護衛騎士のリドが馬車の小窓を開けて、馬を繰る御者に何やら耳打ちすると、シード家の紋を掲げた小型の馬車はその速度を落とし、車輪の音と揺れが幾分かは緩やかになった。向かいの席で黒猫と寄り添うように眠っているマリスの膝に、騎士はそっとブランケットを掛け直す。日の光が差し込む窓にはカーテンを引き、余計な物音を立てないよう息を潜める。

 猫を抱いて塔を降りてきた時の魔女は、少しばかり足元がふらついているように見えた。塔の中でどのような作業を行われているかは、一介の護衛騎士には知る由がない。ただ、いつも以上に主が疲れているのだけは確かだ。
 そして、自分の脚では歩けないほどに猫が衰弱しているのも分かった。

「大丈夫よ。ただの魔力疲労だから」

 慌てて身体を支えに駆け寄った騎士に、マリスは何てことない風に言ってのけたが、その声にもあまり力がこもっていなかった。そして、リドに支えられて乗った馬車の座席で、意識を失うかのように眠り込んでしまったのだった。

 彼女らの眠りを妨げないよう静かに屋敷への道を走る馬車の中で、マリスはいやにはっきりとした夢を見ていた。

 月明りもない真っ暗な夜。風の音と、何かの獣の遠吠えが聞こえてくるだけで、周辺には人が活動している気配は一切ない。そんな出歩くには不向きな時刻に、古びたフードを目深に被った女が一人、領主別邸へ裏門から忍び込もうとしていた。胸に抱えた篭の中をしきりに気にしながら、裏庭にある薬草畑を抜けて、建物の裏口の脇に辿り着くと、キョロキョロと辺りを見回した後、その篭を地面に置く。

「生き続けて」

 篭の中にそう声を掛け、来た道を注意深く戻っていく。女が裏門を抜け出た時だろうか、篭の中から力ない赤子の泣き声が響き、すぐに背後の裏戸が開かれる音が聞こえてきた。

「ごめんね……」

 後ろは振り返らず、ただ一言だけ漏らす。その後の女の行方は、暗闇に紛れて分からなくなった。


 ガタンという馬車が停まる振動で、マリスは勢いよく頭を壁にぶつけてしまった。向かいの席から「あっ」という慌てた声が聞こえてきたので、護衛騎士に事の一端を見られていたことに気付き、恥ずかしさから一気に顔が熱を帯びる。
 ジンジンと痛む箇所を擦りながら、誤魔化すようにはにかんで見せると、騎士からは気まずい顔で目を逸らされてしまう。

「エッタ、屋敷に着いたわよ」

 声を掛けられてゆっくりと頭を上げた猫をそっと抱くと、あまり揺らさないよう気を付けながら馬車を降りる。マリスへ自分の魔力を譲渡したせいで、黒猫は随分と弱っているようだった。しばらく身体を休めていれば回復するのは分かっているが、こんなに弱々しい守護獣を見たのは初めてだ。

 屋敷に入り、出迎えに出てきたリンダに薬草茶を淹れるよう願うと、二階の自室へ真っ直ぐに向かう。このタイミングで子猫に絡まれてしまっては可哀そうだと、子供部屋の前は特に慎重に通り抜けた。
 黒猫をベッドの上に寝かせ、宿り木に居たキュイールへもしばらくは騒がないよう言い聞かせると、執務椅子に深く腰掛けてから大きく息を吐く。

「あれは、マローネの母親だったのかしら……?」

 馬車の中で見た夢を思い出して呟く。目が覚めた後もはっきりと記憶している、とてもリアルな夢を見ることはこれまでも何度かあった。エッタと寄り添って眠った時に多かったので、守護獣の力の一種なのかと考えているが、そういった事例が報告されたという話は研究者からも聞いたことがない。そもそも、猫の守護自体が滅多にいないから記録としてほとんど残っていないのだ。

 もしあれが現実夢だとすれば、マローネは母の手でこの屋敷に連れて来られたことになる。そして、彼女の母は娘が生き続けることを願っていた。
 高い魔力を持って生まれなければ、大切に親の元で育てられたであろう猫付きの子。

 目の前の執務机の上に積み上げられた、新設予定の学舎の資料を手に取ると、その中から魔法クラスの魔術計画書を広げる。エバによって加筆修正されたカリキュラムは、マリスにとってはとても新鮮だった。院にいる子供達の魔力量を基準にして組まれた計画書は、魔力流れの認識とその力の制御から始まり、どの子も学舎を出る頃には魔力を活かした仕事に就けるようにと考えられていた。

 ただ魔力制御ができるようになれば良いだけではなく、魔力を持って生まれてきたことを誇りに思える場であって欲しい。そのマリスの願いに忠実な、見事な計画書だった。

 ほどなくして、淹れたての薬草茶を携えて侍女長が入室して来た。戻ってすぐのマリス達の様子から察したのか、余計なことは何も言わずに備え付けられたソファーテーブルの上に湯気の立つカップと焼き菓子のプレートを置くと、深く一礼してから部屋を出て行く。
 元乳母だったとは言ってもリンダもまた、マリスの管理する結界に守られたシード領民の一人だ。主の負う任務の重要性はちゃんと理解している。だからこその気遣いなのだろう――。

「こんなに、食べ切れないわ……」

 皿の上に盛られた山盛りの焼き菓子を前に、マリスは思わず吹き出した。完食すれば、間違いなく夕食に響く。