高校入学式の日の朝のまだ空も暗い頃。
海外出張中の父親から芹菜にLINEが入っていた。
芹菜は着信したときには寝ていたので気づかなかったが、起きてからそれに気づき、「はぁ……」と溜息を吐いた。
芹菜が中学入学と同時期に、海外出張に行った父と、それについていった母は、とてもじゃないが『いい両親』ではなかった。
芹菜の記憶の限りでは、父は怒鳴っているところしか知らないし、母はヒステリックに泣いているところしか知らない。
『しか』というのは些か、言い過ぎかもしれないが、でもそれくらい、子供のことを考えた行動があまりない両親だった。
それでも、兄の小菊がそんな両親の毒親っぷりを芹菜から遠ざけていたくらいだった。
小菊は幼い頃、もっときつい扱いを受けていた。
だから、10歳年下の可愛い妹にはそんな苦痛を感じさせたくはなかった。
しかし、小菊の目の届かないところで、両親からの苦痛は芹菜を襲う。
そして、芹菜は、9歳のころ、両親を躱す処世術として身に着けた、『大人しい』『反抗しない』『自分を持たない』という性格から、根暗だ、何しても反抗しない、と面白がられて、学校でいじめを受けた。
苦しかったその頃から、芹菜は音楽が好きだった。
兄が、音楽を好きな自分の事を思ってバンドを組もうと言ってくれた時は、とてもうれしかった。
でも、大好きな幼馴染たちだけじゃ足りなかった。
優しくて、大好きな兄も一緒じゃないと、嫌だった。
小菊は17歳の頃ギターを買って独学で勉強していた。
芹菜はギターを当時すでに大学生でバイトをしてそこそこ稼いでいた小菊に買ってもらい、紫苑はドラム、紅華はベースを、富裕層の優しい両親に買ってもらった。それが芹菜と紅華が中学1年、紫苑が中学2年のクリスマスだ。
それが『金糸雀』というバンドの始まりだった。
三年の練習期間を、リーダーの小菊は設けた。
自分がそうであったから、楽器演奏初心者の三人でも、三年もあれば完璧に弾けるようになるだろうという算段だった。
生憎、黒川兄妹の両親も、佐竹兄妹の両親も、そこそこの額を家に入れているので、幼馴染トリオは楽器演奏の教室に通えた。
好きなことへの情熱は、三人共中々のもので、幼馴染トリオはめきめきと楽器演奏の腕を上げ。
芹菜はボイストレーニングにも通ったが、講師がもう教えることはないというほどに、上達してしまった。
そして、本格始動の春を迎えた『金糸雀』。
芹菜と紅華の入学式の一週間後にライブハウスでの初ライブを控えていた。
芹菜は洗顔をし、歯を磨いてから真新しい制服に着替え、今は兄と自分の二人分の洗濯物を洗濯機に入れて回した。
リビングからは小菊が朝食を作っているのか、いい香りが漂っている。
芹菜は洗濯物を終わらせる前に小菊のいるリビングに向かう。
「兄さん、おはようございます」
「芹菜、おはよう。よう眠れたか?」
「はい!」
小菊はキッチンから顔を出し、芹菜に笑って見せる。
芹菜も兄に笑って見せる。
そうすると目元なんかそっくりだった。
芹菜は誰にでも敬語で話す女の子だった。
それは家族でも、幼い頃から仲のいい幼馴染でも、近所のおじさんおばさんでも、そんなに仲のいいとは言えないクラスメイトでも、関係なかった。
それは、彼女なりの処世術だった。
自分を苦痛から守るために身に着けた、処世術。
「兄さん、ご飯の前に先に洗濯物干してきますね」
「俺も行こうか?」
「大丈夫です!」
にっこり笑う妹の頭を優しくなでる兄。
芹菜はそんな優しい兄をキッチンに残し、自分は洗濯物を干すべく、二階の客間から行けるベランダに向かう。
そして、自分と、兄の洗濯物を干すと、再びキッチンに向かった。
リビングにはフレンチトーストの甘くて美味しそうな香りが漂っていった。
「今日はフレンチトーストですね!!」
「おん。芹菜、フレンチトースト好きやろ?」
「兄さんの作る料理は何でも好きですが、そうですね、フレンチトーストの朝は元気になります!」
そして、二人暮らしの兄妹は、「いただきます」と手を合わせてから朝食を食べ始める。
一見、愛らしい笑顔の元気な妹と、優しい兄のやり取りだが、小菊は、芹菜がなんだか空元気なことに気づいていた。
でも、小菊はそれを追及はしない。それをしたら、彼女はきっと傷つくだけだから。
心配性な兄に心配させまいと元気を装っている芹菜の気持ちを、踏むにじむことだから、しない。
ただ、小菊は、もう二度と妹につらいことが起きなければいいと思う。
「芹菜」
「? はい」
「入学おめでとう。ええ友達出来るとええな」
「ありがとうございます、兄さん」
そうして、黒川兄妹は二人きりの朝食を済ませ、入学式へ出かける準備をした。
通常なら、通学には電車を使い、二駅ほど乗って行くのだが、今日は小菊の運転で自家用車で学校まで行くことになっていた。
小菊は、誕生日が三月なので高校卒業後に十八の誕生日が来てから免許を取っていた。
家の前で、隣の佐竹家から佐竹兄妹が出てくるのを待つ。
紅華も芹菜と同じ高校の新入生で、紫苑はその高校の二年だった。
事前に聞いた話では、在校生は部活がある生徒以外は今日は行かなくてもいいのだが、紫苑は陸上部で、部活があるため、行くらしい。
佐竹兄妹の両親は今日は外せない会議があると言って、行けないので、小菊が代わりに行くことになった。
佐竹兄妹の両親は、最近父が社長、母が社長秘書の就任したので多忙だ。
車の準備をしながら、待っていると、ワイワイ言いながら佐竹家から兄妹が出てくる。
「あ、紅ちゃん!紫苑くん!」
「せりな~~~~~~~~!!」
「わわわ!!」
158センチしかない芹菜より遥かに身長の高い172センチある紅華がタックルに近い勢いで芹菜に抱き着く。
その勢いでわたた!!とその場で足ふみをする芹菜だが、こういうのはいつものことなので何とかなった。
「おはよう!! 芹菜!! 新しい制服似合っとるね!!」
「おはようございます、紅ちゃん。紅ちゃんもお似合いですよ! あれ?お化粧してらっしゃいますか??」
紅華はそんなに派手でもないが、薄くお化粧をしているようだった。
大人びている紅華の容姿が、余計に大人びたような気がした。
「うん!! 高校生やからね!! 今度芹菜にもお化粧したげる!!」
「ふふ、今度、お願いしますね!」
「うん!!」
そんなかしましい女子たちの朝を見ながら、紅華の後ろで紫苑がふわぁ、と欠伸をした。
そんな紫苑に気づき、小菊は揶揄う姿勢を取った。
「紫苑君、寝不足か?」
「んー、課題終わってなくて徹夜したんよ」
「課題はちゃんと計画的にせなあかんで」
「ええやん、終わったんやから。身長もやけど小さい男やなぁ、菊兄は」
「誰が小さいって?! この巨人兵め!!」
揶揄うつもりが揶揄われてしまった小菊。
小菊は成人男性にしてはやや小柄で、168センチほどなので、189センチほどある紫苑も、172センチある紅華ですら見上げる羽目になる。
まあ、黒川一家は両親も小柄だし、佐竹一家は祖父母も長身なので、ようは遺伝だ。どうすることもできない。
そんな兄たちのやり取りをくすくす笑いながら見る妹たち。
妹たちにも笑われるし、居心地の悪くなった小菊は車の運転席に向かう。
「ほら、はよ乗り。置いてくで」
「「「はーい!!」」」
妹たちが後部座席に向かったので、紫苑は助手席の扉を開ける。
運転席の小菊を見ると、まだむくれていたので少しバレないように笑ってみた。
それから、二十分くらい小菊の運転する車に乗って、高校に着く。
駐車場は、近くに特別に設置してあるらしく、そこに止めて、少し歩いた。
高校の門には、『入学式』と看板が立っている。
「写真撮ったるかっら三人でそこ並びや」
「じゃあ、あとで紅のスマホに送ってね、おにぃ!!」
「私にも、お願いしますね!」
「俺にも~」
そういいながら、小菊の隣に芹菜、看板を挟んで紅華、と並び、紫苑に写真を撮ってもらう。
そして、小菊はここで仕返しを思い付く。
「紫苑君、芹菜の隣行き。写真撮ったるわ」
「は、え? お、俺はええよ……」
急にしおらしくなる紫苑。
しかし、小菊と紅華は理由を知っているのでニヤニヤしている。
実は、この佐竹紫苑という男、芹菜のことがもう十何年と好きなのだ。
大切に思うが故に、ずっと片想いを拗らせている。
しかし、芹菜はそれに気づいておらず、無邪気に微笑む。
「紫苑くん、一緒に撮ってください!!」
「お、おん……(くっそかわいい)」
そして、内心ドキドキな紫苑がニコニコな芹菜の隣に行くと同時に紅華が小菊の隣に行ってしまい、紫苑はぎょっとした。
「え、紅、一緒に撮らんの?」
「んー? 紅はこの後芹菜とツーショット撮るから!!」
紫苑は実妹のこの行動に内心「(このやろう……)」と頭を抱えた。
そして、ニヤニヤな小菊と紅華に、「腕を組んでみたら?」と言われ、紫苑がどぎまぎしている間にご機嫌な芹菜が紫苑の腕に自分の腕を絡めて、密着してくる。
芹菜の、少し成長した程々にふくよかな胸が腕に当たり、とても気まずくなってしまう紫苑。
そして、写真を撮ったというので、芹菜から離れ、想い人と妹がツーショットを撮ってもらっているのを眺める。
「(……芹は、オレのことどう思ってんやろ……)」
きっと、想い人は自分をただの幼馴染としか見ていない。
切なくなった紫苑は、部活に遅れるから、と、逃げて行った。
しかし、ちゃんと写真については、LINEのグループチャットに投稿することになっている。
「逃げたな」
「逃げたね」
「紫苑くん、私が密着してしまったから怒ったのでしょうか……?」
急に不機嫌(?)になった紫苑を自分が怒らせたのかと不安そうな芹菜。
そんな芹菜に、小菊と紅華はフォローを入れた
「おにぃは照れたんよ! 芹菜、可愛いからね!!」
「か、可愛くなんてないですよ……」
「いや、贔屓目かもしれんがお前はかわええよ」
「そうでしょうか……」
小菊と紅華は顔を見合わせる。
今年中に何とかしてこの両片思いな二人の恋を成就させよう、と。
そうなのだ。芹菜も幼い頃から紫苑を異性として好いている。
でも、幼馴染としても大好きで、気を許しているので、ついこういうスキンシップはついしてしまうのだ。
紫苑が去っていった方向を見つめてしょんぼりする芹菜に紅華はぎゅっと抱き着く。
「せーりな! 受付して、クラス分け見に行こ!!」
「……はい、そうしましょうか」
校門近くに、生徒会と教師たちが待ち構えていた。
そして、受付をして、新入生の二人は制服に、父兄の小菊はスーツにコサージュをつけてもらう。
「じゃあ、俺は先に体育館行ってるから」
小菊は先に入学式の会場に向かった。
芹菜と紅華は、中庭に貼り出されているクラス分けを、見上げた。