かすかに血のにおいがする。
 雨宮が探索している場所はカフェテリアだった。
 店舗の入り口に少しだけせり出した程度の規模だが盛況だったとすぐにわかる。
 床に飛び散るカフェオレ。食べかけのフルーツサンド。倒れた椅子。放り出されたショッピングバッグ。汚れた財布に片方だけの靴。慌てて逃げ出した形跡が切り取られたように残されていた。
 周囲に人影はない。警戒しながら歩くとガラスの破片を踏んだ靴底が音を鳴らした。店内も同様で奥にあるカウンターはカップや紙ナプキン、ストローなどが散乱していて、テイクアウト用のショーケースは開いたまま。厨房を覗いてみても照明や換気扇もついていてガスオーブンからは焦げたにおいが漂ってくる。そうでなければ店員がその場を離れたような、人の気配だけが消えた印象を受ける。
 店内に戻ればメニューが置かれているテーブルが目についた。今まさに席について何を注文するか検討していた最中だったかもしれない。そのすぐ下、タイルの上に割れたスマートフォンが落ちている。カバーケースのデザインから女子高生のものと思われた。機種にも見覚えがある。
 奥底に埋もれていた記憶と重なった。
『わ~、どれにしよう~?』
 高く澄んだ声は弾んでいる。
 その時も、テーブルの脇にスマートフォンが置かれていた。買ったばかりのお気に入りの機種らしく肌身離さず持ち歩いていたことを覚えている。
『パスタもいいけど、オープンサンドもいいな。それともパンケーキいっちゃう?』
 メニューを眺めながら眉根を寄せる少女。細い首には十字架のネックレスが光っていた。
『デザートにパフェも捨てがたい~! 孝ちゃんはどれがいいと思う?』
 思いきり悩む顔でメニューを突き出してきた。
 かれこれもう二十分も悩んでいる。見てるこっちが飽きてきた。
 もういい加減、決めたらどうだと文句を言った気がする。
 向かいに座る少女がむっと頬を膨らませた。仕草がリスみたいだった。
『もう。女心がわかってないね、好きなひととのごはんは優柔不断になっちゃうんだよ』
 さっぱり意味がわからない。
 どうせこれから山ほど一緒に食事するんだ。いつまでも優柔不断では困る。
 とかなんとか。思ったことを正直にしゃべった気がする。特に他意はなかった。ごく自然に言葉がこぼれただけ。なのに対する少女はぽかんと口を開けていた。やがて不思議そうに首を傾げる。
『……これからも一緒にいてくれるの?』
 何故そこを気にするんだ。
 彼女と話をする時はいつもそうだった。不可解でしかない。
 当たり前に思っていたこと、根拠もなく信じられたもの。それらに対して初めて聞いたような反応をする。調子が狂う。
『そっか……へへッ』
 へらっと照れたように彼女が笑う。無性に居心地が悪い。それなのに。
 ほんのわずかに心地よく思う自分もいて。
 平坦だった雨宮の心の何かが揺れ動いた。灰色だった景色がわずかに色づいて。この苦しい毎日でも肯定できるものが側にあった。いつの間にか失いたくないものを手にしていた。
 二度と戻らない、ささやかな日常。
 あの時、自分はどう答えたのか。否定したのか、肯定したのか。それを確かめる術もたぐり寄せる方法もなくて。だからかもしれない。

 彼女の笑った顔が思い出せない。

「……なんか、どっちもどっちって感じだな」
 侮蔑を含んだ軽い口調だった。
 この惨状からはおよそ出てこない感想が耳に届く。
 急速に雨宮の記憶が遠のいた。現実に引き戻される。
 意識するよりも反射的に警鐘が鳴り響く。
 突然、入り口側の窓ガラスが吹き飛ぶ。雨宮はとっさにカウンター脇のシンクに隠れた。
 視線をあげれば頭上を炎の塊がいくつも通り過ぎる。厨房を隔てていたガラス戸に直撃して破片が飛び散る。他にも壁や窓枠の木片も降り注ぐ。背を預け、身をかがめてやり過ごす。
 一方的に襲われている状況でも雨宮は冷静だった。
(想像以上に好戦的な連中だな)
 鼓膜を裂くような聴覚を遮断し、端的な第一印象を思い浮かべる。
 相手との会話もなしに攻撃に踏み切った。短絡的ではあるが侮るのは危険だ。そうでなければ機動隊全滅などできるはずもない。戦闘のプロである彼らの裏をかく、あるいはそれ以上の攻撃力を有していると見るべきだ。
 再び頭上を確かめる。降り注ぐ炎の塊は止む気配はない。それでも雨宮はいくつかの事実を見出していた。
(攻撃は単調だ。炎弾の繰り返し……命中精度も低い)
 雨宮が物陰に隠れたとはいえ、かすりもしない。
 散弾式で狙いが甘い。数と早さで押しているだけだ。軌道は制御しきれていない。
 動きは素人だと直感する。それだけに別のことが疑問に残った。
 状況から推測される事実と違和感。
 雨宮が思考を巡らし始めた頃、攻撃はぴたりと止んだ。
 店内のあちこちで崩れる音や焦げついたにおいがする。
 白煙の漂う視界の中、目を凝らす。もうカフェテリアだった外観はどこにもない。
 今日ここに訪れた客の誰ひとり、こんなことは望んでいないはず。ただ平穏な日常を送っていた人々を脅かした。
 どんな目的にしろ、彼らを生きて帰すつもりはなくなった。
「おーい。出て来いよ。そこにいるのはわかってるんだ」
「つかさ、二手に分かれる意味あった?」
「機動隊よりショボいのはわかりきってるじゃん」
「ぼやくなよ。とっとと終わらせようぜ」
 声の種類から相手は四人。全員、男性と思われる。
 会話から相手の情報が筒抜けだった。わざわざ自ら手の内をさらしている。
 現時点でわかることといえば四つ。雨宮たちの侵入に気付いたこと。二手に分かれたこと。機動隊を襲った犯人であること。彼らの目的には雨宮たちの殺害も含まれていること。ここまで披露されると犯人像は疑いようもない。
 さらに追撃の機会を自ら放棄するとは。戦闘において素人であることは間違いない。
 呆れた状況判断にも雨宮は冷静だった。目を閉じて一度だけ息を短く吸う。
 瞳を開いた瞬間には銃のグリップを強く握り込んだ。