星が瞬いていた。
 ぼろきれで作られた担架に、仰向けに寝かされた彼のかすかな記憶は、そう覚えていた。

「急げ、急げ!」
「海に沿って走れ、布を濡らすな! 水にこの人を浸けた奴はただじゃ済まさねえぞ!」

 砂の上を、何人もの男達が踏みしめる音が聞こえた。
 その振動で、彼の意識は少しずつ現実に引き戻されてきた。
 視線をわずかに下にずらすと、必死に彼を運ぶ男の後ろで、海の端が燃えている。よく見てみれば、それは帆であり、甲板であり、船体であった。
 懐かしい我が家の死にも似た感情を覚え、彼は唇を噛みしめた。

「連中、沈んだ船に目が行っています……小舟だけは回収したし、この調子なら……」

 彼を引き連れる男達も、同じ感情のようだった。
 その表情に余裕はなかった。ただただ息をひそめ、暗い闇を隠れるように走っていた。

「――いたぞ、いたぞ!」
「依頼主からの命令だ、呪われた男だけは生け捕りにしろ!」

 だが、ちかちかと光る何かと、複数の足音が彼らを捉えた。

「ちくしょう、あいつら追ってきやがった!」
「一時間も走れば隠れ家の洞窟がある、そこまで逃げ込めば問題ない! それよりも、もっとしっかりと船長(キャプテン)を服で包め! 水に濡れたら一巻の終わりだぞ!」

 砂浜を走る男達は、焦っていた。
 焦るあまり、砂浜の中心ではなく、海に近いところを走った。足元も見えない中、彼を運ぶ男のうちの一人がつい、水の中に足を踏み入れてしまい、水しぶきが跳ねた。波の一部が宙を舞い、寝そべる男の腕にかかった。

「うぅ……あ、があぁあ!」

 ただそれだけだというのに、男は骨を焼かれたかのような悲鳴を上げた。
 喉の奥から響く声を聞いて、男たちは思わず足を止めた。

「船長!」
「何やってんだ、お前らの服をよこせ! なるべく乾いた服だ!」

 誰一人嫌な顔をすることもなく、びりびりに服を破き、彼らは船長、と呼ばれた男の腕や体を包んでいく。未だ顔は苦悶に染まっているが、何もしないよりはましだと思いたい。
 日に焼けた彼らは、誰もが右肩に髑髏の入れ墨を彫っている上に、誰もが強面で屈強な体つきではあるが、口から洩れる言葉の多くは不安と恐れを孕んでいた。

「くそう、どうしてこんなことに……俺達の船『覇道号』も沈められて、仲間もほとんど殺されて、船長が水に濡れるだけでこうなって……!」
「泣き言は後で言え! 今はこの人を助けるのが最優先だ!」
「そうだ、なんとしても船長だけは……ぎゃッ!?」

 そんな彼らに、追いかける者達は情けをかけなかった。
 叫ぶような声が聞こえて来た方から、雨の代わりと言わんばかりに火の玉が飛んできた。しかもそれは、ただ人を燃やすのではなく、砲弾の如く彼らの体を貫いたのだ。
 夜闇を照らす恐るべき惨劇を前にして、男達は何も言わず、必死に走り出した。
 ぜいぜいと息を切らして逃げる彼らだったが、一人、また一人と火の玉に焼かれる。犠牲者はただ地に伏せて動かなくなるばかりで、しかし誰も足を止めようとしない。少しでも恐れで足を止めれば、真に大事なものを失うと知っているからだ。
 目的地まではそう遠くない距離なのに、誰もが永遠に感じた。
 だが、とうとう彼らはたどり着いた。砂浜に寄せた、小さな木の舟のもとに。

「ここまで来れば……! お前ら、船長を小舟に乗せろ、濡れないようにだ!」

 慎重に、しかし迅速に、彼らは船長を小舟に横たわらせる。抑えられた右腕以外にもどこかを痛めているのか、彼はひどく苦しそうに呻いた。
 小刻みになってゆく彼の呼吸を見て、残された男達は互いの顔を見合わせた。そして、そのうち一人だけが小舟に乗り込んだ。

「漕ぎ手を一人付けます、船長を隠れ家まで届けてくれます――俺達が総出で時間稼ぎをすれば、奴らも船長を見失うでしょう」

 男の言葉を聞いて、船長は思わず痛みも忘れ、身を乗り出そうとした。

「お前ら!? 駄目だ、あれだけの数の追っ手と戦うなんて無謀だ!」

 体はまるで動かなかったが、声は迫真だった。というのも、寝そべった船長の目にも見えるほど、追手の声と脅威――赤い炎が迫っていたからだ。
 そんな相手と戦えば、結果は目に見えている。だからこそ、船長は叫んだ。
 その声に対して、誰も振り向かなかった。ただ、剣を手に取る音だけが聞こえた。

「どうですかね。こっちは『海賊』、『魔法使い』如きに遅れは取りませんぜ」
「船長、貴方との略奪、航海、喧嘩。奴隷だった俺には夢のような日々でした。クソみたいな奴隷商を殺して、俺達を自由の身にしてくれた恩を、今返します」

 震える声で誰かが言うと、他の男達も同調するように、彼への感謝を口にした。
 そして、そのうち一人だけが船長に振り返ると、首から下げていた藍色のペンダントを船長の胸元に置いた。月光を浴びて輝く宝石が、畏怖で強張る男の顔を映していた。

「俺の宝物です。こいつと一緒に、冒険の海を……あなただけでも、渡ってください!」
「よせ、やめろ!」

 船長は怒鳴った。だが、今度はもう誰も、返事をしなかった。

「『キャプテン・ヴァルカン』には指一本触れさせねえぞッ!」

 男達――船員の鬨の声が響いた。

「『ヴァルカン一味』の誇りに賭けてッ!」

 恐怖を捨てて、あるいは呑み込んで、男達は追手の下へと突進していった。
 威勢に満ちた声は、そう経たないうちに絶叫へと変わった。舟はそれを合図だとしているかのように、ゆっくり、ゆっくりと砂浜を離れ、海へと漕ぎ出した。
 仲間が死にゆく姿は見えなかったが、確かに絶叫は耳に響いた。

「カール! ジョナサン! トムソン! バギンズ、あいつらのところに戻れ……!」

 布にくるまれたまま、彼は吼えた。
 バギンズ、と呼ばれた男は返事をしなかった。漕ぎ手だというのに手を動かせていない彼は、胸に風穴を開け、すでにこと切れていた。
 きっと、仲間に船長を託された時には、もう死んでいたのだろう。

「バギンズ、お前、もう……!」

 波が押してくれているのか、舟はもう、砂浜をすっかり離れていた。
 怒声も、何も聞こえなくなるまで、そうかからなかった。

「……俺なんかを、守って、死ぬな……馬鹿野郎が……畜生、畜生が……!」

 ただ一人、船長の脳裏にだけは、あの時の光景がフラッシュバックしていた。
 ほんの少し前の景色。
 燃え盛る船の甲板に立つ、黒衣の女。

『傲慢な海賊、ヴァルカンよ。呪いを解きたくば、『エルダーワン・トーナメント』に来い』

 頬まで裂けた口で、尖った歯で、彼女は呪われた船長を嘲笑った。

『それまではせいぜい、苦しむがいい。この『水面(みなも)の魔女』に刃向かった罰を、永遠にな。ククク……』

 静かな海の中心で、船長の脳裏に、女の声がこだました。
 甲高い声が耳の奥で響き、船長は顔まで包まれた布の奥で、夜の空を睨んだ。

「……魔女……その顔、その声……覚えたぞ……お前にも……痛みを教えてやる……」

 布の隙間から見えるのは、ぼさぼさの髪と火傷痕のように溶けた肌。今にも死にそうな様子と呼吸でも、瞳だけは爛々と輝いている。
 怒りが、痛みが、憎しみが、その瞳の奥で燃え盛る。
 狂気にも似た激昂は、ただ純粋な憎悪として目覚めていた。

「俺の仲間の分も……船の分もだ……必ず生きて帰り、地獄を見せてやる……ッ!」

 血の噴き出る喉から出た言葉は、波の隙間にかき消された。
 すべてを失った彼の誓いを、藍色の宝石だけが静かに聞いていた。