朝食を食べて身支度をし、八時にホテルを出発した。
 地下鉄に乗ってウォータールー駅、そこからソールズベリーに向かう。
 ソールズベリーも綺麗な街並みで壮麗な大聖堂があるらしい。だけど、まずはストーンヘンジへ行きたかった。
 デニスに投げかけた問いが、今も耳に蘇る。
――どこへ行くの、デニス?
 ガタガタとバスに揺られている間、私はうたたねをしていた。
 夢の中で繰り返し、デニスにたずねた。現実でも、私はその問いをデニスに幾度も投げかけた。
 デニスは日本の滞在中、少しでも時間があると旅行をしていた。私も行ったことがないような日本の奥地へ向かっては帰って来た。
 どうしてそれほど旅行が好きだったのか、彼は駆られるように旅行に出かけて行った。
 デニスは私がたずねるたびに答えてくれた。どこへ、何をしに行くか、でも私はどの答えもしっくりこなかった。
 彼は旅行に何を見ていたのか、私がその答えを見出す前に、バスは目的地に到着した。
 バスから降りると、そこは電気も何もないぽつんとした場所だった。地平線まで見えそうな、平坦な原っぱが広がっていた。
 その中で、視界の隅っこに石の塊がちらりと映る。
 私は思わず浮かんだ苦笑とともにぽつりとつぶやいた。
「……デニスらしいや」
 本当に無駄な装飾とかそういうものが嫌いなんだなと、今更ながらに思った。
 天気は薄曇りで、雨までは降らなさそうだ。
 バス停から石の群れの方へ、私はぼちぼちと向かう。
 ストーンヘンジは古代の建築物だから、今のイングランドの人たちでもあまりよくわかっていないものらしい。
 でもイングランドの人たちの話題にはたびたび上がっていたようで、デニスもよく口にしていた。
――ストーンヘンジを登場させる有名な文学として、トーマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』がある。
 デニスは私にそう教えてくれて、その本を貸してくれたのだけど、私はそれを最後まで読むことができずに途中で返した。
 あまりに救いのない話だったからだ。強姦、貧困、離れて行く恋人、主人公のテスの行き先には、いつも暗い運命しかなかった。
 私はうんざりするような気持ちでデニスにぼやいた。
――これを好きになる人っているのかな。
 そう思って首を傾げたくらい、絶望的なストーリー展開だった。
 デニスももちろんそれはわかっていたようで、私に無理に読むようにとは言わなかった。
――どうしてもというなら、ラストシーンだけ読んでごらん。
――嫌だよ。これ、どう考えてもハッピーエンドじゃないもん。
 当時高校生、まだまだ夢見るお年頃だった私には、とても読めるものじゃなかった。
 ごねた私に、デニスはそれ以上言葉を重ねなかった。
――そうだね。なら仕方ない。
 デニスは一度は私にその本を勧めたものの、他の本と比べてもあっさりと勧めるのをあきらめた。
 彼はほとんど表情を動かさないから、私は彼が私に呆れたのかもしれないとがっかりした。
 私はもどかしいような気持ちでデニスに言った。
――私が子どもだからかな。良さが全然わからないんだ。
 デニスは目を伏せて、私の言葉に賛成も反対もしなかった。
――どうだろう。わかる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
 元からデニスは下手に慰めも励ましもしない人だった。傍目には冷淡と言ってもいいほどの態度で、丁寧だけど人と距離を置いた話し方をしたから、私には余計にその心がはかれなかった。
 彼の心は今もわからないけれど、デニスが亡くなった後に本自体は最後まで読んで、結末を知った。
 思っていた通り、結末はバッドエンドだった。主人公のテスは殺人を犯し、逃避行の末に処刑される。
 でも不思議なことに、高校生の時に読んでいた時ほどの絶望感はなかった。
 泥沼の末の終わりなのに、そこには僅かに光が差し込んでいるような気がした。
 バス停から入場場所まではけっこうな距離があった。でも先を急いでいるわけではないから、人もまばらな草原をゆっくりと歩いた。
 音声ガイド引渡し所まで来ると、受付のおじいさんが私に声をかける。
『何語のガイドが要る?』
『日本語で』
 私が英語で頼むと、おじいさんは日本語で私に言った。
「いってらっしゃい」
 ガイドの機械を受け取りながら、私も日本語でお礼を言う。
「ありがとう」
 少しトンネルの中をくぐるような作りになっていて、一旦下って上ると、視界が開けた。
 立ち止まって名前を辿るように言う。
「あれがストーンヘンジ」
 二十メートルほど先に、その石群が姿を現していた。
 デニスの貸してくれた本では、主人公テスは最後に、ストーンヘンジに辿り着く。
 読んだ時はなぜラストシーンをもっとロマンチックな場所にしないのだろうと思ったけど、今は少し気持ちがわかる。
 周囲に家々の姿はない。人も、生き物の気配すらしない。
 人生の先に何の希望も見出せなかったテスには、もうここに来るしかなかったのだろう。
 生きている世界には、テスの居場所はどこにもなかった。
 そんな悲しいことってないと思う。少しうつむいて、そんな時代の過酷さを思った。
 でもここが出来たのは、テスの生きていた時代よりずっと遥か昔だった。
 ふいに耳元でデニスの言葉が蘇る。
――そこは原初の世界。
 デニスはそれを喜ぶのではなく、ただ事実として私に話した。
――僕の祖先がこの国に住む前から、あの遺跡は同じ場所にあったんだ。
 私はストーンヘンジの周りの小道を歩きながら、石群をみつめる。
 デニスがストーンヘンジのことに重ねて話していたことがある。
――あそこに行くと、自分のルーツについて考えさせられる。
――ルーツ?
――起源。始まり。僕は自分がイングランド人だと思っているけれど。
 彼は常々イギリス人という言葉を否定していた。自分はイングランド人であって、ウェールズ人やアイルランド人とはルーツが違うのだと。
 彼の信条は強かったけど、彼はそれで他人を攻撃したりはしなかった。自分が住んでいた土地のことを、温かい言葉で話していた。
――僕の祖先はおそらく元々グレートブリテン島には住んでいなかったはずなんだ。彼らは大陸から渡って来た。
――そうなんだ。あのね、日本人の祖先も元は今の列島に住んでなかったらしいよ。
 私もデニスにそう話したら、デニスは私に問いを投げかけた。
――そう聞いている。でも君らはこの列島こそ故郷だと思っているだろう?
――うん。そう思うよ。
 私が頷くと、デニスも頷いた。
――僕もグレートブリテン島が故郷だと思ってる。そう考えると、ルーツというのは、実は血筋より地縁の方に強く結び付いているのではないかという気がする。
 デニスの話すことは難しかったけど、私はじっとデニスをみつめながら聞いていた。
――だからなぜか懐かしいんだ、あの石群は。僕の祖先が作ったものでも、彼らが住んでいた頃にできたものでもないはずなのに。
 デニスの言葉を思い返して、自分はどうだろうと考える。
 自分のルーツについて、普段意識することはない。ただ父と母がいて、その前に祖父と祖母がいる。それくらいしか日常には登場しなくて、また私自身考えもしない。
 だけどもっとずっと昔に存在していた人や物を歴史で知っていて、それを見ると懐かしいと感じることがある。デニスの言いたかったことも、そういうことなのだろう。
 テスもイングランド人だった。だから彼女もここに来て懐かしかったのだろうかと、ぼんやり考える。
 現在の私は音声ガイドを耳に当てながら、石群の周りをぐるりと回る。
 音声ガイドは、石群がどうやって作られたのか、何で出来ているのか、いつ頃のものなのか、そういったことを順番に細かく教えてくれる。知っていることもあったし、知らなかったこともあった。
 私が一番気になったのは、どうして作られたのかという部分だった。
 それについては色々な説があるとガイドは言っていた。太陽崇拝の場所だとか、礼拝所だとか、天文台だとか、一致はしていないそうだ。
 デニスがぽつりと言っていた。
――ただ、天文に関する場所ではあったようだね。
 夏至の日には、ぴったり石の並べられた方角から太陽が昇るらしい。
 その光景を見てみたいと思いながら、私も一人つぶやく。
「季節時計みたいなものだったのかな」
 何百年、何千年経っても、正確な時を刻むことができるように作ったのだろうか。
 たぶんこれだけ大掛かりなものだから、権力の誇示のためというのが大きな理由なのだろうけど、全く無意味なものを建てるとも思えない。
 風に吹かれて、石群は何もないところに立っている。
 昔は周りに何かあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。
 ただ何千年も昔から、石群はここに存在しているという事実だけが残っている。
 ふと、デニスは自分のルーツを探していたのかなと思った。
 いろんな本や美術を見て、土地を巡って、自分の中のものと同じものをみつけようとしていたんじゃないだろうか。
 君はみつけられたのかな。今は問いかけてみたくても、答えは返ってこない。
 切ないような思いが押し寄せてうつむいた。風はまだ吹いていた。
 二時間くらいかけて周りを一周して、私は入り口に戻った。
 ちょうど昼だったので軽食を食べて、私は駐車場までやってくる。
「バスは……まあいいか」
 バスの時間を見ようとしたけれど、私は首を横に振った。
 ソールズベリまで歩いて行こう。道なりに進んで行けば、辿りつけないことはないだろう。
 そう思って、私は古代の石群の遺跡を後にした。









 道なりに歩きながら、私は考えていた。
 明日で旅行が終わる。明後日にはイングランドを去らなければいけない。
 楽しい思いも怖い思いもした。綺麗な場所もそうでない場所も目にした。
 だけどまだみつけられない。デニスがどこにいるのかわからない。
 あるときデニスが私に話してくれたことがある。
――よく自転車で旅をしたよ。
 デニスはイングランドにいた頃も、たびたび旅行に出かけたらしい。
 普段と違って、弾んだ声音がまた私の耳を打つ。
――田舎の村を回るのが好きだった。家族と毎日電話で連絡を取るっていう約束がついてきたけど、イングランド中を回った。
 たぶん彼は心から旅行が好きだったのだろう。旅の話をする時、デニスは子どもみたいに表情を和らげていた。
 どこか遠いところを見ながら、デニスはいつも話していた。
――ある時、ランズ・エンド岬まで行こうとした時があったんだけど。体調を崩してしまって、結局辿りつけなかった。
 あの日、デニスは目を伏せて、夢見るように言葉を切った。
――迎えに来てくれたリチャードは、もう行くなって叱ったけど……できるなら、また行ってみたい。
 そのとき、私はふと立ち止まって風にたずねた。
「デニス?」
 一瞬、デニスの気配を感じたからだった。
 匂いも体温もない。けれど彼の静かな眼差しを受けたような気がした。
「……デニス」
 道から離れて、原っぱを駆けだす。
 始めは早足くらい、でもだんだんと心は急いていく。
 どこにいるの、デニス。
 私には信じられないんだ。君はまだどこかで生きているような気がしてならないんだ。
 君が亡くなったと聞いて三年間、あっという間に過ぎてしまった。
 でも私の中では、君は少しも変わりがない。少しも、君に近付けた気がしない。
 このままじゃ一生近付けない気がして、怖くなったんだ。
 だからみつけたくて、手を伸ばしたくて、ここに来たんだ。
 いつか、私は君にたずねた。
――今度はどこに行くの、デニス。
 いつもデニスは一人で旅行に行った。だからその時だって、私がたずねただけで終わるはずだった。
 だけどその時、たった一度だけ君は私に振り向いて言ったことがある。
――智子、君も一緒に行くか?
 それがどこだったか、何度考えても思い出せない。
 うれしかったんだよ、一緒にと言ってくれて。本当はその言葉を、ずっと待っていたんだよ。
 でも私は行かなかった。今となってはそれを、深く深く後悔してる。
「待って……」
 道なき原野を、私は息を切らして走る。
 行きたかったんだ、デニス。
 あの時私に僅かな勇気さえあれば、ついていったんだ。
 ……たとえ世界の果てでも、君と一緒なら行ってみたかった。
「待って、デニス!」
 魂から叫ぶように言った途端、つまずいて転んだ。
 体は痛くなかった。土は案外柔らかくて、私を傷つけることはなかった。
「つ」
 だけど頬に触れたちくりとしたものを、私は倒れたまま見る。
 それは短い草だった。よく見ると、辺り一面に生えている。牧草というにはしおれていて、何かの役に立つとも思えない。
 灰色に近いような緑だった。その色が、ふいにデニスの瞳の色と重なる。
 時間は流れたのか、巻き戻ったのか、私の中にデニスの言葉を呼び戻す。
――僕は帰るよ、智子。
 唐突に別れ際のデニスの言葉を思い出す。
 デニスは病気のことなど何も言わずに、けれど静かな目で私を見て告げた。
――イングランドの地に。僕はいつでもそこにいる。
 デニスは少し屈んで、私の頬に顔を近づけた。
 けれど彼は触れる寸前で止まって顔を離すと、右手を差し出した。
 きょとんとしている私から右手をそっとすくいあげて、デニスは握手した。
 その手をいつまでも握りしめながら、デニスは私に言った。
――春になったらイングランドへおいでよ。
 デニスはさよならとも、またねとも言わなかった。
 きっとそれが、彼にできる精一杯の最後の別れの言葉だった。私はそれに気づかず、また会えると思って笑った。
――うん。行くよ。絶対行く。
 二月という真冬に草が生えているということは、ここは一年中緑に覆われているのだろう。
 今、緑の大地に横たわってようやく笑えた。
「ここに……いたんだ」
 デニスは確かにこの地に還ったんだ。
 イングランドに着いた時からずっと、私はデニスと一緒にいたんだ。
 その実感に包まれるのは本当にうれしくて、目から雫があふれてきた。
 会いたかったよ、デニス。
 つっと頬を涙が流れていく。ぽろぽろとどんどん零れていく。
 思い出より確かなものをようやく掴んだ。ここを離れたくない。
 誰も来ない原野の中で、君の生きている証を見ていたい。誰にも迷惑をかけない場所でうずくまって、永遠の緑をみつめ続けたかった。
 仰向けに寝転んで、私は薄曇りの空を見上げる。
 覆いかぶさるような雲は、手を伸ばせばつかめそうだった。
 それは弱い心からあふれる誘惑だとわかっていたけど、私にはとても優しかった。
 その優しさに包まれるようにして目を閉じようとする。
 でもそのとき、遥か遠くに雲の切れ間ができたかと思うと、そこから光が差し込んできた。
 甘く優しい思い出の中に、全然違う真剣な声が響く。
――ともこさん。げんきですか。
 三年前の春、デニスの訃報を聞いて呆然としていた私に、リチャードはメールを送って来た。
 彼は電話ではまだ英語しか話せなかった。だからそれは彼の声そのものではなかったのに、私は今耳元で聞いているようにはっきりと思い出せる。
 記憶の中でリチャードは私に話しかける。
――がっこうにいっていますか。かぜをひいた、ききました。しんぱいです。
 それはまだ日本語を勉強し始めで漢字が使えなくて、辞書を引きながら書いたのがわかるような文章だった。
 リチャードは繰り返しメールをくれた。
 私ははじめ、どうやって返信すればいいかわからなかった。でもリチャードは構わず私を励まして、あるとき私は拙い英語で返信した。
――いまはかなしくて、げんきになりたくないです。
 私が拙い英語で返信すると、リチャードはやはり拙い日本語で送り返してきた。
――どんな気持ちも、持っていていいものです。でも、デニスについて行ってはいけません。
 リチャードは時には厳しい口調で、弱気になる私を叱った。
――デニスと、ともこさんは、べつの人です。デニスも、ともこさんに、ついてきてほしい、思っていません。
 ここに旅行に来ることを連絡した一番新しいメールでも、リチャードはおどけながら書いてきた。
――デニスのこと考えるのもいいけど、僕のこと忘れないでよ。僕泣いちゃうよ。
 ……それは嫌だな、と思う。
 このイングランドで私一人消えてしまっても、気づく人はきっとほとんどいない。
 でもリチャードは気づく。明後日の朝にホテルへ迎えに行くと、昨日言っていたのだから。
 雲の切れ間が広がっていく。緑のじゅうたんに光の溜まりが出来る。
 光に照らされた気持ちが、リチャードといるときの気持ちに似ていた。
 デニスとリチャードは顔立ちが似ている。けれどデニスは落ち着いた灰緑に近い瞳をしていて、リチャードは子どものような澄んだ緑の瞳をしている。目の色一つを取ってみても全然違う。
 今目の前に広がる光景は、気づけば太陽の光で輝かしい緑に変わっていた。
 その緑を縫うように、遠くに道が一本走っている。
 いつかデニスが苦笑しながら私に言った。
――リチャードは怒ると怖いんだよ。
 私は体を起こして、ゆっくりと立ち上がる。
 たぶん、そうなんだろうね。デニス。なんとなく想像できるよ。
 リチャードは心配性だし、面倒見がいいから、悪いことをすると本気で叱ってくるだろうね。
 怒られたくないなぁ、と難しい顔をする。
 命のない世界はたぶん甘い夢に満ち溢れているのだろうけど、私はまだあの光が照らし出す色彩をみていたいと思う。
 深呼吸をして、一歩前に踏み出した。
 たぶんイングランドで一番私を待っていてくれる人のところに、私は歩き始めた。






 夜八時頃にホテルの前まで戻って来た時、ロビーのソファーにかけている人をみつけた。
 私は立ち竦んでその人を後ろから見る。もちろんここはイングランドだから金髪の人もたくさんいるけど、その人は不思議と惹きつけられるような背中をしていた。
 上質なグレーのスーツに身を包んだ、足の長い人だった。ネクタイが少し歪んでいるけど、私はここまでスーツが似合う人を見たことがなかった。
 ダークブロンドの髪が微かに首の後ろにかかって、いい耳の形をしているのが見えた。
 その人はホテルの玄関の方を見ながら時折靴のつま先で床を叩いていた。裏口から入って来た私は後ろ姿では一瞬誰かわからなかったけど、そっと声をかける。
「……リチャード?」
 私の呼びかけに、彼は反射的というように立ち上がって振り向いた。
 前から見ればリチャードだとすぐにわかるのだけど、彼のまとう緊張感が彼を違う人に見せていた。
 リチャードは強張った顔で私を上から下まで見て、ちょっと乾いた唇でつぶやいた。
「あ、ああ。智子さん」
「こんなところでどうしたの?」
 スーツ姿は、仕事帰りといった感じだ。でもその緊張感は仕事とは違うようで、私はいつものように彼が笑ってくれるのを待つ。
 リチャードはぎこちなく咳払いをして、ようやくその表情をくるりと動かした。
 困ったような笑顔で、リチャードは私に言う。
「ひどいー。智子さん、なかなか帰って来ないんだもん。ちょっと待っちゃった」
 表情はおどけているけど、私はリチャードの言葉がじんと響いた。
 彼はちょっとと言ったけど、たぶん彼はもっとずっと待っていてくれた。そうわかってしまったから。
 彼はふと私の服についた土に気づいて、心配そうに首を傾げる。
「どうしたの? 転んだ?」
「寝転んでた。別に怪我はしてないよ」
「本当? 怪我、ほんとにしてない?」
 リチャードはしきりに気にしていて、私が土を払ってみせてもそわそわと私をみつめるのをやめない。
「大丈夫。ほんとだよ」
 私が自信を持って断言すると、リチャードはようやく心配を収めてくれたようだった。
「ならいいけど……あ」
 リチャードはふいにくすっと笑って、何かに気づいたように声を上げた。
「ついてる」
 リチャードは手を伸ばして、私の鼻の頭を拭った。
「ぶひぶひ」
「何をする」
 ついでに鼻の頭を押して遊ぶので、私はむっとする。
 人が心配かけまいと一生懸命なのに、すぐ悪戯をするんだから。でもそういういつも通りのリチャードに安心して、私も苦笑を返した。
 リチャードはうなずいて言う。
「おかえり」
 ふいに優しく声をかけて、リチャードは私を正面から見て言う。
「君をイングランドに招いたのはデニスだけど、君を日本に帰すのは僕の役目だと思ってるから」
「……リチャード」
「よく言うでしょ? 家に帰るまでが遠足ですって」
 首を傾けて笑ってから、リチャードは胸を張る。
「僕も今日はお仕事がんばりました。褒めて」
「はいはい。えらいえらい」
 私が遠い目をして宥めると、リチャードは意外と真面目に言った。
「だから明日は、君にめいっぱい楽しい思いをしてもらおっかな」
「え?」
 実はストーンヘンジに行ったら目的の大半は済んだから、明日の計画を私はまるで立てていなかった。
 リチャードは自信ありげにうなずくと、手早く私に明日のことを説明する。
「任せておいて。じゃあ朝七時半くらいに部屋へ迎えに行くからね。朝ごはんは食べなくていいよ。今日はゆっくりおやすみ」
 ぽんと私の頭を叩いて、リチャードは去っていった。
 めいっぱい楽しい思い。どういうものだろうと思いながら、疲れた体をひきずって部屋に戻る。
 私は部屋に入ると、ベッドに沈むようにして足を伸ばす。
 結局ストーンヘンジからソールズベリまで歩いて四時間くらいかかった。それからはバスに乗ったものの、足は棒のようで眠気が周りを取り巻く。
 けど眠る前に、ちらと気づいたことがあった。
「あれ……直ってる」
 いつの間にか、最初の日には壊れていたベッドライトが点灯していた。
 その夜は何も考えず、ただ眠った。