春の雨が降る窓の外を、セルヴィウスは考え事に沈みながらみつめていた。
 宴の四日目は、天候が乱れたために休止とした。そもそも肝心のセシルも、熱が落ち着いてようやく眠りの淵についたところだ。
 セルヴィウスは表面上、朝から淡々と政務をこなした。彼は自ら剣を取って戦地に赴き、敵兵に囲まれながら単騎乗り出して領土交渉をした豪胆さを持ちながら、普段は極めて穏やかで、必要とあらば夜通し雑務をこなす、良き君主だった。
 その平静さが、敵や、時には長年仕えた家臣たちにさえ、恐ろしく感じられた。セルヴィウスはおよそ怒りなど見せない。あるとき平然と、「あれの首をはねよ」と命じる。
 ただ結果だけを見れば、セルヴィウスがどこに怒りを感じたかなど一目瞭然だった。自分に刃を向けた敵国の王子は亡命を許したが、セシルを領地にさらおうとした弟皇子は、その数日後に国外で死体が見つかった。後宮の宝石を持ち出そうとした女官は手土産を持たせて里に帰されたが、愛妾と通じて湯殿にいたセシルの衣装を持ち去り、セシルに風邪をひかせた者は、愛妾もろとも凍り付くまで吹雪の中に置き去りにされた。
 皇帝の美しい妹姫への寵愛が狂気じみているのは、もはや誰しも理解している。けれどそれを飲み込まざるをえないほど、セルヴィウスは理想的な君主だった。有能でありながら自らの足りない部分への努力も忘れず、慈愛を持って家臣や国民に接していた。セシルのことが絡まなければ、愛妾に対しても優しい男だった。
「陛下、聞いていらっしゃいます?」
 ひょこっと猫のように顔をのぞかせた少女に、セルヴィウスは考え事から目覚める。
「何であった?」
「もう! 全然聞いていらっしゃらない! どんな動物なら持参して嫁いでよいかというお話です!」
 ルイジアナはお行儀悪く足を投げ出して椅子に座る。
「猫も犬もだめ、馬もだめ! だったら私は何と暮らせばよいのですか?」
「人と暮らせ、ルイジアナ。そなたは一応王宮育ちのはずであろう」
「動物のいない生活なんて耐えられません!」
 セルヴィウスは少年の頃ル・シッド公国の王宮に滞在し、ルイジアナと毎日顔を合わせていたことがあった。もっともその頃ルイジアナは首が座るか座らないかという年だったから、セルヴィウスの顔も覚えていないだろう。
 その後セルヴィウスがクレスティアに帰還してからもたびたび交流はあり、ルイジアナが王宮に動物を持ち込んでは家臣に叱られているという話は聞いていた。
「遊びに来るのではないのだぞ」
 セルヴィウスは頬杖をついて苦笑する。まだ十三歳のルイジアナは、後宮に入るという意味がよくわかっていない。その無知が笑いを誘いながらも、可愛げがあった。
「月の姫宮はどんな動物がお好きなのですか?」
 重臣でさえめったに口にできないセシルのことも、ルイジアナは興味本位で訊いてくる。
 セルヴィウスは足を組み替えてぽつりと答える。
「セシルに動物は近づけぬ」
「どうしてですか?」
「執着しすぎる」
 いつだったか、セルヴィウスはセシルに小鳥を贈った。飛んで逃げないよう、羽をつぶしてあった。だから弱るのも早かったのか、半年と生きられなかった。
 セシルは毎日小鳥の墓の前で泣いていた。その背中に暗い嫉妬を覚えて、セルヴィウスは墓ごと後宮の外に追いやった。
「陛下は妹思いのお優しい方でいらっしゃいますね!」
 明るいルイジアナの言葉に、まさかとセルヴィウスは自嘲する。
 セルヴィウスには姉妹姫がたくさんいる。財政を圧迫するので早めに降嫁させたが、それなりに財も持たせてやったし、多少の希望は聞いてやった。ただ、それだけのことだった。可愛いというなら、一時だが毎日共に過ごしたルイジアナの方がまだ可愛い。
 たとえばセシルが目覚めるときの睫毛の震え、庭をみつめるときの瞳の色。夜の帳の中でこぼした涙、兄上と呼ぶ声。無性に抱きしめたくて、体温を感じたくなる思い。どこからが庇護欲でどこからが情念なのか、セルヴィウスも時々わからなくなる。
「そうかもしれぬ」
 けれど何度わからなくなっても、またセシルを想っている。
 春の雨を見ながらも、考えていた。セシルは今、どんな夢を見ているのであろうと。
 昨夜セシルに触れた者がいたのではと、我を忘れそうになった。だが冷静になってみれば、宴の間セルヴィウスは遠目からもセシルから目を離さなかった。セシルにそのような接触をした子弟がいたなら、すぐに気づいたはずなのだ。
 熱を出して眠っているセシルの肩にわびるように口づけて、そっと寝所を後にしたのは明け方のこと。今日の政務は片付けてしまったので、後宮に滞在しているルイジアナのところで時間をつぶしていた。
 昨日のセシルは、泣きながらではあったが久しぶりに明瞭な言葉を話していた。泉の側で意識を失うまでに何があったかは今調べさせている。セシルが傷つくようなことがあったのならばその痛みから遠ざけなければならない。ただ、正気を戻すきっかけがあったのならばそれを確かなものにしたい。
 だがけむる春の雨を見ていると、セシルの手を取って寄り添い眠った、昨夜の穏やかなひとときを思い出す。先のことなど考えず、ただ今夜もセシルの隣で眠りたいと思う。
「陛下ってば!」
 ぷりぷりと怒るルイジアナをいなしながら、いたずらに夜の訪れを待っていた、そんなとき。
「陛下。ル・シッド公国のアレン公子が参りました」
 その女官の言葉は、セルヴィウスの意識の弦を弾いた。
「兄上が? もう、陛下とお話しているのに邪魔しないでください!」
 ルイジアナが子どもっぽく怒っている。セルヴィウスはまったく別の怒りを抱いた。
 昨日、セシルが泉の側で倒れたとき一番側にいたのはアレン公子だった。たとえ降嫁を考えているとしても、もしかしたらアレンがセシルに触れたかもしれないと思うと、嫉妬に胸が焦げそうだった。
「……通せ」
 セルヴィウスが不愉快を押し殺して命じると、まもなく彼は現れた。
 ル・シッド公国は近隣に比べてめざましい発展を遂げている国だが、アレンはそれほど華美を好まない。長身に馴染む深緑色のサーコートをまとい、金髪をすっきりと首の後ろで結っているだけで、貴公子然として宮中で映えていた。
 アレンは優雅に一礼すると、むくれているルイジアナを見てくすっと笑う。
「この不肖の妹にお付き合いくださるとは光栄です。お暇でしたか?」
「近く後宮に迎える姫だ。敬意を払って接している」
「田舎娘ですよ。後宮の姫君方には到底及ばないかと」
 アレンは常に朗らかな笑みの下に、皮肉を忍ばせる。その才気走ったところが、多少の脇の甘さと言えなくもなかった。
 そもそも少年の頃、セルヴィウスは奴隷の母から生まれたゆえに王子としても扱われていなかったところ、乳母の手配でル・シッド公国に留学して学を得た。そのときから既にル・シッド公国の第一公子として将来を約束されていたのがアレンだ。
 今となってはセルヴィウスは圧倒的な権威を持つクレスティア帝国の皇帝だが、それでもル・シッド公国とアレンには少年の頃の借りもあり、権力だけですべてを左右することはできない相手だった。
「皇后陛下も気苦労が絶えませんね」
 また、アレンとは個人的に仲も悪い。正妃メティスはアレンの元婚約者だ。あの賢明で美しい正妃のことをこの公子が憎からず思っていたことは、セルヴィウスも知っていた。
「独り身のそなたよりは悩みが多かろうな」
「確かに」
 お互いうっすらと笑みを浮かべて嫌味を言い合う。
 正直なところ、セルヴィウスは今回の宴にアレンを出席させたくはなかった。アレンは借りがある上に、扱いやすくない人物だった。領土を拡大しようという野心はないが、商才に長けており、必要とあらばクレスティアとの同盟関係を切り捨ててしまう危険もはらんでいた。
 ただ、もしセシルが目を留めるのならアレンだろうとも思っていた。メティスに通じる美貌、そしてもう一つ、セシル本人に通じる点があった。
 窓の外の春の雨を見やって、アレンは何気なく告げる。
「珍しい雨ですね」
 セルヴィウスが少し怪訝な顔をすると、アレンはちらとセルヴィウスを振り向く。
「「雨がよく降る国には良き精霊がいる」……と、聞いたことがあります」
 セルヴィウスは目を細めて、ルイジアナに目を移す。
「ルイジアナ。菓子を用意させてある。女官たちと休んでくるがいい」
「まだ陛下とお話したいです!」
「私はあまり菓子は好まぬ」
 セルヴィウスはアレンを見据えて問う。
「公子もそうであろう?」
 アレンは目の端で同意を示して、ルイジアナに行ってくるよう勧めた。
 ルイジアナが渋々退出し、女官たちも下がらせた後、アレンはセルヴィウスの向かい側の椅子に腰を下ろす。
「言いたいことがありそうだな」
 セルヴィウスが告げると、アレンは一度目を伏せた。 
「姫宮がお倒れになったとき……水面に映った影は、陛下によく似ていましたね」
「精霊とはそういうものらしいな。誰かの姿を借りると聞く」
 ル・シッド公国では、「精霊」というものが身近な存在だった。クレスティア帝国にはそのような名前すらなく、「魔」と呼ばれるだけだ。
 気がかりそうに眉を寄せるアレンを見て、セルヴィウスは思う。
 アレンはセシルと同じものが見える。それだけでも、セシルの心に近づく可能性を持っている気がした。
「アレン公子」
 セルヴィウスの呼びかけに、アレンは目を上げる。
「私はセシルの降嫁先を探している」
 アレンはそれほど驚くさまを見せなかった。くすっと優雅に微笑む。
「ル・シッド公国はいかがですか? 暖かく、過ごしやすい土地ですよ」
「良き精霊もいることであるしな。……ただ」
 セルヴィウスはひたとアレンを見据える。
「契約をせぬか、公子。そなたにとっても利となる条件を用意してある」
 アレンは笑みを消してセルヴィウスを見返す。
 女官の気配も完全に消えたのを確認してから、セルヴィウスは口を開いた。
「一つ目。セシルをそなたの正妃とすること」
「クレスティア帝国の皇妹殿下を、それ以外の地位に迎えることは無礼でしょう」
 うなずいたアレンに、セルヴィウスは続ける。
「そなたはいくら愛妾を持っても構わぬ。ただし愛妾の子を世継ぎとすることは認めぬ。セシルの地位を脅かすゆえ」
「そうなると、恐れ多いことに月の姫宮に御子を産んでいただくことになりますが」
 それこそお許しになるのですか、と目を細めて揶揄したアレンに、セルヴィウスは平然と言った。
「二つ目。セシルに懐妊の兆しがあった場合は、速やかにクレスティアに里下がりをさせること」
 その言葉を、アレンは少しはかりかねたようだった。一拍考えて問う。
「姫宮の御身には決して大事がないようはからうつもりですが……。クレスティアからの医師団を受け入れる、という条件では?」
「セシルの体で出産は無理だ」
 ぎくっとして、アレンは息を呑む。
「……まさか」
「知っているか? クレスティアには母体に害とならない堕胎方法がたくさんある」
「陛下!」
「三つ目。最後だ」
 セルヴィウスは今までで一番たやすそうにその条件を口にする。
「そなたに世継ぎを与える。私がルイジアナに男児を産ませ、セシルの子としてそなたのところに帰そう」
 アレンは彼らしくもなく、しばらく衝撃で言葉もなかった。
「無論ル・シッド公国とはこれまで以上の交易を行おう。協定の準備も整っている」
「なぜ……」
「セシルに害なすものは取り除くと決めている」
 セルヴィウスは彼が重臣たちに恐れられている、凍るように冷静な目でアレンを見た。
「私はセシルの降嫁先を得る。そなたはクレスティアとの交易と世継ぎを得る。互いに利となる条件ではないか?」
 アレンはその目をもう見ていることができず、苦い思いで目を伏せた。
 セルヴィウスが少年の頃、ル・シッド公国に留学していたときから、アレンは彼を恐れていた。
 やって来たときは文字も書けない野生児だったのに、たった数年で見違えるような貴公子に成長した。セルヴィウスは奴隷の子と侮られることなど気にも留めなかった。ただ淡々と貪欲に教えを乞い、努力を重ね、甘やかされた貴族の子弟たちをあっさりと追い抜いていった。
 けれどアレンは、そんな不気味なほど有能な少年と向き合ったとき、その目に冷ややかさと共に宿る光に気付いてしまった。
 昨日の出来事のようにアレンが覚えていることがある。まだル・シッド公国にやって来て間もない頃、ひどい熱病に侵され、医師に匙を投げられた夜でも、セルヴィウスは今と同じ目をしていた。
 俺は死なないから大丈夫だと、彼は言った。落ち着けよとアレンがなだめると、セルヴィウスは少し黙った。
 それからセルヴィウスはぽつっと言ったのだ。お前も妹がいたな。妹はかわいいなと。
「陛下。妹君がかわいいんですね」
 今あのときとは違う感慨を持って、アレンはその言葉を返す。
 王侯貴族において母の違う姉妹など、むしろ憎しみの対象だ。幸いアレンとルイジアナは仲のいい兄妹同士だが、それでも妹の嫁いだその先にまで思いを馳せたりはしない。
「……ああ。かわいいな」
 一瞬だけ、セルヴィウスは少年の頃のように無邪気な光を目に宿して、微笑んだ。