自室に戻ったマリスは、皺一つ無く整えられたベッドにボスッと勢いよく倒れ込んだ。うつ伏せのまま、しばらく動かずにいると、後ろから付いて部屋に入って来た黒猫もベッドに飛び乗ってくる。フカフカの布団の上を歩きにくそうにしながら、マリスの頭の傍まで寄って、エッタは自分のその丸い頭を擦り寄せる。ゴロゴロと喉を震わしている猫のことを頭部で感じると、マリスは寝返りを打って仰向けになると、腕を伸ばしてエッタの身体を自分の胸の上に乗せた。

 寝転んだマリスに抱かれながら、黒猫は観念したかのようにそのまま四肢を折って箱座りすると、手入れの行き届いた黒色の背中の毛を撫で続けている魔女の顔を黙ってじっと見ていた。

「シードへの逃げ道を作ろうにも、集落が森のどこにあるかが分からないと――」

 エッタに触れながらも、頭の中はサズドールのことで埋め尽くされていた。他領内のことだから直接何かすることも出来ないが、せめてシード領へ避難してきた命だけでも確実に救いたい。

 マリスは猫を横に退かせてから起き上がると、執務机に向かって筆を取り始める。今、この領が出来ることは、領境にあるウーノの石壁の検問所での赤子達の保護と、それらの追手がシードへ無断侵入するのを防ぐことくらいだろう。父である領主への提案書を作成し終えると、マリスは真新しい魔法紙を引き出しから一枚取り出した。

 魔女である自分だから出来ること。ウーノの石壁には赤子達を追って簡単に街へ入り込める抜け穴がどこかにあるはずで、そこから女達も連れ戻されたと考えるのが自然。まずはそこを塞ぐことが重要だ。とは言っても、建造物の修復技術なんてものを、マリスは持ち合わせてはいない。辺境の魔女であるマリスに出来るのは、魔法を行使することだけだ。

 ――あ、街を覆う結界って、張るのに許可が必要だったかしら……。

 首を傾げながらも、魔法紙上に魔法陣を描き出していく。石壁の強化と、その穴を塞ぐ防御壁。検問所以外からの侵入を遮断し、あやしい者のウーノへの訪問を管理するのが第一だ。
 本当なら街への大規模な結界を張り巡らせたいところだが、領内での人の往来の妨げにもなる可能性があり、国からの特別な許可を受ける必要があって断念した。

 領主からの認可が下り次第、すぐに行使できる状態にと、マリスはその晩は通いの使用人達が帰宅した後も魔法紙に向かっていた。途中、喉が渇いてお茶を飲みにホールに降りたことはあったが、それを除けばずっと部屋に篭もりきりだった。

「何をなさってるのかは存じ上げませんが、お食事くらいちゃんと召し上がって下さいませ」

 存じ上げないとは言いながら、リンダはマリスの行っていることへの察しはついていた。どうせ新しい魔術を作り込んでいる最中なのだろう、と。ただの事務的な作業だったなら、もっと何かにつけて休憩を挟むはずだから。マリスが食事を忘れるくらい熱中するのは魔術関係しか考えられない。乳母の目は誤魔化せない。

 部屋の隅に設置されたティーテーブルの上に、温め直したばかりの夕食を並べて、侍女長は呆れの混ざった溜め息を漏らした。
 魔法紙に向かって首を捻ったり、小さく唸ったりしているマリスは、元乳母の言うことなんて聞いてはいない。こうなったら最後、作成途中の魔法陣が完成するまで食事を取るつもりはないのだろう。

「また冷めてしまっていたら、ご自分で温め直して下さいませ」
「ええ、ありがとう」

 魔法紙から目を離し、部屋を出て行くリンダの背に短い言葉を返すと、マリスは再び魔法陣に集中する。が、部屋の中に漂い始めた美味しい香りに、存在を忘れていたはずの腹の虫の方が先に反応し始める。

 お腹に手を当てて少し考えていたが、意を決したかのように椅子から尻を離すと、魔法紙を握りしめてティーテーブルへと向かう。食器の横に完成間近の魔法陣を広げ、それを見ながら食事を口に放り込んでいく。
 まだかろうじて温かみの残る夕食は、マリスが部屋で作業しながらでも食べ易いよう、予め小さく切り分けられた物が多かった。一口サイズのサンドイッチを頬張りながら、魔法陣の気になる箇所を指先に魔力を流して修正する。

 と、不意に耳元でキーンという耳鳴りのような高い音がした。一瞬驚きはしたが、マリスはすぐに口の端で笑いを漏らす。この感覚には覚えがある、北の辺境地から送られてきた通信魔法だ。即効でこちらからも反応を返す。

「丁度良かったわ、ケイン。ごきげんよう」
「やあ、ごきげんよう、マリス。丁度良かったってことは、今繋いでも問題ないってことかな?」
「ええ、相談に乗って貰いたいことがあるのよ、領境からの侵入者を防ぐ防御壁で――」

 同僚の魔術師の魔力量を考えると、この複雑極まりない通信魔法を繋ぎ続けられるのはせいぜい5分。出来る限りかい摘まんで早口で事情を説明してから、すでにマリスが構築し終えた魔法陣の概要を口頭で羅列する。

「ふむ、それで十分手厚いとは思うけど、ウーノの石壁ってどれくらいの高さがあるんだい? 狩人となると飛び道具も扱い慣れてるだろうし、上からの侵入もあり得るんじゃないかな」
「そうね、そこまで高くは無かったかも。なら、乗り越えられないよう上に防御壁を増築させてみるわ」

 通話と並行して魔法陣を修正していくと、徐々に完成形が見えて来た。持つべき物は知識が豊富で魔法馬鹿な友人だ。