「あんな本、出さなきゃよかった」
「でも俺、由枝子(ゆえこ)が有名になっていくのは純粋に嬉しいけどな」
「賞金欲しさの好奇心だよ。あとは運。こんな不名誉なら欲しくなかった。受賞者インタビューも断ったんだけど、担当さんにどうしてもって言われて、身バレしたくなかったから猫の仮面? みたいなの、ネットで買った。1000円弱だったからさ、真秀との外食、1回分削らせてね」
「それは問題ないけどさ」




共感度100%と称賛される春那 所以子は話題の小説家。そして彼女​──水瀬(みなせ)由枝子は先月20歳になったばかりの、春那 所以子としての一面を持つ大学生である。


《人生挫折を繰り返す落ちこぼれ大学生:サエコが、見た目だけでは好青年だけどフタを開けたら無職無一文のクズ男:マヒロと出会って、世の中の不条理を話し合い、お互いの空っぽな人生を埋めていく》


由枝子が趣味で書いた物語はそんなに安い言葉で収められるものでは無い。人生挫折を繰り返すサエコのモデルは確かに由枝子そのものであり、見た目だけ好青年のクズ男マヒロのモデルは俺​──(ゆずりは)真秀である。

由枝子が『空虚』を、というか物語を書き始めたきっかけは俺​との出会い。それは事実だ。

しかしながら、春那 所以子という名前が世間に渡ったことを、由枝子は「不名誉」だという。ただ運が良かっただけだと言う。コンテストの審査員が春那 所以子を好いてくれただけだと言う。貰った選評は、悪いところがひとつも書いていなかったらしい。

不名誉と言うには、あまりに贅沢で、我儘だ。




「私が、こんなにも真秀を好きだってことを、たくさんの人に教えてみたくなっただけだったんだ」


由枝子は感性のキャパが広いと思う。何故なら、俺のことが好きだという事実を15万字使って述べるような人だからだ。そしてそれが、100%の共感を得た。


物語の中で、サエコとマヒロの出会いは現実的ではなかったはずなのに、だ。

数々の粗相により会社をクビになったマヒロは帰り道でひったくりに遭い、財布も携帯も当たり前に無くして無一文になり、途方に暮れていたところを挫折だらけの大学生、サエコに拾ってもらう。ふたりは共に一夜を明かし、距離を縮め、時間を共有するうちにお互いがお互いにとって必要な存在であることを確かめていく。


裏側の話をすると、それらは全て俺と由枝子の出会いを分かりやくすく明確に例えるために、由枝子がドラマチックにしただけである。マヒロが物語の中で放つ言葉は由枝子の理想だ。具体例を出すのも難しいほど、俺が実際に言えた試しはない。むしろ、俺が励ましの言葉を由枝子に言えていたら、多分由枝子は小説なんか書いていなかった。




​──遡ること1年前。まだまだ記憶に新しい、君と俺が出会った日のこと。俺が無職無一文になったあの日は、土砂降りの雨が降っていた。