イングランドで迎えた初めての朝は、あいにくと爽やかではなかった。
 ため息をつくというより自分に言い聞かせるように言う。
「やっぱり降ってる」
 朝六時半過ぎ、もぞもぞと起き上がって窓の外を覗いたら、既に雨が降っていた。
 この国は雨が多いことでも有名だ。ある程度覚悟はしていたので、私はそういうものなんだと思いながら朝食へと向かった。
 グランドフロアーにあるレストランに入って、私は朝食券を見せる。
 ウェイターのお兄さんはうなずいて先に歩き始める。
『ここだよ』
 彼はくるりと私に振り向いてバイキング方式になっている料理を示して、あっさりと去っていった。
 どうやら好きな席に座って好きなものを取ればいいらしい。私はトレイを手に取って選び始める。
 オレンジジュースをコップに入れて、無造作に積まれているトーストを一切れに一個のバターを皿に乗せて、なぜか四種類もあるシリアルの中からフルーティなものを選んで牛乳をかける。
 ふとベーコンのいい匂いがするのに気づいて、引き寄せられるようにしてそちらに足を向ける。
 別のコーナーに湯気を立てているベーコンや卵があった。たんぱく質が欲しくてトングを探すけど、なぜかここにはそれがなかった。
 その場で止まっていたら、カウンターの向こうから黒髪のお兄さんが声をかけてくる。
『何か要る?』
 私は少し考えて答える。
『これください』
『オッケー』
 私がベーコンを指さすと、お兄さんは気安く頷いて皿にベーコンを乗せた。
 山盛りにされて、ベーコンばかりこんなに食べられるかなと不安に思っていたら、もう一言言われる。
『4ポンド50ペンス』
「え?」
 お金取るのかい、と軽く目を見開いて驚く。
 しかも日本円に換算すると600円くらいだ。ベーコンばかりでそれはあまりに高くないかねお兄さんと思ったけど、それは後の祭り。
 お皿に取ってまでもらって、それやめときますとも今更言えない。というか、やめるって英語でどう言えばいいのか咄嗟にはわからない。
『……ありがとうございます』
『いえいえ』
 結局ありがたくお金を払うことになって、私はがくりと首を垂れる。
 歩き始めて一度振り返ってみると、隅に値段表が書いてあった。どうやら温かいものは有料らしい。早速失敗してしまったと思いながら、私は重くなったトレイと軽くなった財布を持って席についた。
 朝食は、まあおいしかった。ベーコンが少し重くて全部は食べられなかったけれど。
 今度はちゃんと無料かどうか念入りに確認してコーヒーを飲んでから、レストランを後にした。
 部屋で歯をみがいていると、ノックの音が聞こえた。
「おはよー。よく眠れた?」
 リチャードはグレーのセーターにジーンズというラフな格好で、靴もスポーツシューズを履いていた。昨日は仕事帰りだったらしくスーツ姿だったけど、これが彼の私服らしい。
 限られた服しか持ち歩けない貧乏旅行者としては、彼くらいのラフな格好の人といる方がありがたい。
 だからぽつりと訊いてしまったのは、彼が悪いわけじゃなく、思わずデニスを思い出してしまったからだった。
「リチャードって、トラッドは着る?」
「んー? いや、持ってはいるけどさ」
 今まで私の中では、伝統的なトラッドスタイルで、常に上質な革靴を履いていたデニスがイングランド人だった。
 でも目の前のリチャードはにこっと笑って否定する。
「堅い服は堅苦しい時に着ればいいの。楽しみたい時は楽しめる格好が一番」
「それもそっか」
 私はこくんと頷いて、洗面所に向かおうとする。
 ふと別のことを思い出して、私は顔を押さえて言う。
「あー……リチャード」
「なぁに?」
「ちょっと待って。今からその……塗装工事をするから」
 メイクというには気恥ずかしいほどの下手さ加減なので、小声で主張した。
 リチャードは変なほど間を空けて考えた。でも言葉の意味がわからなかったからじゃないようだった。
 彼はぷっと吹き出して、気楽に笑う。
「ははっ。いーよ、ごゆっくりどうぞ。塗装工事」
「うん、ごめんよ」
 ぷぷっと笑いながら、リチャードはベッドサイドに頬杖をつく。
「君もメイクするようになったか。そうだね、もう大学生だもんね」
 彼と初めて会ったのは高校生のときで、考えてみればそれから三年が経っている。
「君ももう子どもじゃないんだなぁ」
 洗面所に戻る私の後ろで、リチャードが感慨深げに呟くのが聞こえた。
 大急ぎでメイクをして戻って来ると、リチャードはにっこり笑ってうなずいた。
「よし。工事が成功したところで行こうか」
 リチャードは私のバックパックを代わりに持ってくれて、そんな彼に続いて部屋を出た。
 ロビーに下りてきてコンシェルジュにキーを預けると、インド移民系のお兄さんがにこやかに手を振って言う。
『ありがとう。よい旅を』
「せ、センキュー」
 リチャードと駐車場まで来て、助手席に乗り込もうとしてふと気づく。
「え、レクサスだ」
「そーそ。あ、そういえばこれ日本車だっけ」
 リチャードは今頃気づいたみたいに意外そうに返す。
 眠かったから昨日見た時は気づかなかったけど、私は懐かしいものに出会ったみたいにまじまじと見てしまった。
「っていうくらい日本車ってイングランドには普通に走ってるよ。僕もこれ、お気に入り」
 そうなんだとうなずいていると、リチャードはおどけて言う。
「ロールスロイスとか乗ってきた方が楽しかった?」
「いや、君は私をどこへ送迎するつもりなの。怖くて近寄れないよ」
 率直に言って日本車にすごく安心した。私がそう言うと、リチャードはにやりと笑った。
「よし。じゃあ君が次イングランドに来たときは楽しみにしといて。実家にいろいろあるから」
 たぶん冗談を言われたということにしておいて、本日の旅行を始めなければ。 
 リチャードもおいでおいでと手をこまねいているし、遊んでないで助手席に乗り込む。
 リチャードはアクセルを踏んで、上機嫌に言う。
「出発進行ー」
 そんな陽気な彼とは対照的に、朝のロンドンは昨日とは少し印象が違っていた。薄暗くて、雨が降っているからかどこか閉塞的だった。
 抑えた色調だから目立つものも少ない。建築規制をして同じような建物なのも、今日は妙に味気なく感じる。
 暖房が効いて、あまり揺れない車内から見ると、まるで現実味のない光景だった。おもちゃの家を覗き込んでいるような、そんな気分になる。
 そういえばいつも騒々しいくらいのリチャードがしばらく黙ってるな……と考えていると、頭の裏側から眠気がもたげてきた。
 飛来した思い出を腕を広げて受け止めながら、私は懐かしいデニスの姿を目の前に見ていた。







 デニスは三年前の夏に日本に留学して、私の家にホームステイしていた。
 私は十六歳、デニスも同い年。それならデニスだって高校生のはずだけど、彼は飛び級して既に大学生だった。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
 デニスは貴族の家系、ブルーブラッドを自負していた。いつも礼儀正しく慎ましやかで、何より誇り高かった。彼は来日時から既に流暢な日本語を操って、私たちと話していた。
 ある日の夕食の場で、デニスはさらりと切り出した。
「明日から島根に行ってきます。明後日の夜に戻りますが、夕食は要りません」
 私は首を傾げてデニスに問いかけた。
「島根って、どこに行くの?」
「出雲大社です」
 住んでいる地方も違って、格別歴史好きでもなかった私には、デニスの言葉にきょとんとしていた。
 二日間もかけて田舎の神社に行くなんて、物好きな外国人もいたものだと思っていた。
 食器を片付けた後にデニスの部屋を訪ねたら、彼は塵一つ落ちていない床にたくさんの資料を並べて見下ろしていた。
 私は驚いて立ちすくみながら言った。
「これ、全部出雲大社の資料?」
「そうだよ」
 足の踏み場もない紙の束を前に、デニスはそっけなく答えた。
 デニスはそう言いながら一応私が座る場所だけは空けてくれて、私は何とか部屋の中に立ち入る。
 私は多少呆れながらデニスに言った。
「観光に行くなら、京都とかを見ればいいのに」
「京都は「都」だ」
 デニスは眉一つ動かさず、まだ資料を眺めながら答えた。
「僕の求めるものじゃない。古き良きものが日本にはたくさんあるから、僕はこの国に来たんだ」
「古き良きもの?」
「そう。心の故郷があるところ。それがあるのは田舎だ」
 デニスの言うことはいつも難しくて、私はなかなか理解できなかったのを覚えている。
 私はそういうときいつもそうするように、ただ思ったまま問い返した。
「私にはわからないよ。どういうこと?」
 頭の軽い子だと思われても仕方ないくらいのあっけなさで問う私に、デニスは考え込む素振りを見せた。
「そうだな……」
 デニスはそんな問いばかり投げかける私を嗤ったりしなかった。そういうところが、彼は真に高貴な人間だった。
 デニスは禁欲的な眼差しで細かい字が印刷された資料を見下ろしてから、つと顔を上げて私を見た。
「自分の故郷のことを考えてみるといいかもしれない。智子、君の故郷は?」
 私はそれならわかると思って、こくっとうなずいた。
「私の故郷はここだよ。今住んでるところ。デニスはどこ?」
「僕?」
 逆に問われたのが意外だったのか、デニスはふいに瞳を揺らした。
 デニスは少しだけ子どものように目を細めて呟く。
「僕の故郷は……コッツウォルズのボートン・オン・ザ・ウォーター。亡くなった祖父の家がそこにあったんだ」
 デニスがそう言ったものだから、私は次の日に図書館に行ってコッツウォルズの本を探した。
 田舎の図書館だったから書架には並んでいなくて、司書さんに相談して書庫から関係する本を出してもらった。
 そして私が見たのは、どこか懐かしい気配のする色合いの家々だった。
 柔らかい縁取りで囲まれた、優しい肌触りを感じるところ。
 作りも色彩も日本人の私には全く馴染みがないはずなのに、そこは確かに故郷の香りがしていた。







 ぽふぽふと頭に不思議な感覚がして、私は目を開けた。
 驚くよりいぶかしむより、またかという思いで横を振り向く。
「……リチャード。何してるの?」
「なでなでしてる」
 リチャードは右手で運転しながら、左手で私の頭をぽんぽん叩いていた。
 私はじろっとにらみながら彼に文句をつける。
「危ないでしょ」
「それは事故という意味で? セクハラという意味で?」
「両方だ。ヘンタイドライバーめ」
「わー、ごめんなさいー」
 おどけて両手を上げるリチャードに、私は目を怒らせる。
「こら、ハンドルから手を離すな」
「だって智子さん、全然僕の相手してくれなくて寂しいんだもん」
「二十六の大人が寂しいんだもんなんて言わないの」
「いくつになっても寂しいものは寂しいんだもんー」
 これでデニスより七つもお兄さんだなんて信じられない。リチャードは実に正直に感情を口にする。
 文句をつける私とぽんぽん言い返すリチャード、なんだか遊んでいるみたいな言い合いをしてしまう。
 まったくこの人はと窓に向きなおって、私はふと腕時計の針が指す時間に気づいた。
 リチャードは私の目の動きで思ったことを読み取ったのか、のんびりと言う。
「あと十分くらいで着くよ」
 時計では、ホテルを出発して二時間以上経っていた。おしゃべり好きのリチャードなのに、その間ずっと黙っていてくれたようだった。
 私はリチャードに言わなかったけど、今日は時差ぼけでだいぶつらかったから、寝かせてくれてありがたかった。
 お礼の一つでも言った方がいいのかな。そんなことを思って、言葉を選んでいたときだった。
 リチャードはなぜか含み笑いをして言う。
「今、雨止んでるから窓開けていい?」
 私は首を傾げながらうなずく。
「いいけど。寒くない?」
「おっけー。じゃ、開けるよー」
 リチャードは上機嫌でウインドーを下ろした。
 途端、がくんと前のめりになる。
「……な」
 ジェットコースターの一番高いところに来たような気分だった。
 そこは急斜面で、坂の真上から私たちを乗せた車は勢いよく滑りだす。
「ちょっ、リチャード、ブレーキ!」
「ははっ。そんなの踏んだらかえって危ないよー」
 リチャードは笑いながら拒否して、車はほとんど落ちるようにして坂を走っていく。
「車で遊ぶな!」
「聞こえなーい」
 ピイと口笛を吹いて、リチャードは喉を鳴らして笑っていた。
 窓から風がビュンビュン入ってくる。真冬の寒さなんて感じている暇はない。
 窓を開けたがった理由はこれか。私はリチャードを睨んだけど、時すでに遅し。
 時間にして数分のジェットコースターを終えて、リチャードは言った。
「イングランドって山がない代わりに丘が多くてね。その丘を切り開いたからこんな愉快な地形になってるの。わかった?」
「思い出したような解説をありがとう」
「喜んでもらえて嬉しいな」
 一応喜んでないと文句をつけたものの、子どもみたいなリチャードには届かなかった。
 本当に十分ほどで、車は小さな村の駐車場に着いた。
「ボートン・オン・ザ・ウォーター村に到着―」
 リチャードが手を広げて、それからこいこいと手招きする。
 リチャードと高い石垣に誘いこまれるように小道を行くと、視界が開けた。
 立ち並ぶ一戸建ての家々を見た瞬間、思わず私は笑ってしまった。
「ふふ」
「なぁに、智子さん?」
「童話の中に来たみたいだなぁって思って」
 ここは、子どもの頃絵本で読んだ世界のような村だった。
 背の低い家々、かわいらしい庭、じゅうたんを広げたみたいな原っぱ。そこで遊んでいる動物たちが目の前に蘇る。
「ピーターラビットとかクマのプーさんが、その辺から出てきそう」
 デニスが教えてくれたから調べたことがある。実際は、ピーターラビットは湖水地方、プーさんはアッシュダウンフォレストがモデルで、こことは一つ一つ由来が違う。
 でも絵本の中に広がっていた同じ色彩が、辺り一面に散らばっているみたいだった。
「似てるかもね。イングランドの小さい村は、いくつも童話になってるから」
 リチャードももちろんそれぞれの由来のことはわかっているのだろうけど、私の言葉に頷いてくれた。
 道路を挟んだ向こう側に小川が流れていた。その両端を弧を描きながらつないでいる橋で、私は手すりに頬杖をつく。
 風の向こうに立ち並ぶ家々をみつめながら、子どもの頃の自分に話しかけるように言う。
「言葉の一つずつはもう覚えてないけど、素敵な物語だったのは忘れてない。今も好きだよ」
 子どもの頃大好きだった絵本をもう一度開くように、歩き出すことにした。
 木々の間に小川が流れて、こじんまりとした可愛い家が建っているだけで、きらきら輝く宝石やお城はない。でもその光景の中を歩くのは優しい気持ちになれた。
 道の向こう側を見ながら隣を歩くリチャードにたずねる。
「あれがコッツウォルズ地方の名物、はちみつ色の石壁?」
「そうだよ。どこの家も大体この色なんだ」
「はちみつっていうよりは、バターみたいだけど」
 金色に近い色をしている家々の壁を見ながら、私はそれに近い言葉を探す。
「でもそっと光ってるところは、はちみつに似てるね」
 それは黄金や宝石とは違う、淡くてささやかな光の色だった。
――懐かしいっていう気持ちは、切なさに似てるよね。
 私は一息ついて、いつかのデニスの言葉に目を細めた。
 デニスの言葉の意味が今少しだけ理解できた。望郷の心は確かに切ない。
 幼い頃に好きだった光景は、ずっとそのまま残しておきたいと願う。それは他に代えることのできない宝物だから。
 たぶん永遠に同じなんてことはないのだけど、どこかに残ったまま自分を待っていてほしいと思う。
「あ……」
 小川の脇道を歩いているうちに、雨が降って来た。
 私が慌てて傘を広げるのに、リチャードはのんびりと構えている。私は不思議になってたずねた。
「傘ささないの?」
「うん」
 リチャードは別段気にしていない様子でうなずく。
「持ち歩く癖ないもん、傘。僕のことは気にしないで」
 そうはいっても濡れてしまう。私は一つ頷いてリチャードに持っていた傘を押しつけた。
「これ貸すから。差しなさい」
「え、じゃあ君どうするの?」
「私にはこれがある」
 私はバックパックからレインコートを取り出して被った。
 もぞもぞと着こんで、リチャードを見上げる。
「さあ行こうか」
「こういうのなんだっけ……ああ、そう」
 リチャードは私を頭からざっと見回して呟く。
「座敷わらし」
「私とレインコートに謝れ」
「だって」
 くっくっと笑って、リチャードは私に傘を差しかける。
「二人で入ればいいだけでしょうが。さあご機嫌を直して、お嬢さん」
 二人で傘に入って歩くのは、経緯さえなければロマンチックなのに、全然そんな気にならなかった。
 私がむっつりしていると、リチャードは私を宥めながら言う。
「君の優しさって面白いなぁ」
「面白いとは何だ、面白いとは」
「ほめてるのに」
 リチャードは傘を差して歩きながら、少し先の小さな看板の店を指さす。
「しょうがない。お兄さんがチョコレートでも買ってあげよう」
 リチャードが入った店は日本でいう駄菓子屋さんのような所で、小物とお菓子が売っていた。
 それとお菓子の棚の半分がチョコレート菓子で、フレーバーからトッピングまでいろいろだった。
 私は値札を見ながら首を傾げる。
「心なしか高い」
「チョコレート税がかかってるからね」
「え、なんで?」
「んー、肥満防止だったっけ? チョコレート好きなんだよね、みんな」
 リチャードも少し首を傾げていたから、あんまりみんなチョコレートを買い控えようという気がないようだった。
 リチャードは棚と私を見比べて言う。
「おもいきり甘いのにしよう。うちのお姫様の機嫌が早く直るように」
 結局リチャードはチョコレートでコーティングされた、見るからに甘いクッキーを買ってくれた。
 外に出ると、雨は霧雨になっていた。私はとびきり甘いチョコレートクッキーを食べ終えると、またぼちぼちと二人で歩く。
 果たしてリチャードの思い通りになって悔しいけど、機嫌はすぐ直った。本当にものすごく甘いチョコレートだったから。
 まもなく傘が要らないくらいの弱さの雨になっていて、私は道の端に小さな建物をみつける。
「あ、ちょっとそこに入っていい?」
「もちろん」
 そこは郵便局で、私は棚の間を歩きながら絵葉書を選ぶ。
 リチャードはのんびり歩きながら私にたずねた。
「誰に送るの?」
「田舎のおじいちゃんとおばあちゃん」
 私は一枚の絵葉書を手に取る。日本にいた時は現実にあるとは思えなかったような、まさに絵のようなコッツウォルズの風景だった。
 ここで一つ問題なのは海外だということで、私はガイドブックを開く。
「ええと……郵便の送り方は、あ」
 そんな私の手から、リチャードはひょいと本を取り上げる。
 リチャードはビジネス本のような波のない口調で言う。
「文面と住所を日本語で書いて、あとは大きく『BY AIR MAIL』と書きます。それを窓口まで持って行って、切手を買って貼って、ポストへ入れます」
 私はリチャードを見上げて首を傾げた。
「ありがとう。でもどうしたの? 自分で調べるのに」
「ふん。僕がいるのにガイドブック開く智子さんが悪いんだ」
 すると拗ねた感じでリチャードが口をへの字にした。
 子どもなんだからと思いながら、私はリチャードを宥めにかかる。
「わかったよ。ごめんごめん。今度からリチャードに訊くから」 
 まあ子どもというなら、私とお互い様かも。そう思って、数歩分しかないこじんまりとした郵便局の奥へと向かう。
 私は絵葉書を差し出しながら店員さんに言った。
『エアメールです』
『67ペンスよ』
 銀縁眼鏡のおばちゃんが切手を取り出しながら返した。
 私は財布を開いて、たらっと冷や汗をかいた。
 イングランドの小銭は数字が記載されていないものが多い。しかも慣れない硬貨なものだからさっぱり区別がつかない。
「えと」
 たぶんサイズ的に大きいものの方が価値も大きいはず。そんなあてにならない知識と一緒に、私は小銭を手のひらの上に出して考える。
 おたおたしながら私がいくつかの小銭を選んで差し出すと、おばちゃんは明るい声で言った。
『あら。よくできたわね』
「おお。確かに67ペンスだ」
 横からリチャードも覗き込んで頷く。
 おばちゃんはにこにこして受け取りながら言う。
『ありがとうね、お嬢さん』
「ど、どうも」
 手をひらひらさせてバイバイと言ったおばちゃんに思わずお礼を返して、私は窓口を離れた。
 私がまだ心臓を押さえながらうろうろしていると、リチャードが首を傾げて私にたずねた。
「どうしたの?」
 私は切手を貼って絵葉書をポストに入れてから、そろりとリチャードを見上げた。
「東洋人ってそんなに幼く見えるのかな?」
「まあ、一般的にはね」
 リチャードは私の頭をぽふぽふ叩いて言う。
「でも君が幼く見えるのは、君が童顔だからだね」
 私はむすっとして口をとがらせる。
「真実だからって言っていいことと悪いことがあると思わないかな?」
「君が訊いたからじゃんー」
 リチャードはけらけらと笑って、また私たちはご機嫌と不機嫌の行き来を繰り返す。
 二人で外に出て、街を川沿いに歩いた。
 すぐ上下する私たちとは違って、私たちを囲む街は眠気を誘うくらいのんびりとした空気が漂っていた。





 小さな村を一時間くらいで一回りして、私たちは駐車場に戻ってきた。
 私は霧雨の中に佇むはちみつ色の家々を、一枚写真に撮って出発することにした。
 車に乗り込んでまもなく、リチャードは私にたずねる。
「イングランド最初の観光、どうだった?」
「古き良き村だった。デニスの言った通り」
「ふむ」
 リチャードは私の言葉に頷いて、ちょっとだけ考えたようだった。
「ただね、古いだけでもないんだよ」
「どういうこと?」
「黄色い看板と漢字を見かけなかった?」
 そういえばと私は首をひねる。彼の言う通り、その光景は少し異質な感触で私の中に残っていた。
「あったね。あれは何?」
「中華料理屋さん」
 私が少し驚いてまばたきをすると、リチャードは続ける。
「イングランドは移民が多いからよくある風景なんだよ」
「そういえば……」
 私はふと思い返して言う。
「デニスは、田舎の風景に異質な光景が混じるのを気にしてたみたいだ」
「あの子はそれが良いとか悪いとは言わなかったけど、正統とか純粋ってことにこだわりがあったからね」
 動き出す車の中で、私はふとリチャードに訊いてみたくなった。
「リチャードは?」
「うん、僕?」
「外から入って来たものはよくないと思う?」
 気安い性格で忘れそうになるけど、デニスの兄ということは彼にも青い血の自負があるはずだ。
 リチャードは目をくるりと動かして苦い顔になった。
「君は時々すごく鋭い疑問を投げかけてくる」
 リチャードは一息ついてよく自分の中で整理したようで、私に答えるには時間がかかった。
「あのね、智子さん。そのことに良い悪いを答えるのは、今の時代にはしちゃいけない」
 リチャードは年上のお兄さんが弟や妹に教えるように言った。
「僕は社会で働いてるけど、その中で先祖代々イングランド人なんてたぶんもういない。地下鉄に乗ってもごっちゃまぜ。もし混じりたくなくても、もうとっくに混じってるの。世界はそういう形で、僕たちはそこで生きている」
 そこでリチャードは口元を歪める。
「ただ、感情は事実に伴っていかなくて。どれほど気を付けたとしても……僕も異質というものを怖がって、攻撃する。それが差別というもので、現実にまだある。さっきみたいに」
「そっか……」
 リチャードはため息をついて一言添えた。
「……それで、後悔する。今みたいに」
 私もうつむいてリチャードの言葉を心で繰り返した。
 私はリチャードほど難しい言葉で表現できそうになかった。だから顔を上げて答えた。
「ううん。きっとそれが正直で、真面目な答え。私は考えたこともなかった」
 リチャードに振り向いて、私は続ける。
「私はリチャードの心の奥まではのぞけない。でもリチャードがチャーハンもカレーも好きなことは知ってるよ。寿司もね」
「……君は」
 リチャードは私の言葉に一瞬喉を詰まらせて、苦い表情を消した。
 リチャードはくすっと笑って言う。
「うん、そうだよ。お寿司大好き」
 口調は子どもっぽいのに妙に優しく笑うから、私はなんとなく言葉を付け加える。
「……一応言いますが、日本人はいつも寿司ばかり食べてるわけではございません」
「はいはい。知ってます」
 子どもをあやすように言ってから、リチャードはまた笑った。
「僕も君について知らないことはたくさんあるけど、よく知ってることもあります」
 リチャードは独り言のように言って、切り替えるように話題を変えた。
「さて、次の目的地に行く前に、どこかでお昼食べていこうか。何食べたい?」
 私はうーんとうなってから、素直に思いついたものを答えた。
「じゃあせっかくなので、有名なイングランド料理をお願いします」
「有名っていうとあれだね。了解」
 車を東に走らせながら、リチャードは頷いた。
 牧草地の間を道路が時折曲がりながら走っていた。一本道で、枝分かれすることはめったにない。
 だからその中で分かれ道があったのが珍しくて、私はついそれを目で追った。
 リチャードは私の視線の先に気づいて言った。
「ここを北に行くと、ストラトフォード・アポン・エイボンだよ」
「ああ、シェイクスピアの故郷だっけ」
「そーそ。君は彼の作品でどれが好き?」
 私は首をひねって考える。
「あんまり知らないよ。でも『十二夜』が好きで、一気に読んだ」
「知らないわりにはマニアックなところを突くな」
「デニスが最初に貸してくれた本なんだ。私がシャイクスピアは難しそうって言ったら、「じゃあこの辺りから始めてみなよ。脚注を飛ばせばすぐに読めるよ』って教えてくれて」
 そうしたら意外なほどさらさらと読めた。男装した女の子を中心としたおかしみのあるストーリーに、すぐに取り込まれた。
 リチャードは愉快そうに笑って何度もうなずく。
「なるほどね。デニスらしいな」
「どの辺が?」
「あの子、悲劇より喜劇の方が圧倒的に好きだったんだ。シャイクスピアで一番好きな作品も、『真夏の夜の夢』だったし」
「ちょっと意外だ」
 デニスはシェイクスピアの現存する本すべてを読んで、台詞すら空で言えるくらいだった。もっとマイナーなものを選んでくるかと思っていた。
 リチャードはええとね、と思い出すように言う。
「すごくパックが好きだったみたい」
「妖精パック? あの悪戯っ子でハチャメチャなことをする?」
「うん。彼みたいな存在になれたら、違う世界が見えただろうなって」
 パックは登場人物たちを混乱させる困った子で、けれど憎めない、どこかかわいらしい妖精だった。彼の登場は、読んでいて楽しかった。
「パックかぁ。デニスとは似ても似つかない。どっちかっていうとリチャードみたいだ」
「そう? 僕、学校の劇でパック演じたことあるんだぁ」
「誰が選んだかわからないけど、君にぴったりだよ」
 私は笑ってうなずき返しながら言う。
「リチャードはどの作品が好き?」
「『ロミオとジュリエット』ー。やっぱさ、誰だって一度はバルコニーでロミオとジュリエットごっこするでしょ」
 私はそんな馬鹿なと呆れて言い返す。
「しないよ。考えたこともないよ」
「えー、僕三回くらいやったよ。男友達でだけどさ。ちなみに全部僕がジュリエット役」
 つくづく愉快な人だと思っているうちに、車はまた小さな村に着いた。
 今度は石垣がなく、大きな道路も通っている村だった。家はベージュかこげ茶の壁で、大きくも小さくもない高さで整然としていた。人通りも多くて、雨だというのに皆傘もささずにさっさと歩いていた。
 リチャードについていって坂道を上っていくと、人魚の形をした看板があった。
 外に置いてあるメニューを読もうとしたけど、字体が崩してあるから私には難しい。
 リチャードは安心させるように私に言う。
「大丈夫。君が頼みたいものはちゃんとあるから」
「そっか」
 リチャードがそう言うならと、私はリチャードと一緒に店の中に入った。
 カウンターの向こうに店員のお姉さんがいた。彼女はリチャードが近付くとちょっと身を乗り出してあいさつをする。
 注文を取る間、お姉さんはにこにこしていた。私にとってイングランドの人は親切だけどクールな印象で、お姉さんみたいに愛想全開な人は初めて見た。
「智子さん、次君だよ」
「うん」
 私は前に進み出て、お姉さんに注文をした。
 店員のお姉さんは気安く頷いて了解してから、ちょっと私に顔を寄せて小声でたずねた。
『彼、あなたのボーイフレンド?』
 男だし友達なのも間違いないが、この場合のニュアンスは彼氏という意味だ。
『友達のお兄さんです』
『あら、それは複雑な関係ね』
『あ、はい』
 私は頷いてリチャードが既に掛けている席へと向かう。
 リチャードは私が座るのを待ってから私にたずねた。
「何話してたの?」
「リチャードが友達のお兄さんだって言ったら、複雑な関係ねって」
「おっと」
 私が要約して答えると、リチャードは苦笑した。
「To two-timingじゃないんだけどな」
「何それ?」
「僕と君は悪いことはしてません。君との年の差がちょっと犯罪的に見えるだけです」
 なんだかリチャードにはぐらかされて意味がわからないまま、しばらくして食事が運ばれてきた。
 私はその料理を見るなり、ごくりと息を呑んで言う。
「こ、これがかの有名なフィッシュアンドチップス」
「ええ、イングランドのファーストフードですよ」
 イングランド料理で真っ先に名前が挙がるというそれは、白身魚とポテトのフライがセットになっている料理だ。
「……大きい」
 魚は大皿の端から端まであって、フライドポテトは山盛りで、つい私はのけ反ってしまった。
「普通こんなもんだよ。まあいっぱい食べなよ。君の背もちょっとは伸びるかもしれない」
 こっちの人にとってはこれが標準サイズなのか。あまりの驚きで、リチャードの軽口に怒る気にもならない。
「いただきます」
 見ているだけでは何なので、私はナイフとフォークで切り分けて食べることにした。
 ぱく、とひとくち口に放り込んで、飲みこむ。
 私は思わず顔を明るくして言った。
「意外だ。おいしい」
 魚はカラッとあがっていて、ほどよい塩けの味わいだった。リチャードも向かい側で食べながら苦笑する。
「喜んでいいのか微妙なコメントだね」
「ごめん」
「いやいや。わかってるよ。これが余所でどんな評判かは」
 失礼ながら、まずくて有名な料理だと聞いていた。それはもう、目を覆うほどの批判の数々があちこちに氾濫していた。
 リチャードはそつなくフォークを操りながら念を押す。
「ちゃんと店を選べば美味しいということが理解して頂けたでしょうか」
「よくわかりました」
 イングランド料理とコックさん、ごめんなさい。私はひとまず心の中で謝って、ネット情報はいろいろだなと思っていた。
 さすがに大きすぎて全部は食べ切れなかったけど、フィッシュアンドチップスも、一緒に出てきた紅茶もおいしく頂いた。
 食事を終えて、私はそっと小声でリチャードを呼ぶ。
「リチャード」
「なぁに?」
 お会計をする前に、私はこれだけは訊いておかなければと言う。
「ここってチップ要る?」
「いや、ここはいらないよ。まあ別に払いたければ払えばいいけど」
 どういう区別をしているのかは不明ながら、リチャードは即答してみせた。フィーリングでわかるのは、さすがチップに慣れた国の人だった。
 お会計を済ませて、ダウンコートを着込んでから席を立つ。
 リチャードが店員のお姉さんに何か言って、お姉さんが諦めたように手を上げたのが見えた。
 近くのお店に入る前に、私はリチャードにたずねた。
「さっき、店を出る時何て言ったの?」
 お母さんへのお土産である刺繍キットを選びながら、ふと気になったことを口にする。
 リチャードはにっこり笑って胸を張りながら言った。
「『彼女と駆け落ち中だから僕のことは諦めて』って言ったの」
「……なんかもう、どこから直していいのかわからない」
 恥ずかしくて二度とあの店に行けない。
 私がそう文句をつけたら、リチャードは鼻歌を歌いながら、だって二股じゃないもーんと言い返した。
 私は坂道の上からお店を振り向いて、雨でけぶる淡い家々の光景を後にした。






 午後からはさらに東に行って、オックスフォードに着いた。
 リチャードは車から下りて立ち止まると、私に説明してくれる。
「オックスフォード大学という大学はなくて、各カレッジの総称がオックスフォードなの」
「ふむ」
「では、大学はどこかということですが……」
 リチャードが見回した先を私も見て、私は彼の言葉の意図を察した。
「この街全部が大学です」
 そこは高い建物が辺り一面に立ち並ぶ、日本でいう官庁街のような所だった。
 官庁街と違ったのは、どこもかしこも古いということだった。中世の頃の建物が崩れずに要塞のように立っている。石畳は隅々まで整備されて縦横無尽に走っている。
 コッツウォルズがはちみつ色だとしたら、ここはグレーの街だった。それは石畳の色で、そこには歴史の重みが詰まっているように見えた。
 街には博物館も服のお店もあった。生活に必要なものだけじゃなくて、学生の趣味や楽しみも至るところにあふれていた。
 私はきょろきょろ辺りを見回して歩きながら言う。
「デニスもリチャードも、オックスフォードのカレッジ出身なんだっけ」
「うん。デニスは入学してすぐ日本に留学しちゃったけど。……あ、危ないよ」
 リチャードは私をくいと引っ張って寄せる。その後を、すごい勢いで走り抜けていく自転車があった。
 一度周りを注意深く見てから、リチャードは私にゴーサインを出す。
「ただ、デニスはオックスフォードのプライマリーにも通ってたから、思い出は多い街だっただろうね。あ」
 リチャードはふと目を留めて小さく声を上げた。
 私たちが通りかかった聖堂の周りで、楽器のケースを持って集まっている小学生くらいの子どもたちがいた。
「これから演奏会かな。おお、緊張してるね。がんばれー」
 目を細めるリチャードが誰を重ねたのかはわからないけど、私は子どもたちにデニスの面影を見た。
 制服を着てちょっとおすましした子どもたちを見ていると、デニスにもあんな頃があったのかなと思う。
 私はすれ違いざまに子どもたちを見送って、リチャードにたずねる。
「デニスはどんな学生だったの?」
 その問いに、リチャードはいつものように気安く答えなかった。
 リチャードは考え込んで、ぽつりと答える。
「……優秀すぎて、兄ながら見ているのがつらいときもあった」
 リチャードはため息橋と呼ばれている石作りの建物を見上げながら答えた。
「神童って言われてたけど、デニスは努力家だったよ。優秀じゃないところを見せないように、異常なくらい努力してた。きっと周りの期待が重いときもあったに違いないのに、期待をかければかけるほど、それに見合うものを返し続けて」
 私たちは緩く曲がる大通りから、脇の細い道に入った。
「デニスが唯一周りの言うことを聞かなかったのは、日本へ留学したことくらいかな」
 私はつとリチャードを見上げる。彼は慌てて手を振る。
「ご、ごめん。日本が悪いんじゃない。ただそのときもうデニスは病気だったのに、遠く離れた国へ行くのは心配で」
「いいんだ。周りの人たちの気持ちはわかる」
 病気でなくとも、国内最高峰の大学に入学して今まさにエリートコースへ入ろうとしている少年が、突然極東の国に行くと言い出せば誰だって驚く。
 私だってそれはずっと不思議だったから、デニス自身に訊いたことがある。
――デニスはどうして日本に来たの?
 デニスは私の問いに淀みなく答えた。
――似ているんだ。あと、好きだからかな。
 そのときデニスは短く言葉を切って、静かに目を閉じた。
――どうしてだろう。理由はいろいろ自分の中で考えた。でも何度考えてもそこに行きつくんだ。似てて、好きなんだよ。
 考えに沈んでいた私に、リチャードが声を上げた。
「智子さん、怒ってる?」
 しゅんとした声に気づいて、私は顔を上げる。
「どうして?」
「僕が日本を悪く言ったから」
 横を見ると、リチャードが気落ちした様子で私を見ていた。
 私は笑って首を横に振った。
「気にしないで。ちょっと考え事してただけ」
「ごめんね」
「いいよ」
 英語圏の人は簡単に謝らないって聞いたけど、そうでもないみたいだった。謝るときを、自分の中でちゃんと選んでいるんだろう。
 リチャードはしばらくしょんぼりしていたけど、何度か話している内にいつもの調子を取り戻していった。
 ふいにリチャードのポケットから着信音が鳴って、彼は私に断って携帯に出る。
「ちょっとごめん。会社から電話」
「うん、ごゆっくり」
 リチャードが電話している間に、私はガイドブックを開いた。
 オックスフォードは予想以上に広い街だった。行きたい場所をきちんと決めて地図を見ながら進まないとわからなくなりそうだ。
 この道を行って、次は……と思い描いていたら、声をかけられた。
『どうしました?』
 私が斜めにしていたガイドブックを下げて見上げると、アジア系の大学生らしい男の人だった。
 大学生の人ならこの辺りに詳しいに違いないと、私は道をたずねることにした。
『ボドリアン図書館に行きたいんですが』
『ああ、それはね』
 お兄さんは私にもわかるようにゆっくりと、単語を区切って説明してくれた。
『そこまで一緒に行こうか? 初めて来たところはわかりにくいでしょう?』
『えっと』
 二人でガイドブックを前にあれこれと話していたら、ふいにリチャードの声が割り込んでくる。
『大丈夫です。僕が案内しますから』
 リチャードが硬い声音でお兄さんの案内を断るので、私は怪訝な顔をしながらもお兄さんに言う。
『ありがとうございました』
『よい旅を』
 黒い瞳のお兄さんはちらっとリチャードを見てから、にこやかに去っていった。
 お兄さんが去った後、リチャードは腰に手を当てて私にめっと言う。
「人通りの多いところでぼんやりしてちゃ駄目でしょ。ナンパされるよ」
「イングランドの人はナンパしないよ」
 私が不確かな知識で言い返すと、リチャードはぴしゃりと言い切る。
「するよ。イングランド人の半分は男だよ。女性だってするし」
「私にはしないよ」
「しーまーす。いいから気をつけなさい」
「わかったよ。気を付ける」
 一体何の話だと周りから見られてるだろうなと思いながら、私はとりあえず頷いた。
 リチャードは厳しいところは厳しい。メールをしていた間でも、言い返すときははっきりと言い返す人だった。
 でも見知らぬところでぼんやりしてるのは確かに危ない。ちょっとうかつだったかなと反省していると、リチャードはにこっと笑った。
「ま、僕がいるけどね」
 子どもっぽく胸を張る彼に、私ははいはいとうなずく。
「頼りにしてるよ」
「でしょ?」
 リチャードの機嫌もそれで直って、私たちの間に元のような空気が戻ってきた。
 やがて私たちは高い門をくぐって建物の中に入ると、ボドリアン図書館にやって来た。
 値段表を見てみるとなかなかのお値段で、私は一瞬ためらう。
「う。高い」
「せっかくだから入ろうよ。ちょうど今からだし」
 観光地なんだなぁとため息をつきながらも、リチャードの言うとおりここまで来たことだし入ることにした。
 ガイドさんが先頭を歩きながら、私たちはその説明を受ける。
『はい、みなさんこちらへどうぞ』
 ガイドさんは早口で英語を話すので説明の細かいところはわからない。でも幸い、時々リチャードが訳してくれるのでなんとなく理解できた。
 図書館の中は本棚に古い本がぎっしりと詰まっているだけでなく、外界を閉ざすような壁で空気さえ密度が高いように思えた。実際に学生が机で勉強していて、私は音を立てないようにそろそろと歩いた。
 ふいに立ち止まって、私は天井を仰いだ。
 天井には色鮮やかに絵が描かれていて、柱まで装飾されていた。ランタンで照らしたら、ここは本当に中世そのままの光景が再現できるのだろう。
 ふとデニスの言葉が頭をよぎる。
――ボドリアン図書館には、よく行ったよ。
 この中でデニスも勉強したんだ。今同じ場所に立っている自分が、少し不思議だった。
――文字となって無限の時間が残っているんだ。じっと本をみつめていると、時間さえ遡れる気がした。
 デニスは時間をさかのぼりたかったのかなとも考える。
 彼には時間がなかった。いくら天才でも、超えられないものがあった。
 どれほど歯がゆかっただろう。私は天井から目を逸らして俯いた。
 そんなに長い時間じゃなかったはずなのに、時の動きがいつもと違っていたようだった。
 リチャードの声で我に返るまで、どこか遠い世界に行ってきたような気分だった。
「智子さん?」
 気づけばツアーが終わっていて、私は現在の自分を取り戻す。
「疲れた?」
「大丈夫。行こ」 
 私がうなずくと、リチャードは案内を再開する。
「あっちがラドクリフ・カメラ。地下で図書館とつながっててね。中は図書の閲覧室になってるの」
 ドーム状の均整のとれた建物が目の前に見えていて、私は彼に続く。
 リチャードの案内で、いろいろな建物を紹介してもらいながら歩いた。オックスフォードのカレッジにはそれぞれ聖堂や図書館がついていて、そこは一つずつの世界が作られているようだった。
 脇道に入るとどこか別の世界に入っていきそうな気がした。それは面白そうで、どこか恐ろしい。私はリチャードとはぐれないように横を歩いていた。
 建物から外に出て大通りに入ると、リチャードはつと向かい側の道を指す。
 赤く塗られた、ドールハウスみたいなお店が見えていた。
「あれがアリスショップだよ。ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のね。入ってみる?」
「かわいい店だね。うん、行ってみよう」
 道を横切って、私たちはそのお店に足を踏み入れる。
 二人で手を広げたらいっぱいくらいの小さなお店には、所せましとばかりにアリスにちなんだグッズが売られていた。
 私は通路を通りながら辺りを見回して言う。
「子どもの頃はアリスの物語が怖かったな」
「そうなの?」
「うん。なんだか不気味で」
 挿絵の絵葉書を眺めながら、私はぽつぽつと話す。
「マッド・ハッターが怖かった。なんでこの人、こんな胸をひっかくことを言うんだろうと思ってた」
「君の感覚は正直だよ。アリスの物語は「ナンセンス」だから」
 私が首を傾げると、リチャードはいくつかの言葉で言い換えて教えてくれた。
「理解できない。意味不明。ちょっと視点を変えると、ディスコミュニケーション」
「ディスコミュニケーション?」
「コミュニケーションがそもそもできないことなんだ。アリスの迷い込んだ世界は異世界で、何もかもがアリスの常識とは違う。だから会話がどこまでも平行線になってしまう」
「難しい……けど、何となくわかる」
 私は少し考えて、じっとリチャードを見る。
「つまり、言葉は通じてるのに心が通じない感じ?」
「そうともいえるかもしれないね」
「なるほど」
「よしよし。よく考えた」
 リチャードに頭を撫でられて、私は頭の端で思う。
 デニスとは言葉は通じていたけど、心は通じただろうかと、ぼんやりと考える。
 不思議なことにデニスは私の考えていることをぴたりと当ててみせたけど、私はなかなか彼のことがわからなかったものだ。
 お店を出てから、リチャードは私にたずねた。
「ちなみに、大人になってからアリスを見てどう思った?」
「うーん、相変わらず違和感はあったけど」
 指を立てて、私は自信満々に返した。
「映画のジョ○ー・デップがかっこよかったから、あんまり気にならなかった」
「あはは。違いない」
 それから二人で門をくぐって、ひときわ立派な聖堂の建物に入った。
 スータン姿の神父さんが足早に通っていく。荘厳という言葉が似合う、堂々とした聖堂だった。
 リチャードはちょっと足を止めて言う。
「はい。ここはオックスフォードのエリート生が集うカレッジ。クライストチャーチ」
「デニスの入学したカレッジだね」
 私たちが入ってすぐのところに中庭が広がっていた。サッカーどころか野球くらいできそうな、だだっ広い芝生が見渡せた。
 それはさておき、と私は目を輝かせる。
「確かイングランドのクライストチャーチって、あの魔法学校の映画のロケ地だったよね」
「ああ、著作権の関係上名前を言えないあのファンタジー? 君好きだったよね」
 リチャードが悪戯っぽく言うと、私は大きく頷き返す。
 リチャードは私につられて笑いながら続ける。
「だったらさっきの図書館も写真に撮ればよかったのに。あそこもロケ地でしょ」
「ガイドさんが早くてその暇がなくて」
「じゃあ今度こそ写真に収めなよ」
 リチャードの言う通り、私は写真に撮れそうな場所を探し始めた。柱の陰、曲がり角、どこも見覚えがあって興奮する。
 私は石作りの階段の下に来て、思わず震える。
 あのシーンだと心が飛び跳ねる。
「リチャード、こっちこっち!」
 私は階段を駆け上がってリチャードを招く。
「ここに校長先生が立っててね、そこにトムがいるの」
「なかなかマニアックなシーンをチョイスするな」
「撮って! このポジションで」
 興奮してカメラを渡す私に、リチャードはくすりと笑う。
「仰せの通りにしますよ。ハーマイオニー」
 リチャードがカメラを構えた瞬間、ふと私は我に返る。
 自分で表情が凍ったのがわかった。脱力するように床に目を落とす。
 リチャードも私の変化に気づいたようで、カメラを目から外す。
「どうしたの?」
 リチャードが階段を上ってくるけど、それに応える余裕がなかった。
「……ごめん。すぐ戻るから」
 私はリチャードの横を通り過ぎて、早足で階段を下りる。
 中庭を横目に聖堂の中に入った。人のいない奥まで来て、ぺたんと床に座る。
 ……さっき、私は何をしていたんだろう。
 ここにはデニスの姿を探しに来たのに、自分の楽しみばかりでいっぱいになっていた。
 必死でみつけなければいけない。時はどんどん流れてしまう。デニスが古い時に押し流されてしまう。
 もう一度、君をみつけたいと願ったはずだった。そうしたら、今度こそ私は君を離さないと。
 床の冷たさも感じないままに、私はじっとそこにうずくまっていた。
 どれくらい時間が経ったのか、私の目の前に屈みこんだ影があった。
「離れちゃ駄目だよ。会えなくなったらどうするの」
 リチャードは私の前で、私をのぞきこみながら言う。
「何を考えているの。話してごらん」
 緑色の鮮やかな目で、リチャードはじっと私をみつめる。
 私は何かを考えたつもりはなかった。ただ感情のカップに入りきらなかった言葉を、ぽとりと落としたように言った。
「私、はしゃいで、笑ってて」
「うん」
 頷くリチャードに、私は続ける。
「でもデニスは二度と好きだった本も読めない。綺麗な建物の中に立てない。笑えない」
 私は口元を歪める。あふれだした感情に哀しみの味が混じる。
「私は何をしに来たんだろう……」
 呆然と呟いて俯いた。きっとこれは、自己嫌悪だった。
 そんな私の頬に、ふいに頬に温もりが宿る。
 顔を上げると、リチャードが私の頬を両手で挟んで私を見ていた。
「君は好きなものを見て、好きなように過ごせばいい」
 リチャードは諭すより優しく、私に話しかけてきた。
「悲しくなったら泣けばいいし、楽しければ笑えばいい。何もかも、君の思うようにすればいい。君は生きてるんだから」
 ふいににこっと笑って、リチャードは首を傾ける。
「でも、僕は君を楽しませる。笑わせる。僕はそのために君に会ってるんだから、それも止めないでよね?」
 私の手を取って助け起こす。少しよろめいた私を、リチャードはしっかりと立って支えた。
 ぽんと私の両肩を叩いて、リチャードは元気づけるようにうなずいた。
「見せたいものがたくさんある。泣いたって笑ったっていいから、僕と行こう」
 どこかで鐘の音が聞こえていた。
 私はリチャードの手の温もりに促されるようにして、こくりとうなずいていた。