まれて、家臣にも愛されるだろう。
「そうそう。姫宮にお持ちしたものがあるんです。ぜひ……あ、こらっ!」
 ルイジアナの胸の辺りが動いたかと思うと、スカートの下から何か飛び出す。
「もう。大人しくしててねって言ったのに!」
 慌ててルイジアナがつかまえてセシルに差し出したものに、セシルは目を丸くする。
「あ……」
 それはルイジアナの両手におさまるほどの子猫だった。まだ耳が寝ていて、爪も生え切っていない。セシルは驚きながらも、興味を引かれてみつめる。
「お待ちなさい、ルイジアナ。姫宮に差し上げるものは陛下のお許しを得なければ」
 メティスが手を伸ばして制止したとき、子猫がぴょんとルイジアナの手から離れた。
 泉に入りかけた子猫を、セシルはとっさに両手でつかもうとする。バランスを崩して、目の前に水面が迫る。
 震えた水面を見て、吸い込まれるような感情に衝かれた。そこにセルヴィウスそっくりの青年が映っていて、セシルに手を伸ばしていた。
 兄上とセシルは呼びかける。
 水面の下で黒髪の青年はほほえんで、セシルを腕の中に迎え入れた。