――現在に至るまでの婆羅門。

 そこには、今のように三皇と呼ばれた存在はなく、知徳の優れた如来と呼ばれる存在が極楽の荘厳(果てしなく広がる大地)を統治していた。けれど、時は移り変わり、いつのまにか3人の皇帝が婆羅門を治め、三皇が支配する時代へと流れゆく。

 その下へは、以前と変わりなく天子と呼ばれた4人の聖天がおり、更に下位には五帝と呼ばれた5人の聖君が存在した。

 天子は民の安寧が果たすべき務め。世の中が平穏であり続けるために、4大陸の衆生を纏め上げるが、政治的な事には一切口出しをしない。その代わりを担うのが五帝であり、婆羅門の秩序を保ち須弥山を含めた5つの大地に1人ずつ存在する。

 如来と呼ばれた存在がいた時代。その頃は、1人の大僧正が意思決定を行い、下位の者達を幾年も従えてきた。しかし、それだと負担も大きく独裁的な理由もあり、今では5人の者達が決定権を担う。そのため、婆羅門における力は有するが、三皇といえど権限は五帝へ委ねられる。


 そうした、どちらの状況も経験してきた吒枳(たき)は、思い悩み悲しみにくれる。その姿に、とうとう痺れを切らせたのか? 炎帝・神農(えんてい・しんのう)が迫りたてるように問い掛けた。

「吒枳――!! 何をしている? 早くその鞭で、改心させないか! 拒んだりすれば、どうなるか分かっているんだろうな」

 苛立ちを覚える炎帝・神農は、吒枳をせり立て言葉を放つ。

「本当にごめん。ごめんよ……。一番辛い思いをしているのは楼夷亘羅(るいこうら)なのに……」
「――どうした、吒枳。お前らしくないぞ! さぁ、やってくれ」

 右手に持つ鞭を震わせ、目に溢れんばかりの涙を浮かべる吒枳。その小刻みに揺れ動く掌へ、そっと触れる楼夷亘羅。大丈夫だから心配するな、そう優しく語り掛けた。

 唇を噛み締め、ゆっくり頷く吒枳。楼夷亘羅の言葉と共に鞭は弾きながら、――空を斬る!! やがて、しなる音は閉鎖された薄暗い部屋の空間へ、振動と共に反響させながら鳴り渡る。

「――ぐぅっ、はぁ……。――がぁっ、はぁ……。――うぅっ!!」

 打たれる度に閉じた口から漏れ出る楼夷亘羅のうめき声。それは響き渡る鞭の音をかき消すかの如く、何度も溢れでる。加えて、吒枳の泣きじゃくる声も、半刻(1時間)ほど牢の中で反響した。暫く、その光景をジッと眺めていた炎帝・神農。

 ――すると。

「おい、神農! もう、その辺でいいではないか? 見る限り、少しは反省してるように見える。あとは、五帝が決議を下すだろう」
「――んっ!? どうした伏羲、お前もこいつが疎ましくないのか?」

 同じ様に見つめていた李・伏羲(り・ふくぎ)。見るに見かねた様子で、――もうやめろ! とばかりに声を掛け、鞭打ちを制止させる。

「確かに疎ましいと思う事もある。しかし、それは楼夷亘羅が女媧様の想いを一心に受けているからだ……」
「想い? 何のことだ!」

「まぁ、よい。神農にこんな事をいっても、鈍いから分からんだろう」
「――どういう意味だ?」

「だから、俺がこのような真似をすれば、この状況を見た女媧様が嘆き悲しむということだ!」
「へぇー。よく分らんが、そんなもんか?」

「ほれみろ、分かってないではないか!」

 心情を読み解けない姿に、呆れた表情を浮かべる李・伏羲。するとそこへ、先程の看守が気まずそうに2人へ声を掛けてきた。

「あっ、あのぅ……。取り込み中のところ申し訳ありませんが、よろしいでしょうか……?」
「――んっ? どうした!」 

「実は……。仰った通り、中へは誰も入れるなと言われましたが……」
「「何だ、早く言ってみろ!」」

 口ごもる看守の言葉に、2人は声を揃えて言葉を発する。

「それが……。何度も引き留めたのですが、強引に中へ入るものですから」
「「はぁ? お前はさっきから何を言っている…………のだ。――まっ、まさか!?」」

 看守の意味深な言葉に、嫌な予感がした2人。驚愕した顔で、そっと後ろを覗き込む。

「はい、仕方なく連れて来ました……」

 なんと、そこには口元へ掌を当てた張・女媧(ちょう・じょか)が、唖然とした雰囲気で立ち尽くす。

「――あっ、貴方達は何をやっているのですか!? 帰りが遅いから、もしやと思い来てみれば!」
「えっと……。これはつまり、吒枳が自ら進んでやった事でして……」

 バツが悪そうに下を向く炎帝・神農。小さな声で呟き、吒枳を指し示す。

「何を馬鹿な事を言っているのです。吒枳に限って、そんな無慈悲なことをするはずがありません!」

 炎帝・神農を戒め、憂い悩む様子で牢の中へ入る張・女媧。 

「なんて惨いことを……。こんなにも沢山の傷を身に受けて、すごく痛かったでしょうに」

 鞭の打ち込みにより、酷く切り刻まれた楼夷亘羅の身体。そうした風采に、そっと露出した肌へ触れようとした、――その瞬間!!

「――触るんじゃない!」

 声を張り上げ、接触を拒む楼夷亘羅。重く低い声量の響きに、触れかけた掌を一旦、胸元へ戻す張・女媧。

「でも……。出血しているではありませんか?」
「いいから構うな! それに、俺の身体へ触れていいのは伊舎那(いざな)だけだ!」

 躊躇しながらも、小さな掌で再び触れかけた張・女媧。自らが纏う着物の袖で、染み出る血液を拭い去ろうと試みる。ところが、優しく布を当てる掌を力任せに振りほどく楼夷亘羅。

「どうやら今回の件で、私はとことん嫌われてしまったようですね……」

 瞳を潤ませる張・女媧は、切なげな表情を浮かべ微かな声で囁いた……。