陽光の差し込む昼下がり、セシルは花びらを浮かべた湯殿にいた。
「あたたかいか?」
 陶器で出来た湯船に頬杖をついて、セルヴィウスが傍らからのぞき込んでいる。
 蒸らした布で頬をぬぐってやると、セシルは気持ちよさそうに目を細める。小さな吐息が湯を揺らして、波紋を作った。
 セルヴィウスは上気したセシルの頬をなでる。ひととき何かを思案するように、湯殿の波紋を眺めていた。
 ふいにセルヴィウスは目を上げて、セシルの呼吸を掠めるように口づける。
 湯をすくって肩にかけていた手がセシルの肌を滑ろうとして、握りしめられた。
「……「兄上がほしい」と、一言。ねだってくれぬか」
 耐えるように低い声でセルヴィウスは告げる。
「決して痛くなどせぬ。誰よりも優しく抱こう。セシル」
 そう言いながら、セルヴィウスは残酷な楽しみを持っていた頃がある。セシルの体内に押し入る想像をし、それらに近いものを求めて年若い処女の愛妾を抱くことがあった。
 けれど少年の時が過ぎ、その想像は楽しみではなく飢えになった。血が臭気に感じられて、悲鳴は雑音のようにわずらわしかった。たまらなくセシルが恋しくなっただけだった。
「私も懲りぬな」
 セルヴィウスはセシルの首筋に唇を寄せて苦笑すると、からんでいたセシルの横髪を耳にかけてやる。
「セシルの体をよく拭いて、着替えを」
 控えていた女官にセシルを託して、セルヴィウスは立ち上がる。
「私は宴に戻る。セシルはこのまま休ませてやるよう」
「かしこまりました。あの、陛下」
 何かというようにセルヴィウスが目を向けると、女官は「御髪が」とためらいがちに伝える。
 セルヴィウスの黒髪はセシルの肌にからんだために、つやめかしく濡れていた。セルヴィウスは笑って答えず、髪を直すことなく湯殿を後にする。
 セシルの部屋を出て、薔薇の花咲く小道を歩む。途中で、片膝をついて頭を下げていた娘に会う。
「立ってよい。隣を歩くことを許す」
 人払いがされていた。セルヴィウスが声をかけると、彼女はうやうやしく一礼して立ち上がる。
「そなたにした仕打ちを詫びよう。よく戻った」
 それは正妃のメティスだった。彼女が後宮を去る日にセシルの病状が急変したために、セルヴィウスはそれを里下がりという形にすり替えていた。
 メティスは首を横に振る。
「陛下のお声がかりがあるのなら、どんな場所からでも戻って参ります」
 むせ返る薔薇の香りの中、セルヴィウスとメティスは並んで歩く。
 次第に迷路のような道に入り込みながら、セルヴィウスはメティスを振り向いた。
「聞かせてくれぬか。そなたの従兄、アレン公子のことだ」
 メティスは幼い頃から皇帝の側に仕え、また元より沈着冷静な性格であったから、並みのことでは驚かない自信があった。
「彼の公子は、セシルを守り抜くことのできる男であろうか」
 その言葉にメティスは息を呑み、信じられないものを見るように皇帝を仰いだ。
「アレンに、月の姫宮を降嫁されようとお考えなのですか」
「セシルが気に入るのであればな」
「セヴィー様!」
 メティスは思わず乳母の子であった頃のようにセルヴィウスを呼び、その腕をつかんだ。
「御心の平穏をお守りくださいませ。姫宮を誰より愛していらっしゃるのは陛下でございます。姫宮をお側から離すなど」
 その後のことなど、メティスは恐ろしくて口にできなかった。
 セルヴィウスとメティスは血のつながりこそないが、記憶もあいまいな幼い頃から共に時を過ごしてきた。
 二人とももう気付いている。自分たちがお互いに抱くのは、夫婦というより限りなく姉弟の情に近い。
「……ですが私が何を言っても、もう決めてしまわれているのでしょう」
 メティスがうつむいて告げると、セルヴィウスはうなずく。
「すまぬな。そなたが正しいとわかっていても、私はそなたの忠告をいつも聞かない」
 自分以外の女性が心に焼き付いている夫は、良き夫とはとても言えない。
 けれどメティスは彼に抱かれ皇太子を産んだ今でも、彼に痛むほどの庇護欲をかきたてられる。
「私は兄なのだ」
 セルヴィウスはゆっくりとメティスの手を外し、哀しい笑みを口元に刻む。
「セシルにもう一度返してやりたいのだ。私が奪ってしまった、愛する兄を」
 自らの濡れた髪をつかんで、惜しむように握ると、セルヴィウスはそれを風の中に離した。