ザザッと砂嵐のような雑音が耳に届く。
〈第二分隊、応答しろ!〉
 ヘッドセットの向こうから響いた声音。答えることができなかった。
 聴覚では捉えられる。しかし、言葉の意味と目の前の現実が直視できない。感覚が、思考が、麻痺していた。
 彼自身、自分の目にしたものを信じることができない。それを言葉にすることなど不可能だった。
 御守(みかみ)市にあるショッピングモール。死傷者が出たという通報を受けて出動命令が下された。
 任務は占拠した犯人グループの制圧と一般人の保護。
 胸騒ぎはしていた。今までの出動とは明らかに違っていた。情報の少なさ、出動と突入に踏み切る判断の早さ。違和感が拭えない。
 今日で生命を失うかもしれない。覚悟はしていた。それでも己の職務を全うする。そう誓っていた。
 それなのに歯の根が合わない。寒さだけではない。全身を弛緩させるような強い緊張。恐怖だった。
〈何があった、応答しろ!〉
 仲間は誰も動かない。すでに息絶えていた。
 そこに群がるのは人ではない何か。力尽きた仲間をいたぶり、傷つける。人の形をしていても、まるで獣のようだ。
 戦うことも逃げることもできない。現実の異常さに圧倒される。飲み込まれる。
 かろうじて呟きがもれた。
「ば、化け物……」
 瞬間、彼らがふり向いた。
 揺れる視界の中でみたもの。醜く歪んだ口元だった。手をのばされ顔面を掴まれる。
 視界が漆黒に塗りつぶされていく。そこで意識が途絶えた。
 その意味を認識する時間もなく。二度と目覚めることはなかった。

 ショッピングモールには規制線が張られ、人々が周囲を取り囲んでいる。
 今日は十二月二十三日。クリスマス・イヴの前日もあってか、もともと多くの人で賑わっていた区画がクリスマスイベントと重なって騒然となった。準備に追われたり、クリスマス一色のムードを楽しみにしたり。そんな状況が何らかの非日常ひとつで一変してしまった、という表現がしっくりくる。
 そんな中に穂積たちもいた。
「ですから、一般人の立入は禁止です。下がって下がって」
 規制線のすぐ外。等間隔で配置された警察官が両手を広げて見物人たちを押しとどめていた。
「俺たちは関係者だっつの。責任者に確認してみろ」
 そのひとりと穂積は対峙している。
「そのような話は聞いておりません」
 きっぱりとはねつけられる。さきほどから同じ問答を繰り返している。不穏な空気を察知したのか側にいた警察官が応援に近づいてきた。
 それを知っても穂積はわずかに首を傾けるだけだ。ついでに目を細める。
「だから、おまえらじゃ話にならん。上の責任者、呼んで来い」
「それはできません。ほら、下がって!」
 上から目線な要求は当然のように受け流される。
 背後に立つ雨宮がふっと息をついた。いやな予感がする。
「それで、この先どうするんですか。軽はずみな向こう見ずさん」
 悪意のある言い方に、むっとした表情を浮かべた。
「室長の仕事が遅いだけだ。今に始まったことじゃないだろ」
 雨宮の言葉は現実を曲解している。よって、まともに受ける必要はないと判断した。ついでにいうならこのやりとりも今まで数限りなく遭遇していた。その原因を端的に述べる。
 すると背後から「へぇ」と意味深な感嘆が耳に届いた。
「今度は上司に責任転嫁ですか。勇気ありますね」
「一応、誉め言葉として受け取っておいてやる」
 ふり向きもせず、自棄ぎみに虚勢をはる。
 穂積の言葉で周囲に緊張が走った。一層、空気が冷え込む。
「何を言われてもここは通せませんよ」
「ケンカなんかしてないで家に帰りません?」
 穂積たちの謎の応酬に警察官が困惑しはじめた。態度が軟化してきている。むろん、いい意味ではない。対応が酔っ払いの相手に近くなってきたのだ。これはこれでよろしくない流れである。話がさらにおかしな方向へ転がった気がした。
 らちが明かない状況に穂積が次の一手を考えている時だった。
「おまえたち何をしている?」
「け、警部!」
「ようやく来たか」
 新たな闖入者に安堵した呟きをもらす。
 近づいてきたのは男性だった。スーツ姿や年齢から警察官たちの上司と思われる。
 警部らしき男性が眉をひそめる。穂積たちからすれば、よくある反応だった。
 雨宮の外見はとても目立つ。ついでに穂積も人目を引く。さらにいうなら彼の背中には竹刀袋と思われる収納バックを背負っていた。模造刀の類だろうと思われるが異様に長い。そのおかげで今まで何度も職務質問を受けたことは余談。
 相手が用件を切り出す前に穂積は上着の襟を掴む。
「あんたなら、こいつを見ればわかるだろ?」
 強気に笑った彼が見せたのは襟につけられたバッジだった。
 蔦が絡みつく盾と交差する二振りの剣。大企業・天ケ瀬グループの紋章(エンブレム)だ。
 目にした瞬間、警部の顔つきが変わる。
「そのふたりを入れてやれ」
「警部?」
「申し訳ありません。彼らは、そちらの事情を知りませんので」
「それじゃ遠慮なく」
「あ!」
 言い終わらない内に穂積はひょいと規制線をくぐる。雨宮も動じることなくそれに続く。これもふたりにとって慣れた行動だった。
 振り返った雨宮が思いついたように口を開く。
「現時点での状況を教えていただけますか?」
「ショッピングモールに死傷者がでたとの通報がありました。今も犯人グループが立てこもっているようです。七分前に機動隊が突入しましたが通信途絶状態と聞いています」
「警部!」
 あっさりと部外者に情報を渡す上司の言動に警察官たちは声をあげた。雨宮が気にする様子はない。さらに短く質問する。
「犯人側との交渉は?」
「できておりません。一切の接触を拒んでおります」
 明らかに現場を荒らしている行為に警察官たちは不服げな表情を浮かべていた。
 それでも警部は手で部下たちを制止させる。穂積たちに丁寧な言葉で話しかけた。
「一般人の避難は完了しています。管理官……上層部には私から伝えておきます。どうかお気をつけて」
「どーも」
 穂積は言葉少なに感謝をしつつ、ショッピングモールの入り口へ向かう。
 取り残された警察官たちは呆気にとられるしかない。

 数分後、穂積たちが建物に入ったことを確認してから警察官ふたりは上司に駆け寄った。
「警部。彼らは一体」
「……おまえたちも知っているだろう」
 部下のふたりが言い終わらないうちに説明をはじめた。
 警部はおもむろに煙草を取り出す。
「【未確認事件(unknown)】」
 警察官たちの顔色が変わる。
 ふたりとも力なく笑った。その声は乾いてる。冗談にしては質《タチ》が悪いと思ったからだ。
「まさか警部は信じてるんですか?」
「吸血鬼なんてただの噂でしょう?」
 警察内でまことしやかに囁かれて噂話。この組織で職務を果たす者なら必ず一度は耳にする。
未確認事件(unknown)
 戦後から続く奇怪な事件の総称だった。
 現場には首に噛まれた痕が残る死体のみ。全身にあるはずの血液もない。襲われた者は夜道を歩く女性から一家団欒中の家族、一人暮らしの老人や幼い子供まで。被害者に例外はない。誰もが等しく体内にある血液を抜き取られていた。その現場の異様さから【吸血鬼事件】と呼ぶ人間もいることから信憑性が疑われる。それこそ幽霊を見たような話だ。実体のない、客観性に欠ける興味本位の噂話。
 警察官ふたりの反応はまさにそれだった。警部の方は慣れたことなのか、淡々と己の知る情報を語るだけだった。
「さあな。真相は俺も知らない」
 犯行の目的は不明。容疑者の身元も不明。
 遺体の特徴以外に共通点は何もない。単独犯の連続殺人事件にしては発生件数が多すぎた。模倣犯にしては犯行の手口が違いすぎる。大胆不敵に人目も忍ばず犯行を遂げることもあれば、繊細かつ丁寧に痕跡を残さない現場もあった。
 せめて数少ない証拠から容疑者を見つけようと担当した捜査員たちは粘り強く捜査を続けるものの成果は芳しくない。
 警部は煙草をくわえて火をつける。
「今回の事件はすでに権限は警備部に移った。機動隊も突入している。異例ずくめだ」
 上司の薄い反応に何も言えなくなった。
 本来なら担当は捜査一課の主導となるはず。最初の通報から長く見積もっても一時間も経過していない。権限を移行するにしても判断が早すぎる。確かに今回のような事件は機動隊の分野かもしれない。問題は突入に踏み切るまでの早さだ。現状把握や人質の有無など確認すべきことは多くある。交渉もなしに突入を判断したとなると慎重さに欠けていると言わざるを得ない。
 あるべきはずの定石を無視している。また確実性を軽視しているともとれる性急な判断。事態はイレギュラーばかりが目立つ。
 実際、現場には説明できない遺体が複数あったと聞く。
 嘘だと思い込んでいた噂話が現実に起きている。まさかと思う一方で気味の悪さが残った。
 みるみる内に警察官たちの顔色が変わっていく。
「事実はどうであれ、上層部がその案件だと判断したら即撤退だ。俺たち捜査員は手を引く」
 警部の口調は重たい。部下の期待を肯定する材料が何もないからだ。
未確認事件(unknown)】の事件に該当すれば、上の一存で捜査は中断される。別の担当に引き継がれるのか、それすら現場の捜査員には知らされないまま。
 上の判断に納得できない捜査員も当然いた。独自で調査する者もいたという。だが、真相が明らかになった例は一度もない。単独で捜査をはじめたその全員が同じように死体となって発見されるか、行方不明になるかのどちらかだ。口封じか、自ら失踪したのかはわからない。ただ、その現実に異議を唱えて行動した者は悉くいなくなった。やがて暗黙のルールとして語り継がれることになる。
 今に始まったことではない。遭遇すること、疑問に思うこと、知ろうとすること、それらを満たしただけで生命の危機がある。そしてそれらを秘密で覆い隠す。
 もはや噂話と決めつけることはできない。上司の言葉は全てまた聞きではあるものの、真実味がある。いや、帯びてきたといった方が適切か。
 警察官たちの顔はすでに蒼白に近くなっていた。上司にとってはすでに何度も遭遇した反応らしい。
 ゆっくりと息を吐きだした。寒さの中で紫煙がくゆる。
「あのふたりは専門家らしい。上の許可はいらない。現れたら指示に従え、だそうだ」
 煙草のにおいは残したまま。吐息と言葉は雪とともに消えていった。