標的の身長は五メートルほど。肩幅は男性の三人分といったところか。
 大きな塊から突き出した二本の腕と足らしきものでかろうじて人の形をとどめている。それぞれ手足にはかぎ爪のような三本の指がある。頭部には鼻や口と思われる部分は見当たらない。眼球と思われる球体がいくつも浮かぶ。まるで昆虫の複眼のようだった。
(おおかた深影の実験体ってとこか)
 機能的な部分は一切なく、望まれた部分だけを抽出されたような。人為的に操作され、生まれ落ちた、歪な生命体。それが穂積の受けた印象だった。
 異形とも思える実験体を前にして歯噛みする。
 元は生物だったに違いない。深影でも無から生物を生み出すことはできないはずだ。本来あるべき姿からの変異。越えてはならない境界線。たとえ自ら望んだことだとしても、他者である深影に存在を書き換える権利などない。
 他者を欺き、利用して切り捨てる。生への尊厳を捨てて、異形を生み出し、無関係な人間を際限なく巻き込む。理屈も倫理も、信念すらも捻じ曲げて、人間以外、それ以上の力を追い求める。穂積には理解できないし、後悔と憤りに我を忘れそうになる。
 二年前、かつての戦友をとめられなかったこと。穂積の過去の中で唯一の過ちだった。

 標的が腕を振りかぶる。想像以上に早い動きだった。穂積は跳躍して避ける。拳が床のタイルを直撃した。クッキーのように割れて陥没する。着地する寸前、目の前に突き出された腕に紋様が浮かんでいた。刺青《タトゥー》のような十字架。穂積は瞠目する。
(【刻印(スティグマ)】!)
 着地した瞬間に【火焔】を構える。後退すれば雨宮が隣に並んだ。
「あいつ、感染者だ」
「そうですか」
 雨宮は落ち着き払っている。悠長に銃の弾倉を取り出して残数を確かめていた。
「あんなの見たことないぞ。そもそも人間なのか?」
「深影さんが宇宙人を連れくるとでも思ったんですか。見た目に振り回されてますよ」
 ぴしゃりとした口調で我に返る。思ったより慌てていたらしい。
 雨宮は気にもとめない。慣れた手つきで弾倉を交換した。銃に差し込んだ瞬間、表情が変わる。スイッチが入ったかのような。さらに鋭さを増したそれは視線をあげて標的に狙いを定めた。
「彼らの救いの道はひとつしかない。それだけでしょう」
 さらりと告げてくるのは無情な現実。
 死によってしか解放されない悪夢。
 雨宮の言葉に迷いはない。それだけに別の考えが穂積の頭をかすめる。どんな気持ちでその言葉を吐くのか。
 次の瞬間、破裂音が耳を裂く。
 雨宮が頭部を狙って銃を連射した。どれも命中したものの、標的は倒れない。銃創からぽろぽろと潰れた弾丸がこぼれ落ちる。傷口もすぐに塞がった。
 顔色を変えずに呟く。
「9ミリじゃ足止めにもなりませんね」
「刃筋、通ると思うか。あれ」
「気合いでなんとかしてください」
 雨宮が前を見据えたまま、あてにならないことをいう。
「無茶いうな」
 穂積は投げやりにうめいた。
 彼の持つ神機【火焔】は大太刀の形を模しているため性質も日本刀の特徴を受け継いでいる。
 どんな武器にせよ使いこなすには訓練が必要だ。日本刀の場合、刃の角度と斬撃の軌道を合わせることができてはじめて威力を発揮する。穂積のいった「刃筋を通す」とはこのことであり、できなければどんな名刀であっても鋭い切れ味にはならない。
 穂積の懸念は標的(ターゲット)の正体が不明な点だった。相手が人の形をしていれば打つ手など無限に考え出せる。だが、今目の前にいる感染者は違う。
 かろうじて人の形をしているだけだ。外側と覆っているのは皮膚というより外殻や装甲といった表現が近い。内部の構造も含めてどんな硬さなのか材質なのか見極めることも難しかった。目測を見誤って攻撃すれば刀身破損もありえる。うかつに手は出せない。
 ましてや急所となる心臓の位置が不明だ。人間と同じように左胸にあるとはかぎらない。仮にそうだとしても体格差から狙いにくい。深影もそれをお見通しだろう。
 雨宮が姿勢を低くした。
「きます」
 目標が再び腕を振りかぶってくる。雨宮は十時の方向へ走り出した。
「やるしかないか……!」
 自棄ぎみに吐き捨て、反対方向へと走る。再びタイルに拳が突き刺さった瞬間、関節を狙って【火焔】を振り下ろす。紅蓮の火の粉が軌跡を描く。垂直に落下する白刃は腕に食い込んだ。
 穂積は想像とは違った手ごたえに眉根を寄せる。
(斬撃が浅い……!)
 刀身は折れなかったものの切断までには至らない。このまま押し切るか引くか迷ったのは一瞬。その間にもう片方の腕が動いた。
 叩き潰されるか、真横から張り倒されるか。歴然とした体格差から即死もありえた。
 迷っている暇はない。
 わずかに刃の軌道を変える。腕に沿うように切っ先を滑らせた。火の粉とともに血飛沫が舞う。
 すぐさま後方に跳ぶ。間髪入れずに三本の指が眼前を通り過ぎる。上着の裾をわずかにかすめた。
 あらためて標的を見る。右腕の肉を少し削ぎ落しただけだった。みるみるうちに傷口が塞がっていく。それでも穂積は落胆も恐怖も感じない。感触は掴んだ。あるのは勝機への突破口。躊躇いはない。
 再び頭上で銃声が響く。雨宮が注意を引いている隙に背後へと回る。
「貫け【火焔】!」
 腹部めがけて【火焔】を突き刺した。続けて大量の霊力を流し込む。
 握った柄から刀身へと流れるような力をイメージする。それが炎となってあらゆるものを飲み込んで燃やし尽くす。そんな感覚を強く思い描く。
「く……ッ!」
 燃やし尽くせ。
 心臓の位置を特定できない、到達できないなら全身の内側を焼き尽くすしかない。
 強く柄を握りしめる。刀身がわずかに見える裂け目から火の粉が噴出した。内側からじりじりと燃えていく感覚がした。感染者が咆哮をあげる。地鳴りのような声に混じって耳鳴りがした。
 神機の力の源は共鳴。同調(シンクロ)すれば威力は増すものの、心身への反動(リバウンド)も大きくなる。
 四肢が、内臓が、精神が、侵食されていく。神機にとり込まれる。飲み込まれる。
 手足の皮膚が固い鱗になるような違和感。ぞわりと身体の内側を撫で回されるような不快感。意識の中に何者かが侵入したような嫌悪感。
【火焔】を解放する度に見舞われる、異物感。穂積は歯噛みしてこらえる。
 それが人ならざるものを手にかける代償。
 当然だ。人外なものを屠るその力も人から外れたもの。奇跡という類ではない。魔術でもない。呪術、あるいは祟りかもしれなかった。触れたもの全てに災いが訪れるような、対価以上のものを貪って穢れをまき散らす、禍々しさを帯びた狂気の螺旋。
 だが、それを利用してでも果たすべき目的がある。正当化するつもりはない。自分のしたことは全て背負う。
 そう強く誓っていても、眼前から発せられる欲求に負けそうになる。かき消されそうになる。
 他者を屠ってでも生きたいと願う、偽りのないむき出しの本能。神機を通して伝わってくるようだった。
「……おまえも生きたいだろうな。どんな姿になっても」
 ぽつりと告げる。自然と苦笑いがこぼれた。
 穂積は奇跡など信じない。天や神の気まぐれを待っていられるほど悠長な性格ではないからだ。同じように天国も地獄も来世すら信じていない。今を全力で生きている。不満などない。次への期待など持たない。待っていられない。ほしいものは全て己の手で掴みとる。
 だからこそ思う。この感染者にもあったはずだ。
 譲れない大切なものが。誰にでもあるささやかな日常が。失いたくない、自分を自分たらしめる証が。
「俺も同じだ。だから、おまえが生きた証だけ持って行け」
 ザンッ!
 垂直に斬りあげる。切っ先から火の粉が軌跡を描いた。傷口から炎が噴き出す。
「あとは燃やし尽くしてやる」
 舞い降りた災厄。それによって失われたもの。選べなかったもの。犠牲にしてしまったもの。屠った命。
 その全てを燃やして解放を願う。矛盾しているとわかっていても。穂積はそれを選ぶ。
 悲しみの連鎖を断ち切るために。