イングランド滞在四日目となると、少しだけ慣れてきた。
 朝ごはんは最初の日とほとんど同じで、トースト一切れとバター、シリアル、それにオレンジジュースとコーヒー一杯だ。ごちそうらしいごちそうはないコンチネンタルだけど、そんなにお腹も空かないので十分だった。
 朝食を終えたら、部屋に戻って天気予報を見ながら荷造りをする。今日も曇りだとわかったら、歯を磨いてちょっとだけメイクする。
 そして忘れ物がないか確認して、部屋を出発する。
 グランドフロアーに下りてきて、コンシェルジュのお兄さんにキーを預ける。
『ありがとう』
『どうも』
 お兄さんの見送りの言葉にお礼を返して、地下鉄へ向かう。
 繰り返せば人間は慣れるんだ。そういうちょっとした自信が、その日の私に罰を与えたような気がする。
 地下鉄に向かう途中で、私は唐突にその事件に出会った。
「コンニチハ」
「はい?」
 片言の日本語で、初老の男性に声をかけられた。
 彼は私の見た目だけで、私に日本を結び付けて話を始める。
『君は日本から来たのかな?』
『え、はい』
『いいところだね。私の息子も今日本に行っているんだ』
 道の脇で、おじいさんはにこやかに話し続ける。
『君は中学生?』
『いえ、大学生です』
 そこはちゃんと否定しておくと、おじいさんは頷く。
 日本にも話すのが大好きなご老人はいるからと、私は適当に話を合わせていた。
 おじいさんはふいにノートを取り出して私に見せる。
『私は日本にもたくさん友人がいるんだよ。ほら』
 おじいさんがぺらぺらとノートをめくると、そこには日本語でいくつか名前が書かれていた。
 そこで温厚そうな目に、何か鋭い光が宿る。
『君とも友達になりたいな』
『えと……』
『名前と住所を書いてくれないかい?』
 その辺りで、私は背筋を冷たい汗が流れるのを感じた。
 これは良くないもの。そう思って、瞬間的に話を切り上げる。
『……すみません!』
 私は踵を返して早足で歩きだす。
 地下鉄の駅まで辿りついて、おじいさんがついてきていないことを確認して大きく息をつく。
 何か決定的なことがあったわけじゃない。でももう少しそこに留まっていたら、良くない事態に呑まれていた確信がある。
「こわかった……」
 まだ動悸が収まらなかった。胸を押さえて自分を落ち着かせようと息を繰り返す。
 温厚そうで、優しそうな人だった。だから却って、不審な言葉が胸を引っ掻いた。
 私はどうにか息を吸って、急いで地下鉄の構内に入っていった。
 地下鉄に乗ってピカデリーサーカス駅で降りる。改札を通ると、リチャードは既に来ていた。
「智子さ……」
 リチャードは私にかけようとして、じっとみつめながら心配そうに首を傾ける。
「どうかした?」
「どうって?」
 リチャードは少し考えて私をもう一度見つめ直すと、気づいたらしいことを口にする。
「顔が強張ってるよ。何かあったでしょ?」
「……うん」
 私は迷いながらも、地下鉄につくまでの出来事を話し始めた。
 怖いことを言われたわけではないけど、不審だったこと。鋭い目の光に良くないものを感じて、それ以上立ち止まっていることができなかったことを順々に説明する。
 リチャードは私が話し終えた後、うなずいて言った。 
「逃げて正解。君の直感通り、それ以上そこにいちゃいけなかった」
 リチャードは腕組みをしながら首を横に振る。
「親しげに話しかけてくる人は信用しない方がいい。決定的な言葉を聞いたときには、気が付けば犯罪に巻き込まれてることもある」
「そうなの?」
 私が怖くなって聞き返すと、リチャードは真剣な顔で繰り返す。
「そういうときは立ち止まっちゃ駄目。無視しなさい」
「ただ話し好きなのかもしれないよ」
「いい人の可能性は切り捨てておかないと、いざというときに自分を守れない」
 リチャードはいつもの気安い調子を引っ込めて、ぴしゃりとはねのけるように言う。
「いい? ロンドンはね、都会なの。観光地とは違うんだから、サービスで人に声をかけたりはしない。変ににこにこしながら近寄ってくる人は悪意のある人だと思いなさい」
 そういうものなのかなとしょんぼりした思いで頷いていると、リチャードはふいに口調を和らげた。
「僕の言うことは全部が真実じゃない。でも僕は、君に無事であってほしいからさ」
 リチャードはぽんぽんと私の頭を叩く。
「君が悪いわけじゃないんだから、気にしないの。少なくともこの国で、僕とデニスは君の友達で味方だよ」
 頷く私の前で、リチャードはちょっとだけ笑う。
「今日はホテルまで送っていくから。気持ちを楽にして、ロンドンを楽しんでいってよ」
 リチャードにずいぶん気を遣わせて、いつまでも落ち込んでいてもいけないと思う。
 私だって大学生だし、せっかくリチャードが案内してくれるというのだから気持ちを切り替えて楽しまないともったいない。
 リチャードは腰に手を当てて私に切り出す。
「さて、今日は一日ロンドン観光をするんだよね?」
「うん。一日乗り降り自由バスはインターネットで予約したんだ」
 私がバックパックからチケットを取り出すと、リチャードはうなずく。
「オッケイ。じゃあチケットの交換所に行こう。ここからだとトラファルガー広場が近いかな」
 リチャードと並んで、私は歩いて観光バスの発券所を探した。
 私はまっすぐたどり着けない道をもどかしく思いながらリチャードにたずねる。
「やっぱり工事が多い。どうしてだろう?」
 今日もあちこちの道路で工事をしているからだと思う。私の素朴な疑問に、リチャードはああ、と軽く答える。
「君もそう思う? ごめん、来年オリンピックが迫ってるからねぇ」
「あ、そっか。ロンドンオリンピックが来るんだったね」
 思い返せばこの国はビッグイベントを控えているから当然なのだった。私がようやく納得がいってうなずくと、リチャードはけらけらと上機嫌に言う。
「そーそ。宿題って大体時間が足りなくなるんだよねー。今大忙しで準備してるの」
 国を挙げての大工事中を夏休みの宿題と一緒にしてはどうかと思いつつ、実際はどこもそういうもののような気もする。私はがんばっている工事のおじさんたちを心の中で応援しながら道を歩いた。
 例によって歩行者で集団になりながら道を渡って、リチャードは先を示す。
「バスの発券所、あれだよ」
 発券所は私が見ただけではわからなかった。インフォメーションとだけ書いてあって、ぱっと見には観光案内所だった。
 ドアをくぐって中に入ると、受付のおばちゃんがあいさつをしてきた。
『いらっしゃい』
『これ、お願いします』
 私がバックパックから出してバウチャーを見せると、白い髪のおばちゃんは気安く頷く。
 ちらっと見てそのままひょいとバウチャーをカウンターの下に仕舞いそうになるので、私は慌てて声を上げた。
『あっ。待ってください』
『これはこっちが預かるのよ。大丈夫。今本物の券の方をあげるから』
 おばちゃんはあまりこの辺りの手順を知らない私をなだめて、横のレジのような機械をパチパチと打つ。
 時間にして数分、おばちゃんは私に声を返した。
『はい。これが乗車券よ』
 そう言って差し出されたのは一枚のぺらりとしたレシートで、私はどうも乗車券のイメージと違うと首を傾げる。
 そんな私の不安が顔に出ていたのか、おばちゃんは頬杖をつきながら言ってくる。
『バス停はわかる?』
『え、えと』
『いい? こっちから見てごらんなさい』
 おばちゃんは手招きして私をカウンターの端に連れて行くと、そこから窓の外を指さす。
 見た感じきつそうだったおばちゃんは、案外丁寧に私に説明してくれた。
『道の向こう側に、私と同じ赤いジャケットを着ている人が立ってるでしょ? あそこよ』
『あ、ありがとうございます』
 思わず頭を下げると、おばちゃんはにっこり笑って言った。
『楽しんでいってね』
 親切な人はいっぱいいるのに、それはビジネスだからなのかな。私は今朝方のことをちらっと思って、首を横に振って忘れようとした。
 その後リチャードもバスの乗車券を買って、おばちゃんの教えてくれたバス停に向かう。
 そこには既に五人ほどがバスを待っていた。人種も国籍もバラバラな、海外旅行客らしい人たちばかりだ。
 私は表示板を確かめてバスの予定を見る。
「ええと……黄色のバスが着くのは十分くらい後みたい」
 私たちもそこでバスを待っていると、リチャードが左の方を指さす。
「トラファルガー広場があそこで、昨日行ったナショナルギャラリーがあれね」
 知らない土地だから当然すぐに位置関係がわからなくなるので、リチャードが教えてくれるとちょっと安心した。
 私はぐいとネルソン記念碑を見上げて何度目かのため息をつく。そこにどーんとそびえたつ柱があって、これだけは昨日の観光でもわかりやすい目印だった。
 私は柱を見ながらリチャードにたずねる。
「何度見てもおっきい柱だね。どれだけあるの?」
「柱が50メートルくらいで、上に立ってるネルソン提督が5.5メートルだっけ」
 しかもその柱の上には石像があって、まさに英雄という感じでネルソン提督が天空から見下ろしている。
 私が文句をつけても仕方ないと思いながら、ちょっとかわいそうだと思って言ってしまう。
「ちょっとはネルソン提督の気持ちにもなってみた方がいいよ。君らがネルソン提督をプッシュするのはいいけど、ちょっとやりすぎだと思う」
 イングランドの人はネルソン提督が大好きだと見たままでわかるけど、そのやり方にはやりすぎ感があると思う。もし私が提督で、死後もあんな罰ゲームみたいな高いところに置かれたら泣きそうになる。
 私は遠い目をしながらリチャードに言う。
「あの高さは日本にはない発想だよ。竜馬も西郷さんも、一応手の届く高さにいる」
 リチャードはというと、不思議そうに首を傾げて私に言い返した。
「そーお? 君らだって、骨一欠片ごとにお寺建てまくってたりするじゃない」
「お釈迦様と一緒にされてもなぁ」
 つまりネルソン提督はイングランドの人にとってお釈迦様クラスの英雄なんだと、とりあえず納得することにした。
 そんなことを言い合っている内にバスが来たので、私たちは観光バスに乗り込んだ。
 バスは二階建てで、私が上を気にしたのを見てリチャードが言う。
「二階に行ってみる?」
「うん」
 私がわくわくしながら屋根がない二階に上ると、視界がほぼ180度開けた。
「わ……」
 圧倒的な迫力で佇む建物が、横と上を通り過ぎて行く。
 高い、それと寒い。急激に上昇するみたいな気持ちと、同時に冷えるような気持ちになった。
 理由は、今が昼だからだった。ロンドンに到着した時に車の中で見た街並みは、ただ綺麗だった。今もっと近いところから眺めると、そこは綺麗なだけではなかった。
 高い場所から見ると色々なものが見えてしまった。華やかな彫刻も、早足で道路を渡る人の群れも、そして隠しきれない汚れも。
 一瞬、言葉を失う。少し、そのエネルギーと一緒に見える残骸に口を閉ざしてしまう。
 とっさに何も言えなかった私に、リチャードは少し黙ってから口を開いた。
「……デニスはね、ロンドンが嫌いだった」
 リチャードが飾り気なく告げた言葉は、私も聞き覚えがあった。
 私はうなずいてリチャードに言う。
「うん。確かに聞いた。ロンドンはもはや、古き良き国ではないって」
 リチャードはたぶんデニスに聞いたその失望を口にする。
「混じってしまってるからね。変わってもいる。古いものも残ってはいるけれど、新しいものの方が凌駕している」
 リチャードが言わなかったデニスのもっと直接的な言葉を、私も思い返していた。
――正直、東京には失望した。
 あるとき、東京に旅行して帰って来たデニスは暗い顔をしていた。
 デニスは肩を落として私に言った。
――美しかった日本の古き良きものが、もう東京にはほとんどなかったよ。失くしてはいけないものを、あの街は失くしてしまった。
 そう言って、デニスはそれ以後二度と東京に行くことはなかった。
 今、ロンドンの町を見下ろして思う。
 この街は東京に比べれば古いものを大事にしている。だけどたぶん、デニスの愛するアンティークの箱のような繊細な美しさはもうない。
 でもデニスの感じた失望に共感する前に、訊いてみたい人がいた。
 私は横を振り向いてリチャードにたずねる。
「リチャードはどう思う?」
 冷たい冬の風を半身に受けながら、私は問いを投げる。
「ロンドンは好き?」
 その問いに、リチャードは私の目を見返しながら答えた。
「好きだよ」
 リチャードはためらいなく答えてみせた。私がまばたきをすると、リチャードは微笑んで言う。
「僕はこの街で生まれて、この街で育って、そして今ここで生きることを選んでるんだから」
 リチャードはつと覆いかぶさるような建物を見上げる。
「君には、僕が言葉で説明するより見てもらった方がいいな」
 綺麗なものに目を細めるのとは違う、今あるものを奥までみつめる目でリチャードは言った。
「じっとみつめて、よく考えて。それでどう思うかは君の自由だ」
 私たちを乗せたバスは船の停留所で止まった。
 リチャードはいつものように明るく笑って切り替える。
「さて、せっかくなのでテムズ川クルーズでロンドン塔まで行こう」
「うん、そうする」
 バスの無料券はクルーズ券もついてきている。私はリチャードにうなずいて、クルーズ船に乗っていくことにした。
 リチャードとクルーズ船に乗り込むと、そこはまた観光客でごった返していた。ただ、東洋人は意外と少なくて、地元の人も混ざっているように見えた。
 リチャードは悪戯っぽく付け加える。
「この辺、地元人のデートスポットでもあるんだよね」
「そんな感じだね」
 リチャードが指さしたところにも、まさにデートスポットらしきものが立っていた。
「あれが大観覧車、ロンドン・アイ」
「なんだかかわいい乗り物だね」
 川の右辺には、ロンドンを見下ろす大観覧車があった。楕円形の透明な乗り物が、ゆっくりと登っては降りてくる。
 リチャードは上機嫌で私に説明してくれる。
「まあロンドンの常で、普段は天気がよくないからロンドン全部は見えないんだけどね。夜景はきれいだよー」
「夜は雰囲気があればそれで十分だもんね」
 私が遠い目をして言うと、リチャードは私の意図を察して注釈をつける。
「でも団体で乗るので、あんまりいちゃいちゃできません」
「君ら人がいてもいちゃいちゃしてるじゃん」
 夜なんて、道のど真ん中でキスしている人を見た。イングランドの人はそんなに開けっぴろげではないと思っていたが見事に違っていた。
 私は少しぼやくように言う。
「リチャードなんて絶対常連だろうな……」
「ん? 何の常連?」
「ううん、なんでもない」
 私は首を横に振って、クルーザーの発車時刻を確かめるために腕時計を見下ろした。
 リチャードは腰に手を当てて、ちょっと声を低くしながら私をのぞきこむ。
「……智子さんは、僕を無節操なナンパ男だと思ってやしないかい?」
「なっ。そこまでは思ってないよ」
 私が慌てて顔を上げると、リチャードはむすっとした様子で私を見下ろす。
 リチャードは非難がましい声で私に追及してくる。
「ちょっとは思ってるんだ」
「うーん……」
 まったくしらばっくれるのは無理があると思って、私はそろそろと本音の欠片を口にする。
「な、ナンパくらいはしたことあるんじゃないか……な?」
 これくらいなら怒られないかなと思う辺りから言うと、存外冷たい声が返って来る。
「ありません」
 すごく不機嫌そうに言われたので、私は考え考え言う。
「いやでも、路上でキスしたり……」
「僕はやったことない」
 本当かなぁと私が首を傾げていると、リチャードは私の髪をわしゃわしゃとかきまぜた。
 リチャードはぶーたれた顔で言う。
「智子さんのばーかー」
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは」
 私の方もむっとすると、リチャードは不満げに続ける。
「僕のピュアな心に謝れー。僕はそんな男じゃないやい」
 私は上を向いてリチャードの言葉をひととおり考える。
 それもそうだと思って、ぺこっと頭を下げた。
「ごめん」
 リチャードはきょとんとしたようで、首を傾げて私に言った。
「あれ、素直」
「私が悪い。考えてみれば、私リチャードのことそんなに知ってるわけじゃないんだ」
 何せメールで三年間文通しただけで、直接会ったのは今回で二回目だ。
 私が素直に謝ったら満足したのか、リチャードはころっと機嫌を直した。
「うん。まずは知ることだよねー。どんどん近付いて。ウェルカムだよ」
 リチャードはにこにこし始める。こういうところが、この人の人のいいところだと思う。
 乗り込んでまもなくしてクルーザーが動き始める。英語で観光案内も流れ始める。
 たぶん川沿いの建物や歴史が案内されているのはわかるのだけど、残念ながら私の英語力ではあまり聞きとれない。
 しかも周りの観光客が笑っているところを見ると面白い内容みたいなのだけど、英語どころか笑いどころがわからない私にはちょっと疎外感がある。
 リチャードはそんな私の微妙な顔を見て気楽に笑った。
「気にしないでいいよ。英語のジョークやウィットがわかるようになったら、君はもうネイティブだから」
「リチャードはすごく日本語上手になったのに」
「君もなればいいじゃん。言葉は慣れたらすぐだよ」
 リチャードはぽふっと私の頭を叩いて言った。
 テムズ河はゆったりと流れていく。急流が主な日本の川とは違って幅が広い代わりに、底が見えないくらいに水量も多い。
 ついでにいろいろ流れちゃいけないものも流れているのも見える。口をつぐんだ私に、リチャードが言う。
「あんまり綺麗じゃないでしょ」
 リチャードの言葉に、私は頷いていいか迷う。
 彼は私の反応はだいたいわかっていたようで、軽く言葉を添えた。
「これでも街中を流れる川としては世界で有数の綺麗な河なんだけど。それでも生活用水で運河だからね」
 昔から大河のそばに文明が発達してきたというから、テムズ河もその一つなのだろう。
 私は少しそれを思って、リチャードに言葉を返す。
「この河のおかげで今のロンドンが作られてきたと」
 リチャードは私の言葉に満足そうにうなずいた。
「そういうこと」
 人が住む遥か前から川は流れていた。その周りに人が街を作った。人によって汚染されて、浄化されて、今でも流れている。
 タプンと船を鈍く叩く川を、私はぼんやり眺めていた。それは心躍る観光じゃなくて、考え事に浸るみたいな時間だった。
 一時間ほどのクルーズの後、私たちはロンドン塔に着いた。
 私はクルーズ船から下りて建物を見上げると、はっと気づいて言った。
「……塔じゃない」
 リチャードもうなずいて私に言う。
「誤解している人は多いけど、ここは要塞で、宮殿なんだよねぇ」
 高いタワー状の建物を想像していた私は意表をつかれた。そこは見事なお城だった。
 整然とした石作りの宮殿に堅牢な城壁、その周りに満ちる水路、そして城の外には青々とした芝生の原っぱが広がっていた。
 私はぽりぽりと頬をかいて自分の思い込みに甘える。
「漱石先生が倫敦塔って書いてたから、てっきりタワーなのかと」
「智子さん、明治時代にタワーはないよー」
 リチャードの反論はもっともで、私は考えを改めた。
 チケットを買って、意外と小さな入り口から建物の中に入る。
 城壁の上の通路に立つと、テムズ河が見下ろせた。曇りだから遠くまでは見通せないけど、悠々と流れる川がすぐ下にある。
 室内に入ると、そこはさすがお城の中らしい光景が見れた。
「あ、きれいな部屋」
 そこには中世の居室が再現されていた。天蓋つきのベッド、椅子にテーブル、華やかではないけどお洒落で、趣味のいい部屋だった。
 私は観光らしい観光の気分でうなずく。
「昔は普通に人が住んでた家だったんだね」
 リチャードはうなずき返しながら言う。
「まあ住んでるのは王族だから、普通じゃないとは思うけどね」
「それもそうか」
 私たちが外に出て城壁に上ると、兵士のレプリカが置かれていてその前で記念撮影をしているカップルがいた。
 城壁の内側を覗くと、観光客らしい人たちがみなのんびりと歩いていて、兵士の格好をしたスタッフが道案内をしていた。
 私はほっとして余計な一言を告げる。
「こうして見ると、のどかなところなんだけどな」
「ふふ」
 リチャードが含み笑いをしたので、私は嫌な予感がする。
 リチャードは声を低めて言葉を始めた。
「しかし夜になると……」
「やめて!」
 瞬間、私はさっと両耳を塞いで抗議した。
 じろりとリチャードをにらみながら怒る。
「今、怖い話しようとしたでしょ。私本当に苦手なんだからね」
「わかってる、わかってる。しないって」
 リチャードがひらひらと手を振ってなだめるので、私は恐る恐る耳から手を離す。
 その一呼吸の間に、リチャードが早口で言った。
「首を切られた王妃が、「首を返せー」って」
「わーっ」
 私は今度こそ頭を抱えて逃げ出そうとした。
 聞きたくないのに聞いてしまった。怖い話は苦手で、夜眠れなくなるのに。
 でもリチャードは私の動揺にけらけらと笑った。
「なんて、よくある話だよ」
 私の首根っこを捕まえて引きとめるリチャードに、私は睨み返す。
 きっと目をとがらせながらリチャードに言う。
「単純だからこそ怖い。実際首を切られた人がここにはいっぱいいたんだし」
 ロンドン塔が有名なゆえんは、ここが監獄で、歴史上数々の王族貴族が幽閉されてきたからだ。
 だから怖い話の宝庫で、日本にいた私にも数々の怪談が聞こえてきた。
 でも怖い話は怖くない人にはただの童話みたいなものらしく、リチャードは別にこだわらない感じで口にする。
「首無しデュラハンはアイルランドの妖精だってば。何か別の怪談がミックスしてそんな噂話が出来ちゃったけど、あちこちに似たような話がある」
 リチャードは指を立てて言う。
「君の好きな映画『スリーピーホロウ』だって、ほら、舞台はアメリカでしょ?」
「ええ、見ましたとも。ジョ○ーが出てるからね」
 私は憧れのジョ○ー・デップの姿が見たいがために、怖い映画だって震えながら最後まで鑑賞した。電気をいっぱいつけて、両親とさらにデニスまで巻き込んだ。
 わーとかぎゃーとか叫ぶ私をデニスがどんな呆れた思いで見ていたかは、想像したくない。
「僕も智子さんがわいのわいのしてるとこ見たかったな。デニス、楽しかっただろうな」
「デニスはそんな悪趣味な楽しみ方はしません」
 リチャードが楽しそうに言うので、文句をつけて言い捨てた。
 軽く頭を押さえてまた室内に入ると、そこは監獄だった。
 展示物を見逃すほど目的を忘れてはいないので、私は仕方なく展示物を目で追いながら言う。
「そうはいっても、ロンドン塔といえば監獄だよね」
 過去こんな人が収容されていましたというようなことが英語で説明されている。
 驚くのは、囚人と一緒に王様も同じ建物にいた時期もあるということだった。私は素朴に疑問に思いながら問いかける。
「監獄が一体となってる建物に住む王様って、ちょっと変な気もするけど」
 リチャードは私の言葉に、いや、と言葉を返した。
「そうでもないよ。ここに来るのは重要な囚人ばかりだから、なるべく近くに置いておきたかったんだろうね」
 確かにその発想自体は考え付かないこともない。
 日本のある観光地でも、昔のお役所の建物内に囚人を収容していた。権力者だからこそ、危険なものから目を逸らすことができなかったのかもしれない。
 首を切る側もきっとどれほど怖かっただろうな。そんなことを思って、外に出た。
 建物の外では、日差しが少し暖かくなっていた。
 衛兵さんがきびきびと行進していた。それを遠目にうかがって、私たちは宝石博物館に入る。
 そこには歴代国王と女王の戴冠式の冠が、映像とともに紹介されていた。
 実にゴージャスでぜいたくを尽くした数々の冠には、見ていて驚く。
 私はまじまじと映像を見上げながら言った。
「王様とか女王陛下の冠、どんどん豪華になってない?」
「前より地味にしたら寂しいじゃない」
「それはそうだけど、重そう」
 数百個の宝石が金の冠に埋め込まれているのだから、たぶん相当頭にずっしりくる。しかも、私たち庶民なら一粒で一生暮らせるような大きさだ。
 眩しいし綺麗だけど、見ている内に感覚が麻痺してくる。あまりに非現実的な豪華さに、イミテーションと見分けがつかなくなってくる。
 やっぱり宝石って見てるくらいでちょうどいいかも。そんな庶民的実感に落ち着いて、宝石博物館を出た。
 私たちのような一般人にとってうれしいのは、そこで待っていたお店。
「あ、お土産屋さん」
 リチャードは悪戯っぽく付け加える。
「宝石も売ってるんだよー。「どうです欲しくなってきたでしょう?」って」
「立地条件を最大限利用してきてるな」
 イングランド人のしたたかさに苦笑しながら、芝生を横切った。
 さしあたってロンドン塔に来たからには、どうしても避けて通れないところが一か所ある。
 私はリチャードの後を気が進まない足取りでついて行って、ついにそこに辿り着く。
 ごくりと息を呑む私の前で、リチャードはにやりと笑いつつ言う。
「ここが色々いわくつきのブラッディ・タワー」
「うう……」
 謎の失踪を遂げた幼い二人の王子が幽閉され、殺害された現場だとも言われている場所らしい。
 リチャードはまだ楽しそうに私を呼ぶ。
「ほら、入っておいでよ。別に今は何も残ってないよ」
 私はためらいながら、リチャードの後にこそこそと続いてその中に足を踏み入れた。
 中は確かに他の塔の中と変わりはなかった。修学旅行らしい学生たちでごったがえしていて、特に恐ろしい拷問器具が置いてあったりはしない。
 ただ、隅に三つのスイッチがあった。王子たちを殺したのは誰か、自分の思う候補に投票するというシステムのようだった。
 私はそのボタンの前で考えた。
 実際のところ、王子たちの死の真相は現在に至るまでわかっていないという。
 王家の者が消えて数百年も不明なままになっている、その事実自体がひどく怖いことだと思う。
 三人の候補に目を走らせて、私がうなったとき、リチャードが動いた。
「全部押しちゃえ」
 横から手を伸ばして、リチャードが三つのボタンを順番に押した。
 まさにおもちゃのように押してしまったので、私は呆れて目を細める。
「……今真面目なこと考えてたのに」
 リチャードはちょっとすねた様子で言い返してみせた。
「残念でしたー。智子さんが構ってくれないせいです」
 本当に子どものようなことをするんだから。私はリチャードを見上げてぷっと笑っていた。






 私たちを乗せたバスは、有名なタワーブリッジの上を走っていった。
 立派な石作りの橋は見上げると圧倒されるみたいで、バスの二階からでも首を逸らさないと見えない。
 私がため息をつきながら眺めていると、リチャードは遠くに見える橋を指さす。
「ちなみにあっちがロンドン橋だよ」
 リチャードは楽しそうに歌ってみせる。
「ローンドンばーし、落―ちた!」
「橋の上で言わんでください、頼むから」
 しかもさりげなく日本語版で歌うところが、この人のぬかりのないところだと思う。
 リチャードは悪びれずにさらりと言う。
「だって本当によく落ちたんだもん」
「はいはい」
 風で舞い上がる髪を押さえながら、私はリチャードに頷いていた。
 バスでぐるっと街を大周りして、私たちはセント・ポール大聖堂前で降りた。
 また大きなものを作ったなと思いながら大聖堂を見上げていると、ふいにリチャードが後ろから近付いてきた。
 リチャードは屈みこんで早口に言う。
「智子さん」
「な、なに?」
 耳に口を寄せるように話すから、私は少しどきっとして振り返る。
 でもそれ以上に、リチャードの言葉の内容が胸をひっかいた。
「スリがいる。早く聖堂の中に入って」
「え」
 私の心臓が跳ねる。
 聖堂の前の階段には人がいっぱい座っていた。ガイドブックで見た時は、それはよくある光景で好意的な書かれ方をしていた。
 でも確かに何人か奇妙な歩き方をしている人がいる。何かを探るように通り過ぎる人をうかがって、その後にくっついていく。
 ゆらりと徘徊する、それはまるで幽霊じみた歩みで、その目的を考え出すとひどく怖い。
 その内の一人と目が合って、私は咄嗟に目を逸らした。
 私は走るように階段を上って、聖堂の中に飛び込む。
 リチャードは心配そうに私にたずねる。
「大丈夫?」
「うん……」
 後ろにリチャードしかついてきていないことを確認して、私は今まで自分が息を止めていたことに気付く。
 上がった息で吐きだすようにつぶやく。
「スリって……現実にいたんだ」
 リチャードはうなずいて私に返した。
「うん、観光地には大体いる。イングランドは治安はそれほど悪くないけど、観光客狙いのスリや置き引きは日常茶飯事だ」
「そうだったんだ」
 それもどこかでデニスが言っていた。記憶を掘り返してデニスの言葉を思い出す。
――どうしたの、デニス?
 以前、私はハンズでデニスが辺りを見回している時に彼にたずねてみたことがあった。
 デニスはまだ周りに注意を払いながら言った。
――人が多いから、スリに注意しないと。
――スリなんていないよ。
 私はきょとんとして、不思議なことを言われたように返した。
――見たことないし、私も家族も被害に遭ったことないし。大丈夫だよ。
――そうか。
 そう頷いた時の、デニスの複雑な表情を思い出す。
 日本にもいなかったはずはない。けれど私はそれを気に留めることもなく、それでも暮らせていた。
 警戒心が足らなかった過去の自分を惜しんでいても仕方ない。私はリチャードを見上げて言った。
「どうしたらいいかな」
「人の多いところでは鞄を前に持って押さえているといいよ」
「うん、わかった」
 私は早速リュックを前に回してぎゅっと抱きしめた。
 だけど警戒するというのは慣れなくて、しかも疲れる。荷物が気になって、せっかくの大聖堂を落ち着いて見ることができなかった。
 誰かついてきていないか怖くて、人が少し触れただけでそわそわした。
 天まで届くほどの壮麗なドームは美しかったし、日本語の音声ガイドもあったのに、結局私はほとんど大聖堂を素通りしてしまった。
 人気の少ない売店までたどり着いたとき、リチャードは眉を寄せて言った。
「ごめんね。僕が脅かしたせいだね」
 私は心配をかけてしまったと、慌てて言い募る。
「リチャードが悪いわけじゃないよ。実際にあるものを私が知らなかっただけなんだ」
 リチャードは辺りを見回して、安心させるように言う。
「この辺りは大丈夫だよ。ちょっとゆっくり休憩して」
 そう言われて私はようやく少し息をついて、売店を見て回った。
 リチャードは私を見守りながら何か考え込んでいて、ふいに思いついたようだった。
「智子さん、こっち」
「なに?」
 リチャードは私を呼んで、隅で売られているポスターを広げてみせた。
 そこに広がった光景は、今いる建物のようで雰囲気がずいぶん違っていた。
「煙の中のセント・ポール大聖堂……?」
 リチャードはうなずいて言う。
「大戦中の写真だよ」
 周りは一面煙で灰色に染まっている中で、確かにセント・ポール大聖堂のドームが映っている。
「二度の世界大戦中、ロンドンも大変な被害だった。その中でも、幸いこの大聖堂は残った。ロンドン市民はそれをずいぶん喜んだといわれる」
「シンボルということ?」
 リチャードは私を見て続ける。
「そう。大戦だけじゃない。この聖堂は何度も壊れては、再建された歴史を持つ」
 リチャードは目を細めて、煙の中の大聖堂を見つめる。
「同じように、ロンドンの人たちも何度も災厄に見舞われてきた。大火災、コレラにペスト、数えきれない戦争。多くのものが失われながら、そのたびに立て直してきた」
 リチャードは私を見ながら説明を加える。
「ロンドンに色々なものが混じり合っているのは、修復のためでもあったんだよ。壊れては直して、そうやってどうにか生活の場所を作りだしてきたから」
 私はうなずいて思う。
 たとえアンティークは失われても、ロンドンの人たちが生きるために必要だったのだろう。もしかしたら不本意だったかもしれないけど、呼吸を続けないではいられないみたいに、繰り返し。
 私は火の中で静かに立ち続けるセント・ポール大聖堂の写真を、しばらくじっとみつめていた。






 クルーザーに乗った場所までバスで戻ってくる時は、一階に乗車した。
 リチャードはふと気づいて隣の私にたずねる。
「お腹すかない? 君、お菓子しか食べてないでしょ」
 私はちょっと迷って、大丈夫と言い返す。
「いや、ちょっと朝食べ過ぎただけ。あんまりお腹空いてないんだ」
 私とリチャードはロンドン塔の近くでサンドイッチショップに入ったけど、私はカウンターの横にあるクッキーを食べることで精いっぱいだった。
 リチャードには言いにくいけど、本当に食欲がない。寒さのせいか、いくつか起きた緊張のせいかはわからない。
 バスに乗っていても、風が冷たくなってきているのがわかった。特に川の上の寒さは肌が凍るようで、私は早々に窓を閉めて外気を閉ざした。
 リチャードには私の不調は一応ごまかせたみたいで、彼は案内を再開する。
「あっちがウェストミンスター宮殿。今は国会議事堂として使われてるの」
「針を束ねたみたいだね」
 天に刺さるような無数の塔が立ち並ぶ、灰色のゴシック様式の建物を私も見送る。
 バスの窓から、次々とロンドンの名所が流れていく。そのたびにリチャードが紹介してくれた。
「あれがビッグベン。時計台ね」
 縦長の四角い建物の上に時計がついていた。巨大な文字盤に、二つの針が時を示している。
「よし、じゃあこの辺で降りようか」
 私はリチャードに促されてバスから降りる準備を始めた。
 バスから降り立ったそこは観光の中心地らしくて、アンティーク的ではなかったけど、私もデニスにこの辺りのことは聞いていた。
 リチャードも周りを見回しながら私に言う。
「デニスはあまりロンドンが好きじゃなかったけど、ここはわりと気に入ってたみたい」
 私もうなずいてデニスの言葉を思い出す。
――ウェストミンスターの鐘の音は、一度聞いておくといいよ。
 確かデニスもそう言っていた。デニスがロンドンで好きだった、数少ない場所だったと思う。
 橋の上から時計台を一枚写真に撮って、私たちはウェストミンスター寺院の方に向かう。
 ここも人でごったがえしていた。露店や大道芸人がいる中を、バックパックの旅行客がひしめいている。
 そこに、道の真ん中で小さな花を持っている若い女性たちがいた。
 ふとその一人と目が合って、私は声を上げる。
「あれ?」
 その女性は私を見たとたん、花を持ってにこやかに歩いてくる。
 どういうことだろうと首を傾げたら、後ろからぐいと引っ張られた。
 そこに、私が見る初めてのリチャードの表情があった。
「No」
 リチャードが拒絶するような冷たい顔で言い放って、私の肩を抱えるようにして歩いて行く。
 同じように花を持っている人が何人もいた。それを、リチャードは振り払うようにして通り過ぎる。
 交差点を渡って寺院の入り口近くまでくると、ようやくリチャードは私の肩から手を離した。
 彼は一息ついて私に教える。
「あれが今ヨーロッパ中で大流行してる、花挿し詐欺」
「花挿し詐欺?」
 リチャードはうなずいて言う。
「勝手に花を胸ポケットとかに挿してきて、高額な代金を請求してくる」
「……そんな詐欺があるの?」
 私は思わず眉を寄せたけど、リチャードはなお言い募る。
「現実にあるんだ。絶対挿させちゃ駄目だよ」
 にこにこしながら近付く人には悪意がある。今朝リチャードに言われた言葉を私は心の中で繰り返す。
 ロンドンでは笑ってはいけないのだろうか。そんなことすら考えた私に、リチャードは苦笑する。
 リチャードは私の目をよく見て言った。
「怖いね。嫌だよね。でも君もわかってると思うけど、ロンドンの人みんなが怖いわけじゃない。あくまでそういう人もいるというだけなんだ」
 リチャードは揺れた私の内心を見通すようにうなずく。
「大丈夫。自分を守るための警戒が必要なだけ。君はできるよ」
 私は自分を奮い立たせるように頷いた。
 ぽんと肩を叩かれて、考えを切り替えようと首を横に振る。
 リチャードに連れられて人波を抜けると、やっとウェスタミンスター寺院の入り口に並んだ。
 入場料を払って中に入ると、そこはひんやりとした空間だった。
 外と同じで詰め込まれるようにたくさん人がいる。けれど私が寒さを感じたのは、ここに存在するものの内容を知っていたからだ。
 リチャードがそれを言葉で私に教える。
「ここは墓地なんだよ。王族から科学者まで様々な人々のね」
「……ん」
 彼は少し心配そうに付け加える。
「入ってよかった? 君、そういうの怖いんでしょ」
「姿が見えなければ、まだ何とか」
 置いてあるのは棺と彫刻だ。あの中に入っているんだと思うと背筋は冷たくなるけど、それはそういうものなのだ。
 灯りが少なく、ぼそぼそと話す人の声と足音で満ちていた。小部屋と棺がいくつも横に並び、色彩もくすんだ灰色が多い。
 寺院という呼び名は正しいと思った。聖堂や教会とは違う。ここは華やかな絵で天上の教えを描いて人々が集う場所というより、ただ眠る場所なのだろう。
 私は自然と声のトーンを落としてリチャードにたずねる。
「ウェストミンスター寺院っていうと、戴冠式のイメージがあるけど。どこにそんな大人数が入るの?」
 不思議なのは、ここはせいぜい横に並べるのは四人くらいで、座る場所などほとんど見当たらない。
 私の問いかけに、リチャードも静かに答えた。
「それは別室。この辺はほぼ棺ばっかり」
 そう言って、リチャードは天窓を見上げる。
 リチャードが何か考えを巡らせている気配があって、彼が口を開くには少し間があった。
「今日はまだ鳴らないな」
 私は首を傾げて問い返す。
「ウェストミンスターの鐘?」
「うん。戴冠式には鳴りっぱなしらしいんだけど。僕はそんなに聞いたことないや……」
 リチャードは珍しく静かだった。どこか沈んでいるようにも見える。
 私はそんなリチャードの表情をみつめて口を開いた。
「どうかした?」
 いつもはリチャードが言う言葉を、私の側から投げかけた。
 リチャードは何か言おうとしたけど、言葉になる前に別の感情に気を取られたみたいだった。
 どこか上の空で私に返す。
「いや、気にしないで」
 リチャードは表情を動かさないまま、軽く手を振った。
 やっぱり変だと思いながら、私はそれ以上問いかけることができなかった。
 奥まで来ると、天井に細かい彫刻がしてあるのを鏡で見ることができた。
 それもやはり色は薄い。どこもかしこも、ここは現実味が遠のいていくように感じる。
 高い天窓から鈍く光が差し込んでいた。
 私は歩きながら、墓石の名前を読んでいく。
「メアリ・スチュアート。処刑されたスコットランドの女王もいるんだ」
「レディ・ジェーン・グレイもね」
 リチャードも答えて、二人で淡々と、埋葬されている人々の名前を追う。
「チャールズ・ディケンズ。トーマス・ハーディ」
 ダーヴィンやニュートンまで埋葬されていた。キリスト教とは相性が悪い気がして、埋葬に反対する人もいそうに思えたけど、それでもここに埋葬したいという誰かの思いがあったに違いなかった。
 中庭はおそらく春なら少し華やいで見えるのだろうが、真冬では木々も枯れ果てていた。
 リチャードと二人、どちらともなく黙り始めて、私たちは寺院を出た。
 石畳の道に入ろうとして、私は足を止めて振り返る。
 リチャードと名前を呼ぶ。本当にどうしたの、と問いかけようとした時だった。
 そのとき、鐘が鳴り始めた。
「え?」
 キーンコーンと、私もよく知る音階で鳴り響く。
 それは新鮮な喜びの音色に聞こえた。
「学校のチャイムの音だったんだ」
 ウェストミンスターの鐘は、私が小中高と毎日聞いていた学校の鐘の音だった。
 澄んだ軽やかな音に包まれて、私は思わず表情を和らげる。
 遠く離れたところでずっと馴染んでいたものに出会って、それは心を温かくしてくれた。
「……智子さん」
 ふいにリチャードが押し殺したような声で口を開かなければ、私はきっと浮き立つ気持ちのまま彼に笑っていたはずだった。
 でもリチャードの表情には深い悲しみがあった。私は笑顔を収めて、彼を見上げる。
 リチャードは何かの感情に動かされて話し始める。
「ここに来た時から、言おうかどうかずっと迷っていた。言えば間違いなく、君の楽しい気分を吹き飛ばしてしまうから」
 私はリチャードを見返して少し黙る。
 リチャードは私の表情をよくみつめながらたずねた。
「デニスのこと、話していいかな。僕のわがままで、僕の伝えたいことを」
 私は深くうなずいて言う。
「うん。デニスにかかわる話なら、どんなことでも聞かせてほしい」
 リチャードはうつむいて一度目を閉じた。
 彼が迷っているのがわかった。私はリチャードと半歩離れた場所から、じっと彼が口を開くのを待つ。
 彼が話し出すのは時間がかかった。私は触れられなかったデニスの心に近づけたらと、その時を待った。
 リチャードはやがて雨粒が一滴落ちるように言った。
「デニスが亡くなる一週間前のこと」
 そっと思い出を縁取るように、リチャードは話し始めた。
「少しの時間なら外出していいって医者にいわれたから、僕はデニスにどこへ行きたいか訊いたんだ。そんなに遠くは行けないけれど、連れて行くよって。そうしたらデニスは、「ウェストミンスターの鐘を聴きに行きたい」と」
 ここはデニスのロンドンで好きだった数少ない場所だと聞いた。たぶん私の知らない色々な思い出が詰まっているのに違いなかった。
 リチャードの言葉は続く。私の心に痛む足音を残しながら、彼の思い出を辿る。
「デニスはもう自分で歩けなかったから僕が車椅子を押して、寺院に入ったんだ。デニスはずっとぼんやりしてて、無言だった。気分が悪いのかと訊いたけど、それも聞こえてないみたいだった」
 だいぶ弱っていたのだろう。痛ましい思いがして、私もうつむく。
 リチャードはふいに喉を詰まらせて言う。
「だけど、鐘が鳴ったら。デニスは笑ったんだ」
 リチャードは苦しそうに唇をかみしめる。
「『ああ、時間だ。智子が帰ってくる』って言うんだ」
「……私?」
 一瞬、時が止まったような思いがした。
 リチャードは私をみつめながら言う。
「君の家は学校の近くで、君は高校が終わるとすぐに帰ってきたんだろう?」
「うん……大抵デニスの方が大学から先に帰ってて、リビングで新聞を読んでて」
 私は記憶を思い起こしながら、手が震えるのを感じた。
「どうしてか、いつも……」
 いつもデニスはリビングにいた。新聞なら毎朝読んでいくのに、デニスは自分ではテレビもつけないからリビングにいる必要もないのに、決まってそこで座って新聞を読んでいた。
 今もそこにデニスがいて、私に話しかける声が蘇る。
――ああ、智子。
 彼は私がリビングに入ると、たった今気づいたように目を上げて言うのだ。
――おかえり。
 デニスの声に、リチャードの声が重なる。
「デニスは、『智子は帰ってすぐに今日あったことを話したがるから。毎日怒ったり泣いたり忙しい。よく体力がもつな』って」
 私が家に帰ると、デニスは紅茶を一杯淹れてくれた。それを飲みながら好き勝手なことを話す私に、デニスは言葉少なく頷いていた。
 デニスの記憶の声が途切れたとき、リチャードも言葉に詰まったようだった。
「……僕は」
 リチャードは声を震わせて続ける。
「元気になったらどこへでも連れていってやるから。デニスの好きな場所へ、日本だってまた連れて行くからって、言ったんだけど」
 必死で告げたリチャードのその時の声が、聞いてもいないのに蘇るようだった。
「デニスは言ったんだ。『僕は日本の隅々まで旅したつもりだったんだけど』」
 一瞬、デニスの声が耳の近くで聞こえてくる気がした。
「……『今は智子と行った、広い広い、雑貨店しか思い出せないんだ』って、笑うんだ」
 でも鐘はとっくに終わっている。余韻すら、もう残ってはいない。
 私は顔を覆って泣きだした。いくら拭っても、目から溢れてくるものが止まらなかった。
 リチャードは私に歩み寄って告げる。
「デニスは君のことが好きだったよ」
 私は目を押さえてしゃくりあげる。
 それは恋とも友情ともつかない、かけがえのない感情。私も抱いた、宝物のような気持ち。
 でもそれは二度と伝わらない。君に伝えることができない。
「想いが伝えられないくらい、好きだったよ……」
 風の冷たさも日差しの暖かさもわからなかった。
 リチャードがそっと私の頭を撫でてくれた、その気配だけを感じていた。





 夕方、リチャードは私をホテルまで送っていこうとしてふと声を上げた。
「そういえば昼、あんまり食べてなかったけど。お腹空いてないの?」
「あ、うん……」
 私は咄嗟に言葉を濁したから、リチャードは余計に気になってしまったのだろう。
 リチャードは探るように私の目を見てたずねる。
「念のために訊くけど、昨日の夜は何を食べた?」
 ちょっと迷ったけど、私は嘘を言うわけにもいかずにぼそりと言う。
「コッツウォルズで買ったチョコレート」
「一昨日の夜は?」
「コンビニみたいなところで買ったドーナツ」
 リチャードは困った顔をして言葉を放つ。
「……じゃあ君、最初の日の昼以外まともなもの食べてないんじゃん。典型的な旅行による食欲不振だね」
「で、でもさ」
 私は慌てて顔を上げてリチャードに反論する。
「ただお腹が空かなかっただけで、体調は普通だよ。胃腸が悪いとかダイエットしてるとかそういうわけでもないし、大丈夫だって」
 それにサンドイッチだって食べたし、朝も一応食べてるし……と言いわけじみた言葉を重ねたけど、リチャードはきっぱりと首を横に振る。
「いけません。今日の夜こそはしっかりしたものを食べてもらいます」
「しっかりしたもの……?」
「はい、行くよ」
 有無を言わさず、リチャードはバス停に向かって歩き出す。
 私がそろそろ慣れてきた乗車券をバスの運転手さんに見せると、運転手はふいににこっと笑う。
『笑って』
「え?」
 それは今までにない一言だった。
 涙はちゃんと拭ったはずと思いながら頬を触るけど、運転手さんはまるで私の心の内を見通したように言った。
『ここの人たちが笑うことは少ないけど。やって来た君たちに笑ってもらうために、バスを走らせたり案内したりしてる人がいっぱいいるんだよ』
 私はぎこちなく頬を動かす。ちゃんと笑えているかどうかわからなかったけど、運転手さんは満足そうに首を傾けた。
『よい旅を』
『……ありがとう』
 それからバスに乗って、私たちは中心街から少し離れたところで降りた。
 私は辺りを見回してリチャードにたずねる。
「漢字がある。ここ、チャイナタウン?」
「そ。この辺なら少しは君が食べやすいものもあるでしょ」
 少し独特の湯気の香りをかぐと、凍ったようだった胃腸も動いたような気がした。
 リチャードは慣れた様子でいくつかの店の前を歩くと、表で餃子を作っている店を選んで中に入っていく。
 彼が注文してくれた水餃子が出てきたとき、確かに私の食欲は動いた。
「あ……」
 温かいスープと馴染みのある餃子を口にした途端、私の体に熱が戻った。
 かきこむように大急ぎでスープを飲む。おいしい。腹の底からそう思った。
 リチャードは安心したようにうなずいて、別のお皿も差し出す。
「お米もどうぞ」
「ありがとう」
 リチャードが取り分けてくれたチャーハンも食べた。ぱらっとしていてこれもおいしかった。
 日本食と中華はもちろん違うけど、地球を半分回ったところに比べればだいぶ近い。考えてみれば遠いところに来ていたんだと、今更ながらに思った。
 ひととおり食事を胃袋に収めると、ここしばらくの疲れもとろりと溶けた。イングランドに来てからずっと、楽しいけれど緊張も多かったから、リチャードの心遣いがありがたかった。
 心地よい満腹感が訪れた時、リチャードの携帯が鳴った。
『Hello?』
 リチャードは私にごめんと言って席を立つ。店の外に出て、何か早口で話しているのが見えた。
 しばらく時間が経ってから、リチャードは戻って来た。
 彼は不本意そうに口を開いて私に言う。
「ごめん、智子さん。どうしても明日会社に行かなきゃいけなくなった」
「そっか」
 私は頷いて少し笑う。
「大丈夫。元々一人旅行のつもりだったんだし、準備はしてあるよ」
 リチャードは手を合わせて私に謝る。
「ほんとごめんね。明日一日で終わらせて、絶対明後日には戻るから」
「いいよ。がんばってね」
 リチャードはふいに心配そうに私を覗き込んで言う。
「僕が見てなくてもちゃんとご飯食べなよ。危ないところには近付かないこと。何かあったら携帯に連絡して」
 こくこくと頷いて、私は思う。
「うん。おかげでちょっと元気になったし、行けると思う」
 明日の場所は、一人で行けるかどうか少し心配していた。
 でもリチャードのいろんな手助けのおかげで、前を向いてそこに辿り着ける気がする。
 そこはこの旅で一番の目的で、一番気になっていたところ。
 デニスが私に言っていた。
――僕がイングランドで一番好きなところだ。
 遺跡ストーンヘンジに、旅立つ。