イングランド旅行三日目は、ロンドンの博物館や美術館を見て回ることにした。
 昨日よりは遅めの七時半くらいに起きて、朝食を取ってからゆっくりと支度をする。
 地下鉄に乗ってホルボーン駅で降りる。そこから地図を見ながらぼちぼちと歩いた。
 でもなかなか地図通りにいかないのが難関だった。
「あ、こっちから回るんだ」
 窓から見た風景と、実際に歩いてみた様子ではずいぶんと違った。
 ロンドンの街中は工事中だらけだった。あちこちに柵や札が立てかけられていて、ヘルメットを被ったお兄さんたちが作業している。だから私は何度も回り道をしなければならなかった。
 建物が古いからか、それとも政策的なものかと考えながら、私は信号待ちをしていた。
「あれ?」
 でも信号は赤だというのに、みんな平気で交差点を渡っていく。しかもその前で車が止まっている。
 どうやらこちらの歩行者はあまり信号を気にしないみたいだった。しかも基本的に歩行者優先で、集団で渡れば何とか車が通してくれていた。
「……郷に入れば何とやら」
 私もロンドンの人に混じって、左右をきょろきょろしながら交差点を渡ることにした。
 その後全く反対方向に進んでいたことに気付いたり、分離帯に取り残されたりしながら、私は何とか目的地に辿り着いた。
 今日最初の目的地は、大英博物館だ。
 圧倒されるような建物の前に来て、一瞬ためらう。
「入れる……みたい」
 神殿のような建物の裏口をみつけて、私はそこから入場した。
「『入場料金は要りませんが、寄付を1ポンドほどするとよいでしょう』」
 ガイドブックを読んで、私は小銭が放り込まれているボックスの前までやってくる。
 1ポンドは今ないから、50ペンスで許してもらおう。七角形の銀貨で、他の硬貨と同じく片側には女王陛下の横顔が映っている。
 お賽銭のような気持ちで放り込んだコインは、チャリン、といい音を立ててボックスの中に落ちた。
 まだリチャードとの待ち合わせの時間には早いからと、私は少し先に中を見学することにした。
 広い博物館なので展示もたくさんあるけど、早速気を引かれた展示があった。
「あ、日本展がある」
 壁に刻まれている案内表示にJAPANという名前をみつけて、私はそちらに足を向ける。
「右」
 矢印の方向に従って、私は通路を折れる。
「斜め右」
 でも矢印はどんどん私を人気のない場所へと誘い込む。
「上? うわっ」
 私は矢印の方向を見て、思わず絶望の混じった悲鳴を上げた。
「……本当に上だった」
 極めつけに五階分くらいの階段を上って、私はへろへろになりながら日本展に足を踏み入れた。
 やっぱり日本ってマイナーな国なんだな。そりゃ小さい国だけど君の国とサイズ的にはそう変わらないんだぞと少しいじけていたら、視界が開けた。
 そこは床の間をイメージしたような空間だった。木目調の壁と天井で、控えめな淡い灯りが整然と並んだ展示物を照らし出す。
 もちろんそれは演出に違いないのだけど、私は少しこの博物館に愛着を覚えた。
 隅っこではあるけど、大事にしてもらっている。それはありがたいと、誰に言えばいいかもわからないけどうれしかった。
 まだ開館して間もない時間だし、元々そうメジャーな場所でもないだろうから、人の数は片手で数えられるくらいだった。
 でも展示は充実していて、さっと見ただけでも中に入っていきたい気持ちになった。
「すごい。縄文から江戸まで時系列順に」
 簡単ながら日本の歴史が年表で書いてあって、奥に行くに従って時代が新しいものが展示してあるようだった。
 縄文時代の土器から始まって、平安時代の巻物のところまで歩いてくる。
「源氏物語の絵巻だ。初めて見る」
 今ロンドンにいることも忘れて、私はじっくり眺めた。
 日本の宗教事情、仏教と神道とキリスト教が混じっていることなども資料を通して紹介されていたりした。
『さむらいー』
 北方系の小学生くらいの男の子が、戦国時代の全身鎧をいろんな角度から物珍しそうに見ているのが微笑ましかった。
 昔の携帯ストラップ、根付けが案外かわいらしいと思いながら通り過ぎて、私は足を止める。
 日本展で一番大きなコーナーは、江戸時代の浮世絵だった。
 そこだけ一室まるごと使われていて、枚数もざっと数えて三十枚くらいはある。浮世絵は海外では評判が高いということを聞いていたので、私も時計回りに歩いて回ることにした。
 確かにじっくりみつめてみると、浮世絵はその精密さ、奇抜さに目を引かれる。昔の人はよく木彫りでここまで細かい線を自由自在に表現できたなと感心してしまう。
 デニスも浮世絵のことはよく知っていて、私に教えてくれた。
――浮世絵は明治期に大量に国外に流出してしまった。だからまとまった数を見るのは、日本でも難しいかもしれないね。
 デニスがそう言っていたのを思い出しながら、私は浮世絵の最後のコーナーに辿り着く。
「あれ?」
 一瞬、私はその絵を見て首を傾げた。今までの絵は一人の肖像画が多かったのに、それは男女二人だったからだ。
 しかも全身図だった。なんだか変なポーズ……と思って、はっと息を呑む。
 そのとき、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「えっちぃ絵だよねぇ」
「……っ」
 唐突に人の体温と声を首元に感じて、私は立ち竦む。
 目だけを横に向けると、リチャードが私の首に後ろから腕を回して頭の上に顎を置いていた。
 リチャードは感心したようにうなずいて言う。
「ほうほう。細かいところまでよく描けてる」
「み、見ちゃ駄目だ、リチャード」
 私はばっと体を反転させてリチャードから絵を隠そうとする。
「これは春画なの! 日本の恥!」
 つまり江戸時代のエロ本だ。これがなぜ大英博物館にあるのかは謎だが、はっきり言って人に見せたくない。
 リチャードは首を傾げて言う。
「そーお? エロスは隠さなくていいのに。美術館って自由なものだからさ、もっとエロエロな絵も置いてあるよ」
「うう、とにかく離れよう……」
 私が顔を真っ赤にしてあわあわしていると、リチャードはくすりと笑って肩を竦める。
「まあ僕も初めて見た時はびっくりした。直視まで三十分かかっちゃったよ」
「三十分も見ないでください」
 精神的ショックから立ち直ろうと苦しみながら、私は日本展の外の廊下に出る。
 私はどうにか平静を取り戻すと、一息ついてリチャードを見上げた。
「それにしても、「大英博物館で昼11時くらいに会おう」っていう約束だったのに、よく私が日本展にいるってわかったね」
 考えてみればアバウトすぎる約束の仕方をしたのに、あっさりみつけられてしまって驚いた。
「確かにちょっと不安だったんだけどさ」
 リチャードは一応私に同意して、推理するように言葉を続ける。
「んー。でも君のことだから、メインのエジプト展か自分のところの日本展にいるだろうと当たりをつけてだね」
 そこでリチャードはにやっと意地悪く笑う。
「そして怖がりの智子さんでは、一人でミイラは見られないに違いないと」
 じろっと睨んでもリチャードは全然動じなかった。何か悔しい。
 リチャードはよし、と気合を入れて切り替える。
「さて、さくさく行ってみよー。全部見てたら一週間かかるからね、ここは」
 リチャードの言うことはあながち間違ってはいないので、私は気が進まないながらもメインの展示室へ足を向けることにした。
 歩きながら、リチャードは世話焼きのお兄さんの言葉を投げかける。
「地下鉄ちゃんと乗れた?」
「うん。リチャードに教えてもらった通りに、オイスターカード買って10ポンドチャージしてもらった」
 日本でいうSuicaみたいなものがロンドンにもある。カードに現金をチャージして使うことができる。
 ロンドンの地下鉄は便利らしいけど、日本とはちょっと違うところもある。
「乗り越ししちゃうと罰金っていうところが、この国の怖いところだと思う」
「まあまあ。これ以上国鉄に値上げされても困るから」
 リチャードの言葉にうなずきながら私は話を続ける。
「そういえば、イングランドの経済も課題でいっぱいだって聞いた」
 私は階段を降りながら首を傾ける。
「昨日の夜にニュースを見てたら、税金の値上げで生活が大変だって言ってた。それくらいしかわからなかったけど」
「よしよし、大体あってるよ。それたぶん、付加価値税の話。日本の消費税みたいなもの」
「ああ、前にリチャードがメールで書いてた。法人税の引き下げの話とかも言ってた」
「そーそ。よく覚えてるね」
 結構何でもありだったリチャードとのメールのやり取りを思い出しながら、私は苦笑する。
「リチャードって何でも丁寧に答えてくれるから、つい私も何でもかんでも遠慮なく訊いちゃって」
「ううん、どんどん訊いちゃっていいよ。僕けっこう楽しんで教えてるから」
 そこでちょっとだけ苦笑を浮かべて、リチャードは言う。
「君は何でも興味を持つし、意見も率直だもんね。その割に、感情のことを話したり訊いたりするのは苦手みたいだけど」
 私はリチャードの言葉に考えて問い返す。
「え? ごめん、不愉快なメールとかあった?」
「いや、不愉快っていうか、もどかしかった。それも僕ではなくて、デニスにね」
 ぽんとリチャードは私の頭を軽く叩く。
「でも人の気持ちを訊くのは誰だって難しいよね。今のは気にしないで。忘れていいよ」
 私は明るく言葉を切ったリチャードをみつめて、ふと考える。
 デニスに対して感情のことを話したり訊いたりしたことは、確かにあまりなかった。
 今もデニスに初めて会った頃の感情を覚えている。
――怖いな。何を考えてるのかな。
 その頃、私は彼をみつめているだけだった。彼と話すのはほとんど私の母の役目で、食卓で一緒になっても私はデニスに一言も話さない日が続いた。
 デニスはリチャードみたいに気安い性格ではなかったし、私の恐れを読み取って遠慮するくらいの繊細さもあった。私たちはお互い構えながら、毎日を過ごしていた。
 でもある日、先にその沈黙を破ったのはデニスの方だった。
――智子さん。教えて頂きたいことがあるのですが。
 デニスは私の部屋と自室の間の廊下に出てきて、そっと私に話しかけてきた。
――大きな雑貨店に行きたいのですが、どこかご存じですか?
――何を探しているの?
――それは……特に決まっていませんが。
 デニスは困った様子を見せて言葉に詰まった。今思えばそれは、私とコミュニケーションを取ろうと懸命に話題をみつけて言葉をかけたからだったんだろう。
 私はそのとき、デニスの気遣いに気づけなかった。私の中にふわりと湧き上がったのは、親しみだった。
――ぶらぶら歩きたいんだね?
 私はにこっと笑った。見たこともない外国から来たこの少年も、私と同じようなことを考えるんだと思ったから。
――じゃあね、一緒にハンズに行こ。上から下まで見てるだけで一日終わっちゃう。見てるだけでも楽しいんだよ。
 その時、話してみればこの人のことも理解できるかもしれないと感じた。
 実際、その後いろんなことをデニスと話した。お店のこと、旅行のこと、学校のこと、日常の他愛ないたくさんのことを。
 だけど私は結局問うことができなかった。……デニスは今嬉しいのか、悲しいのか。どんな気持ちなのかと。
 デニスが答えてくれたかはわからない。それでも、素直に訊いてみればよかったのかもしれない。
 現在の私はまた途方もない迷宮にいる。どの扉の先に何があるのか知らなくて、案内人のリチャードがいなければきっとすぐに道に迷ってしまう。
 そこは果てしなく廊下が続いているように見えた。さすが世界最大の博物館の一つだと思う。
 長い階段を下っていくつもの廊下を曲がって、私たちはエジプト展に足を踏み入れた。
 この博物館の目玉であるだけあって、そこは人で溢れていた。通路を通るのも人に断らないといけないくらいだった。
 リチャードはおどけて手をちょっと持ち上げる。
「さて、どうしよう。手でもつなぐ?」
「そんな子どもじゃない」
 子ども扱いしたリチャードにむっとして、私は先にてくてく歩きだす。
 でも数歩のところで戻って来て、私はリチャードの後ろに隠れた。
 リチャードは笑いを含んだ声で私をからかう。
「何隠れてるの、智子さん」
「み、ミイラがいる……」
「どうして君はそんなにミイラが怖いの?」
 私は不穏な動きをする心臓を押さえながら答える。
「だってこれ、死体なんだよ」
「死体なんだから襲ってきたりしないよ」
 私は展示品と目を合わせないようにしながらその場で足踏みをする。
 茶色く変色した包帯がちらっと見えただけで、身を縮こまらせることしかできない。
 何千年も昔のものが残ってるのはすごいと思うけど、あの中にご遺体さんが入っているかと思うと背筋が冷たくなる。
 リチャードはそんな私を振り向いて、ふと思い出したように言った。
「そういえば、デニスも怖がってたなぁ」
「え?」
「まだデニスがプライマリーに上がって間もない頃かなぁ。ここに一緒に来たんだけど、僕の服の袖ぎゅっと握ってぷるぷるしてた」
 意外さに私が何も言えないでいると、リチャードはふっと懐かしむように目を細める。
「「「リチャードはこわくないの。この人、もう死んじゃってるんだよ」って言っててね」
 私はその言葉を心で繰り返してぽつりと言う。
「死が、怖かったのかな」
「うん。僕らはまだあの子に病気のことを伝えてなかったのに、どこかで感じ取っちゃってたのかな」
 リチャードは目を細めながら悲しそうに口元を歪める。
「とうとう泣き出しちゃって。僕は宥めるためにデニスを抱っこした。でもそれはデニスのためだけじゃなかったのかもしれない。何もしてやれない自分の顔を見られたくなかった」
 目を伏せて唇を噛むリチャードを見上げて、私はどうしたらいいのかと思った。
 私にもできることはすごく少ない。そう思って俯いていると、リチャードはひょいと私の脇を持って抱き上げた。
「わ」
「でも抱き上げたら、デニスは笑ってくれた」
 リチャードは目を開けて、くすっと笑いながら私を見上げた。
「君も笑ってくれると、僕は嬉しいんだけど。これだけじゃ駄目?」
 私は子どもっぽくむくれて言い返す。
「私、そんなに子どもじゃないから」
「そうかぁ」
 本当に残念そうにリチャードにつぶやくので、私はぷっと笑ってしまった。
 リチャードはそんな私を見て目をきらっと輝かせる。
「あ、今ちょっと笑ったでしょ」
「笑ってない。それより下ろしてよ」
「はいはい」
 足に床の感覚が戻ってほっとしていたら、リチャードが難しい顔をした。
 何か私に言いたそうにして、リチャードは私を見ながらうなる。
「うーん」
「どうしたの?」
 リチャードは一度首をひねってから私に言った。
「君、ちゃんとご飯食べてる?」
「毎食食べてるよ」
 リチャードは首を傾げながらぼそりと言った。
「身長にも胸にもいかないなら、どこに消えてるんだろう……」
「しみじみと言うな」
 それはいつもの軽口かもしれないし……もしかしたら私の気分を落ち込ませないために言っていたのかもしれない。
 私はリチャードを見上げて、この人もたぶんすごく気を遣ってる人なんだろうなと思った。
 私は案内表示を見上げながら言う。
「あ、下にもエジプト展あるみたい」
 神殿のような建物の中、展示物が至るところにあった。ガラスケースに入っているものだけでなく、階段の上にモザイク画が飾られていたりもした。
 案内表示をたどりながら、私たちはもう一つのエジプト展に来た。こちらは彫刻が中心で、大きな吹き抜けのような空間に無造作に展示物が置いてあった。
 リチャードはその部屋に入ると、すぐに気づいたように言った。
「ここに来たならせっかくなのでロゼッタストーンも見て行こ。こっちだよ」
 リチャードが手招きする先についていくと、少し照明の落ちた空間があった。
 私はその光景を見てちょっと驚く。
「あれが?」
「うん」
 それは人が固まっているし、ライトアップされているのですぐにわかった。
 人が壁のようにひしめているので、背のそれほど高くない私では展示物を見ることができない。
 ちらと横を見ると、小さい男の子がお父さんに肩車してもらっていた。
 リチャードがにやっと笑って言う。
「僕もやってあげよっかー?」
「結構です」
 私の視線の先に気づいたリチャードに丁重にお断りしてから、私はようやく動いた人の前に出る。
 ロゼッタストーンは、見た感じは何の変哲もない石板だった。細かい字が一面に刻まれていて、私には何が書いてあるのか全く読めない。
 しかしこれがあったおかげで、もう失われていた古代の言語を読み解くことができた。過去の中で忘れられていた時間と今がつながった。
 デニスはこれのことを、博物館の展示物の典型のように言っていた。
――博物館には、歴史的意味を知らなければ何の価値も見出せないものがけっこうある。ロゼッタストーンはその典型だ。
 そうだねと私はデニスの言葉に頷く。
 知らなければその価値に気づかない。そういうものを気づかずに通り過ぎてしまったら、ちょっと寂しいのかもしれない。
 一通り見学した後、リチャードは声を上げる。
「さぁて。そろそろお昼だけど」
「あ、出発する前にちょっと待って」
 白い吹き抜けのロビーまで来て、私はインフォメーションに小走りに近付く。
 ミイラは怖いけれど、ここまで来たのだから見ておかなければいけないものがあると思っていた。
 私は受付のお兄さんにたずねる。
『ツタンカーメンってどこですか?』
 白い肌のまだ若い係員さんは、私の言葉にあっさりと返した。
『いや』
 一瞬迷ってから、お兄さんはさらりと言葉を続ける。
『ここにはない。それはエジプトだよ』
『あ、そうなんですか……』
『ミイラならあそこを上がってすぐだけど』
 ミイラはノーセンキューとお断りして、私は大人しく引きさがる。
 お礼を言ってお兄さんのところを離れる。
『ありがとうございました』
 かかなくていい恥をかいてしまったと思って戻って来たら、リチャードは私たちのやりとりを聞いていたようだった。
「ぷぷっ」
 案の定、リチャードは私を見るなり可笑しそうに声をもらす。
「『それはエジプトだよ』、ね。すばらしく的確で無駄のない言葉だ」
「くっ、いいよ別に。おもいきり笑えば」
「それがね、あんまり笑えない事情もあるんだぁ」
 出口の方に歩きながら、リチャードは話し始める。
「ツタンカーメン王の黄金のマスクはね、以前はここにあったんだけど、エジプトに返したの。実際のことを言うと、大英博物館のほとんどが他国のものだからね」
「あ……そっか。確か、ロゼッタストーンもそうだったね」
「そう。それも略奪品」
 私たちは外に出て階段を降りて行く。
 リチャードは笑わずに暗い事情も淡々と説明する。
「ここになければ価値が理解されずに失われてしまうから留めておくべきとか、そもそも僕らが研究して価値がわかったのだから返す必要はないという意見もあってね。美術品がどこのものかっていうのは、昔から議論が絶えないんだ」
 正面玄関の方から出ると、大英博物館の全貌がうかがえた。
 近代的なロビーとは違って、そこは古代ギリシャの神殿のようだった。膨大な時代の収まった巨大な箱の外観にふさわしい。
 私は飽きるほど物であふれていた展示物を思い返しながら言う。
「今日見たものがずっとあるとは限らないんだね」
「そうだね」
 リチャードは私の言葉にうなずいて続けた。
「僕らの国にはかつて大きな力があったから、ここまでの博物館が作れた。だけど、遠くない未来にここは小さくなっていくんじゃないかな。それでいいかどうかは、後の時代の人が決めるだろう」
 リチャードはちらと私を見て言う。
「撮っといた方がいいかもね。今しかない形を」
「そうするよ」
 私はうなずいて、枠にすべて入りきらない大英博物館の建物を、一枚写真に撮った。
 しばらく立ち止まって博物館を見上げていたら、ふとリチャードが声を上げた。
「あ、でも」
 リチャードは悪戯っ子の顔になって、私を見下ろす。
「浮世絵は対価を払って日本から買ったものだから。たぶんあの春画は、これからもあそこに展示されるよ。やったね」
「……それ、聞きたくなかった」
 嫌なおまけ情報を教えられて、私はがくりと肩を落とした。





 昼食は普段リチャードが食べているようなものを、と言ったら、彼は街角のカフェに入っていった。
 カラフルな椅子に透明なテーブルのお洒落な所で、私はリチャードにならってサンドイッチとコーヒーを注文した。
 カウンターで注文を終えた私に、店員さんは一言付け加える。
『バナナ要る?』
 口髭のお兄さんが言ってきた言葉に、私は咄嗟に反応できなかった。
 一瞬黙ってから、おもむろに答える。
『い、いや。結構です』
『おいしいよ』
 なぜそんなにバナナをプッシュするのだお兄さんと思いながら、私はノーセンキューを繰り返した。
 でも私の感覚は誰にでも当たるわけじゃなくて、それは席についたら目の当たりにすることになった。
 私は向かいの席を見てぽつりとつぶやく。
「……買ってるよ」
 席につくと、リチャードのトレイにはバナナがあった。
 リチャードは不思議そうに首を傾げて言う。
「うん? どれが?」
「いや、いいよ。バナナはお腹にいいねって言いたかったの」
 いつもバナナを食べているとは限らないけど、注文しても不自然じゃないものらしかった。
 私もトレイを置いて食べ始めることにする。失礼にならない程度に周りも見て言った。
「意外だ。みんなコーヒー飲んでる」
「コーヒーショップだもん」
「イングランドの人は紅茶が好きなんだと思ってた」
「紅茶はもちろん飲むけど、今の人はコーヒーも好きなの」
 私はコーヒーをひと口飲んで、本日の昼食を見下ろす。
「量は多いけど、わりと質素なもの食べてるんだね」
「会社勤めだからね。あんまり時間ないし」
 私は何度目かのメールで知った情報を口にする。
「食品輸入会社に勤めてるんだったよね、リチャードは」
「そうだよ。日本にも月一で出張するよ」
「なるほど。だからそんなに日本語上手くなったんだ」
 私はチーズサンドイッチを食べながら、初めて彼と会ったときを思い出す。
「前会った時は、リチャードって全然日本語話せなかったのにね」
「まあねー」
 けらけらと笑って、リチャードは懐かしそうに頬を緩めて頬杖をつく。
「君も全然英語話せなかったよね。でも僕ら、七日間一緒に観光したんだっけ」
 リチャードは三年前の冬休み、日本に旅行にやって来た。
 でもデニスに頼るつもりでやって来たものだから、日本語はおろか何も準備していなかった。しかも肝心のデニスは一週間ほど旅行中で、リチャードの相手をしてあげられなかった。
 せっかく遠い異国から旅行に来たのに何もなしでは悪いと思って、ちょうど私も休み中だからとリチャードを案内した。
 リチャードは半分呆れ、半分冗談の調子で笑いながら言う。
「君ときたら、ほとんど単語で話すんだもん。わからなくなると、「こっち」って言って僕を掴んですたすた歩いていっちゃうし」
 私もむっとしてリチャードに言い返した。
「リチャードだって単語で話してたじゃないか」
 そのときを思い返すと恥ずかしくなる私と違って、リチャードは愉快そうに続ける。
「うん。だから今考えるとほんと笑っちゃうなって思うんだ。何やってたんだろうね、僕らは」
 くすくすと笑って、リチャードはふいに穏やかに私を見る。
「楽しかったよ」
 リチャードは優しい声音で私に告げた。
「僕の中であんなに楽しい七日間は他になかった。ありがとう、智子さん」
「う、うん」
 私は照れくさくなって頬をかいた。時々真面目な顔をして優しい言葉を告げるこの人は、やっぱり私よりだいぶ年上なんだと思った。
 でも次の瞬間には、リチャードは子どもっぽく胸を張って言い放つ。
「だから今回の旅行は僕に任せておきなさい。パワーアップした僕が完璧にコーディネイトしてあげるから」
 私はちょっと肩の力を抜いて遠い目を見る。
「言葉以外、リチャードは三年間で全然変わらないように見えるけど」
「えー、大人の魅力がにじみ出るようになったでしょ? この辺とか」
 後ろでちょっと縛った髪を指さすリチャードに、私は少し考える。
 一呼吸考えて、私は湧いて出た意地悪心を言葉にする。
「そうそう。言おうかどうかずっと迷ってたんだけど」
「うん。なになに?」
「そういう髪型するとハゲるよ、リチャード」
 リチャードは目元を押さえて泣き真似をする。
 彼は恨みがましそうに私を上目遣いで見て言った。
「智子さんひどい。僕泣いちゃうよ」
「え、そんなに?」
「智子さんは繊細な男心を理解してくれないんだー」
 私の前で、リチャードはひどいやーと、ぶーぶー言っていた。
 子どもなんだか大人なんだかわからない彼はとにかく愉快なのはまちがいなくて、やっぱりいつも通り私たちは冗談交じりに笑っていた。








 午後からは、私たちは南に歩いてナショナルギャラリーに行った。
 日本風に言うと国立美術館なのだけど、イングランドだけではなく世界中の絵画が収められていると聞いている。
 大英博物館のような威圧感のある建物ではないけど、ミュージアムらしい洒落た扉が私たちを出迎えた。
 私は厳かな気持ちになりながら、とりあえず財布を取り出す。
「ええと、寄付を……と」
「智子さん、こっち」
 大英博物館と同じように私が小銭を寄付しようとしたら、リチャードがくいと私の袖を引いた。
 今度はリチャードが一緒だから、地元人らしい手慣れた作法を教えてくれる。
「ガイドマップが1ポンドだから、それを買うといいよ。君も美術館もハッピーになる」
「なるほど、じゃあそうする」
 ためになる情報を教えてもらって、私は寄付代わりにガイドマップを買うことにした。
 私はガイドマップをぺらりとめくって、一瞬沈黙してから言った。
「……広いね」
「まあここも全部回ろうと思ったら、一日や二日じゃ足らないから」
 世界中の絵画があるというのは誇張ではないらしくて、そこは一つの街のように思えた。
 リチャードも横からガイドマップを覗き込みながら尋ねる。
「ある程度目的を絞らないとね。見たい絵を先に教えて」
「とりあえず、一番有名なゴッホの『ひまわり』は見たいな」
「うんうん。他には?」
「ルノワールとか、レオナルド・ダ・ヴィンチとかの絵もよければ」
 リチャードはうなずきながら口を挟む。
「君、モネの『睡蓮』も好きじゃなかった?」
「あるの?」
「あるよー。よし、ひとまずそんな感じで回ってみようか」
 リチャードは何度も来たことがあるようで、マップをざっと見回してから歩き出した。
 私も展示室に足を踏み入れて、少しため息をついた。
「わぁ……」
 高い天井の下、整然と無数の絵がかけられている。色鮮やかに、今描かれたばかりのように輝く。
 ここにある絵は名のある画家によるものばかりだ。ヨーロッパ中から集まった数々の傑作が一つの建物の中で見られるのは、きっと幸せに違いない。
 夢のような気持ちで左右を眺めている私を急かすことなく、リチャードはゆっくりと横を歩きながら私を導く。
 奥に辿り着いてまず見たのは、ルネサンス期の絵だった。
「これがダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』」
 リチャードに教えられてその絵を見て、私は目をまたたかせる。
 それは陰影が濃くて躍動感がある。つい息を止めてしまいそうになる。
「迫力があるね。ダ・ヴィンチさんすごい」
 私は少し興奮しながらみつめて、ゆっくりと次に足を運んだ。
 人は少なくはないけど、見たい絵が見れないほど込み合ってもいないのが幸いだった。
「レンブラントの『自画像』」
 部屋を渡って、一つずつ絵を追う。それはもうだいぶレンブラントが高齢の時の絵だけど、雰囲気があって良かった。
 リチャードは高い位置に飾られた絵を差しながら言う。
「あれがディエゴ・ベラスケスの絵。『鏡のヴィーナス』ね」
「綺麗な背中だ……しかし」
 鏡に向かって横になる素敵なお姉さんを見上げながら、私は一言これは言っておかなければと告げる。
「なぜ脱がすんだろう」
「そりゃまあ、この時代見る方も描く方も男性だからねぇ」
 ふうん、と頷いて私は何気なく尋ねる。
「リチャードも見たいの? 女の人の裸」
 さすがに、中学生の男子とは違うよというような答えが返ってくるかと思いきや、リチャードは晴れやかな笑顔を浮かべて頷いた。
「もちろんさ。いつでも見たいと思ってるよ」
 リチャードは予想に反して爽やかに全肯定してくださった。呆れを通り越して感心してしまった。
 ふとリチャードは思いついたようで声を上げた。
「あ、そうだ。君、ポスター欲しいって言ってなかった? だったら早めに注文しといた方がいいよ。一時間くらいかかるから」
 私は昨日車の中で話していたことを思い出して、ああ、とうなずく。
「そうだった。うん、買いたい。お父さんが『ひまわり』のポスターが欲しいって言ってたんだ」
 リチャードは私にうなずき返して、こっちと私を呼んだ。
「ん。それなら、ひとまず売店に行こうか」
 私たちは画廊を離れて廊下を通り、階段を降りる。
 そこは売店というより小奇麗なインテリアショップみたいな所で、私はきょろきょろとポスターを探す。
 リチャードは世話焼きなお兄さんの顔で私に言う。
「あそこの機械を操作して印刷するの。一人でできそう?」
「やってみる」
 私はリチャードの言葉に頷いて、隅に置かれた機械に足を向けた。
 機械の操作は案内こそ英語だったけど、そんなに難しい表現はなかったからどうにか読み解けた。
「できた!」
「そうとも。智子さんはやればできる子なんだから」
「いつもやってます」
 私は軽口を返しながら無事ポスターの発注をして、リチャードと一緒にまた画廊に戻った。
 さっきは古い時代順に見たけれど、今度は新しい時代の方から入ったから一気に時代が後になった。
 私は目当ての絵の一つを見つけて声を上げる。
「あ、『睡蓮』だ。綺麗だね、リチャード」
 クロード・モネの『睡蓮』は、水に差しこむ木漏れ日がきらきらしていた。光の粒が見えるみたいだった。
 『睡蓮』はモネが何度も描いた題材だから、同じタイトルの作品が世界中にある。実は私も隣の県の美術館で見たことがあった。
 でもここにある『睡蓮』も素敵だった。この絵の中でお昼寝をしてみたいと思った。
 それからも、あっちこっち私はうろうろしながら見ていた。宝箱の中を探すみたいな気持ちだった。
 デニスは美術も好きだった。いろいろな画集を私に見せて教えてくれた。
――絵画の中には、時間が残っているんだよ。
 私はそう絵画に詳しくないけれど、あるときのデニスの言葉には共感を寄せたことがある。
――写真のように一瞬ではなく、それよりほんの少しだけ長い時間がある。なぜって、人が描いたものだから。
 デニスは絵画の写真を指でたどりながら言った。
――僕はその僅かな時間の流れを感じたいと、絵を見るたびに思う。
 僅かな時間、その言葉を思ったとき、私の中で痛みが走った。
 ふいに私は一つの絵の前で立ち止まる。
 衝撃的なシーンを見て、私はすぐに思い出した。あるときデニスが見せてくれた本に、この絵が載っていた。
「これは確か……『レディ・ジェーン・グレイの処刑』」
 それはイングランドの女王でありながら、即位してたった九日で処刑された女性の実在の悲劇を描いた絵だ。
 呆然と座りこむ侍女に、介添えをする聖職者、首切りの執行人がいて、そして白い衣装を身にまとった女王レディ・ジェーン・グレイが首切り台を探す。
 それは大きな絵で、壁一面を覆うほどだった。でもその絵の大きさ以上に、その瞬間のインパクトが強かった。
 処刑なんて、現代日本では遠い出来事だ。海外でだって、今や斬首という方法を公に使っていいとは思えない。
 でも過去には確かにあった。そう思うと、じわりとした恐怖感に襲われる。
 私は侍女の表情を見た。生気がなくうずくまる彼女は、すべてを諦めているように見えた。聖職者も、首切りの執行人でさえ暗い表情をしているようにうかがえる。
 だけどこれから処刑されるレディ・グレイだけはわからない。彼女は目隠しをしていて、表情が窺いにくくなっている。
 当人の気持ちはいつもわからない。それを痛切に感じたのは、三年前の二月。
 呆然とした自分の声が、まるで他人事みたいに自分の耳に蘇る。
――デニスが息を引き取った?
 その事実を、私はリチャードからの電話で初めて知った。
 昼なのに寒い一日のことだった。陰る空が、どことなく閉塞的だった。
 あの日、リチャードは何も知らない私に、感情の読めない声で淡々と告げた。
――子どもの頃からあの子には持病があったんだ。成人まで生きられないとは、ずっと言われてた。
 そんなことは知らなかった。聞いたこともない。デニスもそんなこと一言も言っていなかった。
 そして後で知ることになる。デニスの病気のことを知らなかったのは私だけで、デニスの家族はもちろん、ホームステイ先である私の両親も知っていた。
 だからなかなか信じることができなかった。私には死にゆくデニスを想像できなかった。
 私はリチャードが事実を告げた後も、ただ何を言うでもなく家の電話の前で立ちすくんでいた。
 何かを考えることはできなかった。リチャードに問い詰めるにも、私自身その事実をまるで受け入れていなかった。
――デニスは……。
 デニスが別れ際に何と言ったか、どんな顔をしていたか、思い出そうとしたけどできなかった。
 まるで目隠ししているように、デニスの目が見えなかった。その心がわからなかった。
 でも今、静寂の中で思う。
 こんなに若くして人生を終えなければいけない。死に直面しなければならない。二度と自分の好きなことをすることができない。
 ……それは怖い。悲しい。悔しい。
 デニスだってそう思ったに違いないと、絵を仰ぎ見ながら思う。
 そして今強く、訊けばよかったとも考える。
 私はデニスにいろんな話をした。今日学校であったこと、喜んだり怒ったりしたことを、学校から帰ってくるたびにデニスに話して、そしてデニスはそれを聞いてくれた。
 でも私は、デニスから自分の話をほとんど聞いたことがなかった。彼がそうしたがらなかったし、私もたずねなかった。
 デニスは私より大人っぽくて、頭もいいし、立派な紳士だからと思って尋ねなかったけど、デニスだって人間なのだから色々な気持ちを持っていたはずだった。
 デニス、君は何を考えていたの?
 聞いて私に何ができたわけでもなくても、私は君に何かしたかったよ。
 瞬間的にあの日につながって、私はリチャードにたずねる言葉を口にしようとする。
「デニスは……」
 ふと振り向いて、私は動きを止める。
「……リチャード?」
 でもずっと側にいたはずのリチャードの姿が見当たらなかった。
 私は辺りを見回す。無数の絵が並ぶ部屋の中には、人が流れるように歩いて行く。
 部屋から出る扉は四つ。隣の部屋に行っても四つ。同じ構造をしているがために、余計にわからなくなる。
 また、いつかの自分の声が耳元に蘇る気がする。
――デニス。どこに行ったの?
 よくデニスと雑貨店に行ったけど、夢中になっているとデニスの姿を見失うことも多かった。
 人と物に埋もれていると、私は迷宮に迷い込んでしまったような思いになった。
 どうしようと私は子どものように画廊をさまよう。
 リチャードにも会えなくなってしまうのだろうか。
 そう思った途端、私はじわりと目の奥に熱いものが滲むのを感じた。
 そんなとき、静寂は唐突に破られる。
「あ、智子さんここにいた」
 ふいに能天気な声が頭上から降ってくる。
 リチャードは私が直前までいた暗い世界とはまるで異世界の、からりと晴れた空みたいな顔でいつも現れる。
「ごめんねー。会社からまた電話で。ちょっと離れるって言ったけど、君熱心に見てるみたいだったから……って」
 ふいにリチャードは私を覗き込んで眉を寄せる。
「泣かないで、智子さん」
「泣いてないよ!」
 私は口をへの字にしてリチャードを見上げる。
 リチャードが私の考えていたことを読めたとは思えない。私が一瞬前にいた世界のことだって、彼に見えたわけじゃない。
 でもリチャードは私の寂しさだとか悲しさは、想像してくれたみたいだった。
「ごめんね」
 もう一度謝ったリチャードに、私は首を横に振る。
 リチャードは少し考えて、手帳を破いて何か書き込んだ。
 不思議そうな顔をする私に、リチャードはメモを握らせる。
「智子さん。これ僕の携帯番号」
 メモに書かれた字を指しながら、リチャードは言う。
「困ったらお店にでも入って電話をかけさせてもらいなさい。僕はロンドンのどこかにいるから。わかった?」
「……うん」
 私はやっと落ち着いて、リチャードの横を歩き始めた。
 私は気恥ずかしくなってしばらく話せなかったけど、やがてぽつりと言う。
「ごめん。なんだか、子どもみたいで」
「君は僕より子どもだから仕方ないよ」
 リチャードは宥めるつもりで言ってくれたんだろうけど、私はついむっとしてリチャードを見る。
「子どもじゃない」
「どっちなのさ」
「何となく君に子どもと言われると許せない」
 リチャードはくすっと笑って、降参というように手を上げる。
「はいはい、そうですね。君はレディですよ」
 いつもの雰囲気が戻って来て、私たちはまたどうでもいい言い合いをしながら画廊を歩いた。
 時代がいくつもあるように、部屋を変わればそこは別世界だった。画廊はまさにそういう世界で、扉をくぐればそこには新しい世界が待っている。
 私はまた絵を見上げてそれに目を引かれる。
「あ、ルノワール」
 優しいタッチで描かれた女の子の絵を見て、私は微笑む。
 色彩が豊かで温かみのある絵だった。溢れる光に、懐かしさが胸を衝く。
 リチャードもふんふんとうなずいて言う。
「ほっぺに触りたくなるよね」
「リチャード、そういうのを日本ではHENTAIと言うんだよ」
「ヘンタイばんざーい」
 リチャードは上手な日本語でまたしょうもないことを言っていた。
 私たちは部屋を渡って歩いて、やがてこの美術館のメインの絵の元に辿り着く。
 それはそれほど大きな絵じゃないけれど、一種別の世界をまとった絵画だった。
 私はそれを見上げながら名前を呼ぶ。
「これがゴッホの『ひまわり』」
 独特の色とタッチで描かれた、花瓶に入ったひまわりの絵だ。
 作者の狂気が絵に乗り移っている気もして、見る者に見せつけるように描かれている。
「禍々しさを感じるくらいだね。ちょっと怖い」
 にじみ出る迫力は、枠を壊して絵の中からひまわりが出てきそうな錯覚さえ感じさせた。
 色は黄色とオレンジの間くらいで、少しくすんでいるのに色鮮やかなのは、実は枯れかけているからなのだった。
 リチャードは絵を見上げながらぽつりと言う。
「僕はこれ、好きだな。生きてるって感じで」
 私もリチャードの隣で絵を見ながら少し考えた。
 生きているものは、死んでいくもののエネルギーを吸って命をつなぐ。
 それはきっと醜い。けれどそうしなければ生きていけない。だから生きているものは、強い。
 ひまわりの絵は、美しいとは思えなかった。けれど目を引きつけてやまなかった。
 命の最後の光を確かに目に焼き付けて、私はひまわりの前を後にした。
 リチャードは歩きながら、私の予定していなかった絵の話を切り出した。
「あと、僕から最後にロンドン画家の絵を一つご紹介しよう」
「うん。誰の作品?」
「ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー」
「ウィリアム・ターナー……」
 少し考え込んだ私に、リチャードは指を立てて言う。
「君の好きな海賊映画のターナー君とは別人です」
「わかってる。ただ、ウィルもかっこよかったけど、あの映画ではやっぱり」
「はいはい。ジョ○ー・デップが一番かっこいいんでしょ」
 そうしてリチャードが連れて来てくれた先にあったのは、風景画だった。
 海を引かれていく船の絵だった。夕焼けが眩しくて、海が茜色に染まっている。
 ひまわりと違って背景に溶け込んでいくような絵を見上げながら、リチャードは言う。
「この船はね、これから解体されに行くんだよ」
「そっか。だから寂しそうなんだね」
 船に表情はないのに、どうしてかそう思った。
 リチャードは独り言のようにつぶやく。
「でも希望の色もある。……君にも見えるといいな。デニスもこのささやかな時間が、好きだったんだよ」
 薄い曇り空の下、淡い線と色で構成された船が海を渡っていく。その僅かな時間を、私はぼんやりと眺めていた。
 それから売店に戻ってポスターを受け取った。三角形の紙が折れ曲がらないように配慮された透明な箱に入っていた。
 家に帰ったら父に渡して、絵の中に封じられた時間をまた覗き見よう。
 そう思いながら、私は三角の箱をそっと抱きしめた。