天井まで届く壁面の棚は書物がぎっしりと並べられ、それに入りきらなかった物はテーブルや椅子、はたまた床の上へと積み上げられていた。かろうじて見えているカーペットの色も、昔見た時にはもっと鮮やかだった記憶があるのだが、今見える足元のそれは完全にくすんでしまって元の色が想像できない。
 手入れの行き届いたグレード家の屋敷で、この部屋だけが異質だった。領内屈指の商家の立派な屋敷の中に、こんな荒んだ部屋があるとはだれが想像できるだろうか。

「あ、そこ通る時は気をつけて。崩れやすいから」

 不揃いの書籍が積み重なって出来た山を指し示しながら、魔術研究者は感情の薄い声で言った。注意をしていなくて、万が一崩れ落ちた時に、「先に言っといてよ」と逆切れされるのを回避する為、とりあえず一言付け加えた、そんな感じだった。

「本の重みで床が抜け落ちそうね」
「ああ、だから下の部屋にはなるべく行かないようにしてる」

 荷物の分散という言葉は、彼の頭には無いようだ。全ての蔵書はこの部屋にあり、いつでもすぐに手に取れないと気が済まないらしい。彼の伸びた白金の髪を後ろで結わえることができた侍従でさえ、研究資料に手を出すことまではできないようだ。
 書物が色褪せてしまうからと板を打ち付けて塞がれた窓からは、何の光も入ってはこない。壁で灯された照明の無機質な明るさが全てだ。

「これお願い。もう空っぽになった」

 ぽいと投げ渡された物を慌てて受け取ったマリスは、部屋に入った瞬間から呆れた表情を顔に張り付けっぱなしだった。前に来た時よりも、さらに書物の数が増えていて、当然のように足の踏み場が減っている気がする。
 年頃の女性を招き入れる部屋ではないし、それに平然と入り込んでいる自分もどうかと思う。

「魔石は投げる物じゃないわよ――それより早くない? もう使い切ったの?」

 手に持ったまま灯りにかざして、傷が無いかを確認したのは、直径十センチほどの黒色の魔石。魔石の類いにしてはかなり大きく、市井では購入が難しいサイズだ。黒色の石には無属性の魔力を溜め入れることができ、魔力量の少ないルシファーはこれに入った魔力を使って魔法陣の試し起動を行っている。

 空になった魔石に魔力を入れ直す魔力屋という商売もあるが、彼が欲しい量の魔力を一気に入れられる魔術師は滅多にいない。だから石を店に預けるとなるといつ戻ってくるかが分からないのだ。
 で、魔力ストックが無くなる度に幼友達であるマリスが、適当な理由を付けて呼び出される。

「ちょっと失敗が続いてしまっただけだよ。でも、なかなか面白いものが出来たとは思う」

 折り畳まれた魔法紙を引き出しから取り出すと、ルシファーはそれをマリスの前に差し出した。四つ折りにされていたそれを灯りの下で広げて見ると、細かい古代文字列で組まれた魔法陣。ざっと見たところ、数種類の風魔法が組み込まれているようだったが、その指示されている数と向きの複雑さに、マリスは呆気に取られていた。まるで風を編みこんで絨毯でも作るかのような、繊細な動きと緻密さだ。

「何これ、風を使った浮遊魔法?」
「そう、と言いたいところだけど、実際のところ浮くことはできなかったんだよね、せいぜい落下速度を落とすくらいかな」

 足下に風を編み上げ、身体全体を浮かせられたらと思ったが、そう簡単にはいかなかった。だが重力には少しばかり抗えたようで、ゆっくりとした降下を体験することはできた。実用性はと聞かれると耳が痛いが、まぁ娯楽の一環くらいにはなればいい。失敗は失敗だが、魔法馬鹿の友人なら面白がってくれるだろう。

「上の階から、試していいかしら?」
「え、いきなり上に行く?」

 ルシファーとしては、まずは椅子などの上から飛び降りる感じをイメージしていた。彼自身もまだ、魔力が足りずにその程度の試験しかしたことがない。勿論、どの高さから飛び降りても上手くいく自信はあるが、初っ端で三階から試そうとしているマリスの恐れのなさに目をぱちくりさせた。

「高いとこから試すのが分かり易いじゃない」
「いや、まあ、そうなんだけど……」

 高魔力持ちだから怪我しにくいとか、怪我しても治りが早いとか、そういうチートな特性なんてない。魔女だろうが三階から落ちれば大怪我する可能性がある。

 床に魔法紙を広げると、マリスは描かれた古代文字を指先でなぞって魔力を注ぎ入れる。そして、魔法陣全体を覆うように魔力を注ぎ、友人が構築した魔法を取り込んで身体に覚え込ませた。

「じゃあ、上の廊下から飛ぶから、そこの窓から覗いていて」

 止める間もなく部屋を飛び出したマリスを追い、ルシファーも研究室を出る。廊下の窓を全開にして顔を出し、上を見上げた。すでに上の階に着いていた魔女は「じゃ、いくわね」と下にいる友人へ向かって手を振ってから、窓枠に足を掛けて登ると、躊躇いも無く外の世界へと身を乗り出した。

「?!」

 落ちてくる辺境の魔女にぶつかってしまうと咄嗟に首を引っ込めたルシファーだったが、フワフワとゆっくりした速度で下降してくるマリスと目が合うと、笑顔でウインクされた。

「これ、すごく楽しいわ」

 二階の窓辺を通り過ぎる際、棒立ちしているルシファーへマリスがご機嫌で声を掛ける。下から吹き上げる風で長い黒髪が逆立ち、スカートが捲れ上がってしまうのは困ったが、かつて経験したことのない感覚に笑いが止まらない。

 同じ速度を保ったまま庭に降り立ったマリスは、再び二階の窓から顔を覗かせたルシファーに下から大きく手を振った。その満面の笑みに、魔術研究者は呆れたように呟いた。

「魔法馬鹿」