巨体がぐらりと揺らぐ。いく筋もの白煙を吐き出しながら力なく倒れた。
 動かない標的の向こうから雨宮が顔を出した。
「やりましたか」
 穂積は嘆息する。
「なんとかな」
 少し億劫げに答えつつ大太刀を鞘に収めた。
「しっかし、こいつは何なんだ? 初めてみるタイプの感染者だな」
 まじまじと顔を覗き込めば、人ならざる者の印象が強い。鼻や口といった器官が見えないせいか。
「ん?」
 観察してみて気付いた。複数ある目が赤く点滅している。ほぼ全て等間隔で光ったり消えたりを繰り返す。
「なんだ、これ」
「何かが作動したのかもしれませんね」
 数秒の沈黙が流れる。いやな予感しかしない。
「まさか」
「可能性としては自爆装置……」
 ぽつりと吐かれた言葉に目を剥く。
 光の点滅がカウントダウンのように思えたからだ。
「嘘だろぉぉぉぉぉぉッ!」
 穂積は何を思うより先に走り出した。止められないのなら、少しでも距離を稼ぐしかない。
「何で自分で作ったもんに自爆装置なんかつけるんだよ!」
 深影の正気を疑う。
 一体、どんな目的で全てをご破算にする装置を取りつけるのか。メリットはない気がする。
 あとをついてくる雨宮は冷静だった。
「一番の利点は証拠隠滅でしょう。あわよくば周囲を巻き込んで被害を拡大させようと……」
「この非常時に真面目に解説すんなよ! 危機感が余計に増すだろ!」
「穂積さんが訊いてきたから答えたまでです」
「あー、そうだな。確かに訊いたよ、俺は!」
 自棄ぎみに叫ぶ。
 返す方も似たようなものだと思ったが口にすることはなかった。その余裕がない。
 このまま西口に向かって脱出するしかないと思った時だ。むんずと後ろの襟首を掴まれる。強い力で左後方へ引き寄せられた。
「ぐえッ!」
「穂積さん。こっちへ」
「何だよッ、もう少しで出口……」
 この切迫した状況でどこに寄り道するつもりなのか。怒声をはりあげながら振り向いた時だった。
「いいから入る」
「うおっ!」
 問答無用で蹴り倒された。しかも段差に躓いて転げ落ちる。
「痛ッ!」
 強かに左側を打ちつけた。激しい痛みと猛烈な怒りを感じる。
 滑り落ちたのは配管がむき出しになった通路だった。
「雨宮、何すん……」
「耳、塞いでください」
 起きあがろうとした瞬間、頭を押さえつけられる。再びゴチッと床にぶつけた。雨宮も入ってきたため、とても狭い。窮屈さから息を止めた瞬間だった。
 同時に轟音が響く。続けて熱風と衝撃に耐える。呼吸はできない。目も開けていられない。身体にかかる負荷がなくなるまでじっと堪える。
 感覚はすでにない。時間にしてどれだけ経過したかもわからない。
 気が付いたら焼け焦げた音や微かな物音が耳に届く。ぐわんぐわんと反響する耳鳴りをこらえながら身を起こした。
「あー」
 穂積が声を発する。身を起こすとあちこちがじんじんと痛む。生きている実感が端的にこぼれた。
「死ぬかと思った」
「死にませんよ。爆風や衝撃は上と横に広がります。下に逃げるのが鉄則じゃないですか」
 九死に一生を得たというのに雨宮の返答は軽い。まるで授業で習った理科の実験を説明しているようだった。
「……そうかい」
 穂積は短い同意をして這いあがる。もう突っ込む気力さえない。
 改めて足元を見る。
 床下の配管の工事ために通路があったことを雨宮も知っていたのだろう。案内版にも掲示されていたことを思い出す。あのまま玄関に向かっていた方が厳しかったかもしれない。それでも素直に感謝できないのは何故なのか。
 複雑な気持ちで穂積は視線をあげる。見晴らしのよくなったエントランスの向こうは明るい。きっと外では大騒ぎになっていることだろう。
「これで証拠は全て吹き飛びましたね」
 またもや雨宮が軽く呟く。その横顔には何の感情も映していない。
「行きましょう」
 言うなりさっさと歩き出した。息をつく暇さえない。
 感染者の存在を知り、戦うと決めた時からそうだった。
 私利私欲に駆られた感染者を手にかけながら、深影の痕跡と治療法を探す日々。手に入れることより失うものの方が多すぎる。残るものは徒労と疲労だけがほとんどだ。行きつく先には何もないのかもしれない。そんな不安が頭をかすめる。それでも、
「雨宮」
 穂積は呼びとめる。
「紗奈はおまえを恨んじゃいない」
 こぼれた呟きに雨宮の動きが止まった。
 浮かべている表情も考えていることもわからない。
 穂積も雨宮も、明日には失う生命かもしれない。生き延びたとしても、目的は果たせないのかもしれない。進む先が見えなくても、遠くに感じたとしても、ひとつだけ確かなことがある。
 紗奈の気持ちは変わらない。きっと最後の時まで雨宮を想っていた。
 それは雨宮であっても否定することはできない。
 告げられた雨宮は振り返らなかった。
「知ってます」
 あっさりと返って来た同意は短い。言葉の意味を理解しているのかと思うほど。再び軽い足取りで歩き出す。いつも同じだ。戦ったあとは、すぐにその場から離れる。まるで自分という存在が穢れのように思っている節がある。少しでも早く日常へと戻るために、自分の痕跡は最小限にするかのように。世界との、人間との、接点を限りなく削ぎ落そうとしているように思えてならない。自分が異質であることを誰よりも自覚している行動だった。
 穂積は、その後ろ姿を見つめることしかできない。
 雨宮は感染者だ。どう言い繕ったところで事実は変わらない。気だるげな外見とは裏腹に強靭な精神力でウイルスからの支配に抗っている。きっと眠ることすら許されない、熾烈な主導権争いを繰り返しているはすだ。雨宮がいつ力尽きてもおかしくない。この瞬間でさえ人格が侵食されて穂積に襲いかかることもありえる。もともと生への執着心が薄いタイプだ。ふとした瞬間に境界線を踏み越えてしまうような危うさがある。
『彼らの救いの道はひとつしかない。それだけでしょう』
 低い声音が脳内をかすめる。
 あれは雨宮も刺す言葉だ。彼自身がそれを理解していないはずがない。知っていてそれを口にする真意。
 自分の役割を強く意識する。雨宮がウイルスに支配されたその時は。
「穂積さん」
 思考を遮る声に穂積は視線をあげた。
「何してるんですか。置いていきますよ」
 雨宮が振り向いて立ち止まっている。眉をひそめながらこちらを見返していた。その双眸は漆黒のまま揺らがない。今はまだ。
 穂積はゆっくりとした足取りで追いつく。軽い口調で要求した。
「雨宮。知恵、貸せ」
「室長への言い訳ならお断りです」
 すっぱりとした拒絶。取りつく島もない。わかっていたことだ。雨宮に協力や協調といった精神はない。最初に会った時から少しも変わらない。
 そう。二年前と同じ変わらないものも確かに残っている。
「固いこというなよ。これは高度な戦況判断ってやつだ」
「ただの拙速とも言いますね。この被害状況、明らかに巧遅に劣ってますよ」
「それを話術でカバーするんだよ。おまえのその無駄に減らない口を役立てろ」
「却下。その心中お察しします。どうぞご武運を」
「なんか、それ棒読みくさいな……」
 なげやりな雨宮の言葉に正直な感想がもれる。いちいち気にする穂積でもない。
 今まで同じようなやりとりを繰り返してきた。きっとこれからも繰り返す。この生命があるかぎり。

 戦い続けると誓った。
 全ての負債を払って決着をつける。そのための対価を払いながら。行きつく先にウイルスの根絶があったとしても。立ち止まる理由にはならない。半端な覚悟など、とうに捨てていた。自分が望んだ結果へと必ずたどり着いてみせる。

 夜はまだ明けない。
 それでも雪は止んでいた。