世界大戦中に謎の奇病が蔓延した。
 はじめは風邪のような症状から始まる。発熱、咳、倦怠感、吐き気、頭痛。それがたったの数日で悪化し、昏睡状態に陥り、死亡する。稀に意識を取り戻すものもいた。しかし目覚めた時には別人のように生まれ変わっている。
 感染源も感染経路も不明。激化していく戦場の中で仲間の死肉をあさり、理性を失ったように暴れ出す。唯一の有効手段は日の光にあてることでおとなしくなるものの、夜になればどの陣営にも甚大な被害を生み出した。当然のように混乱や士気低下を危惧した上層部が封じ込めを図ろうと試みるも、正確な状況把握や適切な対応を怠った情報操作で問題が解決するわけがない。いたずらに感染者を増やし、戦況にも大きな影響を与えた。
 第二次世界大戦では人ではない力を持つ者も現れ、敵味方関係なく人間を襲った。その頃の記録では彼らは人間の血液を主食にしていたという。日の光を嫌い、闇夜を好む習性もあることから【吸血鬼病】とも噂された。
 後の研究から感染源はレトロウイルスの一種だと判明する。長い正式名称もつけられたが定着しなかった。すでに症状と特徴がひとり歩きをしていて感染源ですら吸血鬼(Vampire)をもじった【Vウイルス】と呼ばれるようになった。感染の流れは【Vウイルス】の持った細胞が体内に入れば潜伏期間を経て発症する。潜伏期間は個人差があり中には一生発症しない無症状キャリアもいた。
 感染源および感染経路が不明かつ混戦した状況では感染対策も十分ではなかったと考えられる。やがて終戦を経て母国へ戻る兵士たち。それは無症状キャリアが世界中に散らばったことを意味する。

 変異したウイルスは緩やかに、しかし確実に人類を蝕んでいった。

「だから、急に仕事が入ったんだよ」
 スマートフォンを手にしたまま、穂積は面倒くさそうにため息をついた。
「ただの残業だって……は? 何って付き合ってんだろ、俺たち」
 穂積はわけがわからない。通話の相手は恋人だった。付き合って一年ほど経過している最近は会話の雰囲気が険悪になりつつある。
 ちなみに先ほどから痛いほどの視線を感じていた。ずっと隣で見つめてくる雨宮の瞳が鋭く硬度を増していく。
 ついでに相手の声もトーンが落ちた。穂積の言葉が不満だったらしい。
「お互いに求めるものが違う? そりゃ、そうだろ。お互い、違う人間なんだから」
 よくない兆候だった。そう思ったものの、あとの祭り。相手が何を思っているのか理解しようともせず、自身の考えていることを正直に口にする。それが最後のとどめだった。
「あ? もう疲れた? ちょッ、待てよ。おい! ったく……切れやがった」
 仕事で予定がキャンセルになったこと。それが不満なのは理解できた。問題はそれと絡まっている何か。薄々、察しがつくものの穂積は気付かないふりをする。
 恋人に真実を打ち明けるつもりはない。危険に巻き込みたくはないとか、負担をかけたくないなどの理由からではない。
 知らないですむ世界をわざわざ見せる必要はない。ただそれだけの理由だった。
「穂積さん」
 雨宮が声をかけてくる。
「何だよ。こっちは破局の危機なんだ。あとにしろ」
 説教を聞く気にはなれなかったので手を振って追い払おうとする。その仕草は犬に対するそれだった。しかし雨宮の表情は変わらない。むしろ不快や呆れが混じっていた方がよかったかもしれない。何の感情も宿らせずに再度口を開く。
「穂積さん」
 あくまで雨宮は譲らない。名前を呼ぶだけで圧力をかけてくる。その胸中は「そんなこと知るか。今は勤務中だぞ。集中しろ」あたりだろうか。根が真面目なだけに、こうなってくると雨宮はしつこい。
「あー、あー。わかったよ」
 適当に返事をしてスマートフォンをしまう。
 雨宮の言い分が正しいとわかっていても素直になれないのが人情だ。
 恋人には後できちんと話をしなくてはと思う。その前に電話に出てもらえるか怪しいが。
 あまりいい解決策とは思えない結論がでたところで雨宮に向き直った。
「それで、何かあったのか?」
 穂積たちがいる場所はショッピングモールのエントランスだった。
 広い吹き抜けのホールで周囲を見渡せる。歩き出した雨宮を追う。
「あれを見てください」
 軽く顎を上に向ける。言われるまま、その仕草の示す方向を見つめた。
 むせかえるような硝煙と血のにおいがする。
 左手にある二基のエレベーター前。ペンキをひっくり返したように赤黒い液体が広がっていた。
「これは……」
 周囲には機動隊と思われる死体が倒れていた。それも複数。誰ひとり動かない。
 膝をついて死因や外傷を探る。装備の隙間から深い裂傷や火傷の痕が覗いていた。噛み傷はない。
 周りの壁や柱には無数の銃弾の痕や筋のような裂け目、焦げ跡があった。突入直後に奇襲にあったと思われる。それも一方的に襲われたに違いない。
「派手にやられたな……」
「穂積さん」
 再び名を呼ばれ、今度は反対側の壁を見る。
 通路を挟んだ向かい側には店内のイベントを告知する掲示スペースがあった。
 穂積は眉根を寄せる。
「なんだ、ありゃ」
 展示物は全て乱雑に剥がされ、大きな血文字が殴り書きされていた。雨宮が目を細めて読みあげる。
「【Enhance(エンハンス) Legion(レギオン)】……直訳すると【強化された軍団】ってところですかね」
「わりとシャレた名前の組織だな」
 興味なさげな口調で感想をもらす。穂積の意識はすでに別の方へと向いていた。
(しっくりこないな……)
 状況から導き出された推測に穂積は違和感を覚えていた。
 犯行の手口としては素人だと思われる。クリスマス直前の混雑したエリアを犯行場所に選んだこと、人目を恐れない大胆な行動、顕示欲の強い血文字。
 おおかた元・少年グループだろう。世間やルールに反発しているうちに歳を重ねて犯罪に手を染めた。その途中で【Vウイルス】と接触、感染したという経緯が妥当か。
 人数は少なくとも十人前後。何かあっても人数で押し切れる数とみるべきだ。
 今まで幾度となく遭遇してきた。集団の中で騒ぎを起こす感染者は短絡的で素人。おまけに自己顕示欲が強い。この血文字は自分たちに対する宣戦布告だ。
 ただし、別の懸念が頭をもたげる。素人の感染者相手に、ここまで機動隊を追いつめられるものだろうか。人数が多いのか、慎重派なのか、奇襲を得意とするのか、単に(クラス)が強いのか。犯行の手口と機動隊全滅という事実に齟齬が出る。
 いずれにせよ、自分のやることは変らない。穂積は気を引き締めた。
「それじゃ、とっとすませよう」
 背中にあるバッグに手をのばす。ファスナーをあけて取り出したのは大太刀だった。
 柄を握り、短く呟く。
「狩りの時間だ。【火焔(かえん)】」
 刀身は優美な曲線、波紋は湾れ。木瓜の鍔と捻巻の柄。余計なものは一切ない。握った感触を確かめて払う。その動きにも無駄はなく、重さを感じさせない。
 雨宮もコートとスーツのジャケットを脱ぐ。ベストとネクタイ、パンツのいった服装に変わったところはない。特異な点は肩と腰の背面にホルスターを装備している点だった。流れる動きで抜きとった手には銃が握られている。セーフティーレバーを外した雨宮は口を開いた。
「二手に分かれましょう」
「同感だ」
「あっさり死なないでくださいよ」
「どういう悪意の発露だ、そりゃ」
 縁起でもない言葉にたまらず反論する。雨宮は向き直った。わずかに片方の眉をひそめている。
「そっちこそ。人の発言をなんでも否定的に捉えるの、クセなんですか?」
「どう頑張ったらおまえの発言は肯定的に解釈できるんだ?」
「質問に質問で返すのはマナー違反です」
「だったらおまえのマナーにもむやみやたらと発言に毒をまぶすなって加えとけ」
 至近距離でにらみ合う。
 カッと火花が飛び散った(ような気がした)。
 それから互いに反対方向へと歩き出す。現状を把握するために二手に分かれるのはいつものことだ。固まって行動しては人目につきやすいし、時間の浪費につながる。というか、これ以上一緒にいたくない。必要以上に会話すればストレスがたまるだけだ。
 すでに穂積は単独行動はするなという室長への建前を忘れている。もともとその場かぎりの言い訳だった。現場に入ってしまえば後はどうにでもなる。
 およそ通常の発想とはかけ離れていることに穂積は気付いていない。結果のあとを考えていない無責任な発想ともとれるが、彼にも言い分はある。生命のやりとりも辞さない状況下では、ささいな判断ミスが致命傷になりかねない。今回のような緊急性が高いケースは生死に関わる以外の問題は即決はせず、その場で臨機応変に対応することが最善の選択といえる。そう彼は信じていた。
 常に警戒を怠らず、周囲を見渡しながら歩く。すぐに戦闘態勢に移れるように。
 無人の店内は静まり返っていた。壁に貼られたポスターやレジにカウンターには、クリスマスの装飾があちこちに目立つ。
 本来あったはずの光景はない。あちこちに財布や鞄、スマートフォンが落ちている。混乱して逃げ出した後の形跡だった。
 それらを何度も目の当たりにしてきた穂積は思う。
 誰が予想できただろうか。一瞬にして日常を奪われる理不尽さ。
 争いのない人の営み。その残骸を目にする度、遠い出来事のように感じてしまう。
 現状に不満はない。不足しているとも思わない。自ら望んでここにいる。ただ選んだものには含まれていないだけだ。共存できない距離を感じるだけ。
 それでも奪われた平穏に嘆く人々の無念さを胸に刻む。忘れてはいけない感情だと自らに言い聞かせる。
 北口にたどり着く直前、フロアマップを見つけた。
 建物の間取りを確認するとショッピングモールの造りは見た目のデザインほど複雑ではなかった。
 地下を含めた五階建てで東西南北に設置された玄関。北口と南口に吹き抜けのエントランスがあり、東西に店舗がならぶ。中央には円形のイベントホールともあるようだ。
 近くの案内板にはイベントやお知らせが告知されていた。内容は西口の配管工事やクリスマスコンサートの開催日時についてだった。
 改めて場所の情報を照合したところで、穂積は頭を悩ませる。
(予想はしていたが探索エリアが広すぎるな。どこから手をつけるか……)
 反対方面を雨宮が見回ってるとしても他にフロアは四つある。しらみつぶしに探していたら夜が明けてしまう。また生存者がいた場合、状況は複雑になる。殺害されるか人質にとられるか。人が混雑する日を狙い、ショッピングモールに立てこもった。目的や要求は不明だが機動隊を全滅させる連中だ。逃げ遅れた一般人を襲う可能性は高い。刺激する行為は避けるべきだ。
 とはいえ、さきほどの血文字は侵入者へのメッセージと考えられる。手口は素人に見えるが、むやみに接触したり情報を渡すような行為もしない。現時点で認められる事実は犯人像として矛盾していた。もちろん、犯罪行為の全てが理路整然と説明できるケースなど稀だ。理屈にならない行動や判断をすることもある。それでも、違和感を覚える。漠然とした勘だが本能が警戒せよと告げてくる。
 侵入してきた穂積たちを真っ先に襲撃してくれる、わかりやすい連中とはかぎらない。通常のケースではない異常事態が起きているかもしれなかった。
 穂積が改めて気を引き締めた時だった。
「新しい獲物、みーっけ」
 背後から声をかけられる。
 ふり向けば北口の玄関付近に青年が三人。退路を塞ぐ形で立っている。
 両脇にもひとりずつ。待ち構えていたのか、様子を窺っていたのか。統制のとれた動きに関心しつつも観察と警戒を続ける。
 救助を待っていた一般人とは思えない。年齢は二十歳前後。学生といった雰囲気は皆無。黒を基調とした服装でピアスやバックルがいたる所に配置されている。丈の長いコートや装飾品に機能性はない。闇夜に溶け込むものの、こうした人の混雑するエリアでは自己主張の強い個性的なファッションに見えた。
 全員が上品とはほど遠い笑みを浮かべている。知性、慎重といったイメージも見受けられない。
 内心で穂積はごちる。あながち予想は外れていないようだ。