報告書を持つ手が微かに震えていた。それは馬車の揺れのせいなどではなく、マリスの心が言葉に出来ない感情で溢れ返り、打ち震えていたからだ。怒りと恐ろしさと、信じられないという思いが混じり合う。

 ――何て、おぞましい……。赤子を攫って、実験?! その血を?!

 母親から魔力を引き継がない子。つまり、魔女の産む魔力無しの子を狙った誘拐、そして、攫われた子は異常思想者達によって実験の名目で血を抜かれ殺されている。しかも彼らはそれを聖なる儀式と呼んでいるというのだ。

 決定的な証拠が無いのに加え、反吐が出るほどの残虐な行為に、サズドール内でも緘口令が敷かれているらしく、赤子が居なくなったという訴えには一般的な誘拐の対応しかされていない。なので、一部の上官以外の領民の間ではまだ大きな騒動にはなっていない。それもそのはず、そのカルトな異常思考者達の拠点となっているのが、サズドール内でも謎に包まれた存在である、森の中の狩人の集落だからだ。

 サズドールが誇る武装集団。力こそが物を言う集団では、武術や魔術の強さだけが全て。さらなる強さを求めた結果が、赤子が持つと言われている未知の力に繋がっているのかと思うと、マリスは嫌悪感を覚えずにいられなかった。

 幼い頃の領地学の授業では、サズドールの隠れ集落は隣の領の有事の際に駆け付けてくる影の護衛集団のようなものだと、当時の家庭教師からは説明された覚えがある。武術を極める崇高なはずの集落は、いつからそこまで落ちてしまったのだろうか。

 ――だとすると、あの子達はサズドールから逃がされてきたのかもしれないわね。

 領境にあるウーノの孤児院に最近になって預けられた二人は、生まれたばかりの赤子で魔力は持っていなかった。隠れ集落のことは一般の領民には知らされていないということは、集落内で生まれた子か、或いは他所から攫われて来た子の可能性が高い。

 我が子の身を案じた実親か、集落の方針に背いた者が赤子達を森から連れ出して来たのだとして、その後に再び森へ戻る訳はいかないだろう。教会へ身を捧げたいと訪れて神父に諭され、シスターから街での住む場所と働き口を見つけて貰ったという女達は、おそらくサズドールの森の関係者だと考えていい。

 けれど結局、皆いつの間にか街から居なくなっていたというシスターの言葉を思い出し、マリスは眉を寄せた。追手に見つかった彼女らが、無事ならば良いのだが……。

 隣の領と赤子達のことに思いをはせている内に、マリスを乗せた馬車がルシーダの屋敷に着いた。門番によって開かれた門を潜り抜け、屋敷の玄関扉前に停められた馬車から降りると、マリスは迎えに出て来たリンダの後ろに、真っ黒な猫の姿があるのに気付いた。

「エッタ……」
「みゃーん」

 普段あまり鳴くことがない黒猫が、甘えた声を出しながらマリスの足に擦り寄ってくる。侍女長に手荷物を預けた後、マリスは猫を抱き上げてから、その首元に自分の顔を埋めた。
 魔女の心の動揺を感じ、心配して出迎えに来てくれたのだろう。マリスにとって対の存在であるエッタには心の機微などお見通しだ。普段の黒猫なら、ソファーの上で長い尻尾を面倒そうに振って迎えるくらいの反応しか示さない。

 エッタを床に降ろしてやると、マリスはそのままホールを素通りして階段を上がった。二階の一番奥にある自室へと向かう途中、子供部屋の前で聞こえてきた乳母の優しい子守唄に耳を傾け、小さく微笑みを漏らす。

 先日、メリッサの指示の下でマローネ達の新しい衣服や玩具が商会から納品されてきた。そこで、これまでの小さくなって着られなくなった服は院へ寄付したいと、乳母が綺麗に畳んで袋に詰め込んでいるのをマリスは子供部屋のソファーに腰掛けながら見ていた。

「そんなにすぐ大きくなるものなのね」
「ほんのひと月、ふた月で着れなくなる物もありますし、残しておくとあっという間にクローゼットが一杯になってしまうんです」

 娘達の時に使っていた衣類も自宅から持って来たらしく、それらも一緒に袋へ入れていく。女児用の物はギルバートには着せられないし、マローネには新しい物をたくさん誂えているから、他に着てくれる子が院にいるのなら丁度良い。

 屋敷で保護した女児は何の問題もなく、すくすくと成長している。痩せ気味だった体型も肉付きが良くなり、腕や足もムチムチと太ましくなった。乳母の対応が良いのか、或いはマローネの気質なのか、癇癪を起す頻度もそれほど多くはなく、マリスが手を焼く場面は少ない。
 どちらかと言えば、活発過ぎる子猫に一日中追いかけ回されている黒猫の方が大変そうだと思えるくらいだ。シエルはもうすっかり階段の昇り降りをマスターしてしまったようで、屋敷の中にはエッタの安息の場所はほとんどなくなっていた。