秋の野花が燐砂宮(りんさきゅう)を飾る頃、紫貴(しき)帝は五人目の皇子をさずかり、まもなく一人の側室が後宮を去ることが決まった。
 紫丹の国の後宮には、政争よりも過酷な争いが起きた時代もある。それに比べれば、紫貴帝の後宮は箱庭のように整然としていた。
 皇太子は離縁した正妃が産んだ最初の子とし、以後正妃は持たず、側室の背後にある一族に不平等にならないように淡々と側室との間に御子をもうけた。ただし御子をさずかった側室は、季節が一つ巡る間に後宮を去らなければならないとされていた。
 争いはよくないからね、これで許しておくれ。その涼しげな風貌で、臣下や、寵を乞う側室たちを諭すさまは、理想の君主である反面、どこか不気味でもあった。
 佳南(かなん)は赤く染まった紅葉が枝を離れるのを見上げていて、紫貴帝が隣に立ったことに驚いてしまった。
「その木が好きなのかな」
 慌てて膝をついたら、その前に屈んで問いかけられる。
 佳南は五歳のときから女官の母と共に後宮で暮らしているが、もう十六歳になろうという年だ。けれど紫貴帝は少年の頃から、易しい言葉と皇帝らしくない気安い問いかけを佳南に向ける。
 佳南はどう答えるか迷って、一言目は思ったとおりのことを告げた。
「怖いような思いがしていました」
「どうして?」
「ここの紅葉が一番赤いのです。赤は……綺麗ですけれど」
 最後は自分でも意図せず嘘をついた。いつか幼い日に見た赤、恐ろしいばかりのその色を、忘れたわけではなかったのに。
 紫貴帝は佳南の嘘を見抜いてしまうくらいには、佳南を幼いときから知っていた。佳南を見下ろして思案すると、怖いのかと、佳南の本音の部分だけを繰り返した。
「へ、陛下」
 ふいに紫貴帝は佳南の目を大きな手で覆って、慌てた佳南に喉で転がすようにして笑った。
「皇帝の力には限りがあってね。世界を入れ替えてあげることはできない」
 紫貴帝は手を外して、澄んだ紺色の瞳で佳南に笑う。
「でも人にできないことが、いくつかはできるんだよ」
 彼は佳南を助け起こして立つと、ちらと紅葉を見上げた。その目は紫貴帝の常のとおりに涼しげで、どうしてか佳南には少しざわついた。
 佳南は陽の傾きが気になって、紫貴帝に失礼にならないように目を泳がせた。昼に見送った荷馬車のことが胸をよぎったからだった。
 遠縁のつてを使ってみつけた下女の仕事は、最初から雇い主が乗り気でなかった。早く働き始めたいと一年も前から伝えてあったのに、何かと理由をつけて佳南を受け入れる時を遅らせていた。
 ただ今日の荷馬車を見送ってしまったのは、佳南自身のせいだった。主が不在のまま佳南がずっと暮らしてきた燐砂宮、そこで紫貴帝が一夜を過ごすと告げたから。
 寵を争って多くの悲劇が起きた後宮、佳南だってその恐ろしさを見たことがあるのに、皇帝の訪れを喜んでしまう心が残っていたなんて。佳南は自分自身がわからなかった。
「ここが好きだと知っているよ」
 去り際に何気なく紫貴帝が告げた言葉に、胸がぎゅっと絞られたことは誰にも言えなかった。
 宮に入って残りの準備を淡々と続けた。本当は今日去るつもりだったから、皇帝の寝所はすでに整えてある。皇帝は別の宮の側室を召すとは告げなかったから、側室をお迎えする準備は要らない。皇帝の夕餉は別室で別の侍女たちが給仕していて、佳南にはもうすべきことがほとんどなかった。
 けれど皇帝が燐砂宮でお休みになる前に、ここに仕える佳南が床に入るわけにもいかない。自室で一つの灯りをともし、窓の外を見ていた。
 ひらりと紅葉が窓に当たり、血のしずくのように落ちていったとき……佳南は思わず部屋を出ていた。
 佳南が幼い日、目の前で人が亡くなったのを見た。平穏と称される紫貴帝の後宮で、唯一の刀傷沙汰だった。
 燐砂宮には主となる妃がいない。けれど他のどの宮より美しく庭が整えられ、調度も正妃の部屋に勝るほど豪奢だった。佳南が子どもの頃、それに嫉妬した側室が燐砂宮に立ち入り、その寝所で横になる戯れをしたほどだった。
 瞬間的な痛みが佳南の体を走った気がした。佳南は庭に出て泉のほとりでうずくまると、体を抱きしめて震えを収めようとした。
 主がいないのだからいいじゃないの。笑いながら言った側室の前で、少年だったあのひとは無言で剣を抜いた。
 赤く……とても赤い手で、あのひとは佳南を抱き上げて言った。
「ここはずっと君だけのものだ」
 後ろから抱きしめられて、あのときと同じ言葉が甘く耳朶を打つ。
 振り向いた佳南の頬を両手で包んで、紫貴帝は言う。
「「燐砂宮には主がいない」……確かにそうだった。皇帝は一人の人間をどこにもいないことにできる。たとえば誰より愛おしくて、誰にも見せたくない人をね」
 紫貴帝はとっさに逃れようとした佳南を腕に封じ込めて、安心させるように背を撫でた。
「正常で、清浄な佳南。いつまででもここで、愛しい子らに囲まれて過ごそう。最後の時まで離さないから」
 紫貴帝が虚空をかいた佳南の手をとらえて口づけた、それが始まり。
 引きずり込まれたのは寝所か、長き常夜の世界か。佳南にはまだ何も見えないまま、愛が人を消してしまえる異界に飲み込まれた。