大きく開いた口を渡し船へ向け、周囲の空気を取り込む海龍鬼。口の中へ溜め込まれる大気は徐々に熱を帯び、やがて1つの燃え盛る塊へと変貌を遂げる。

「『あれを解き放たれちゃぁ、もうお終いだ……』」

 その光景を目の当たりにする船頭は、愕然としながら船底へ膝をつく。

「『龍鬼の奴! ジッとしていろと言ったはずなのに』」

 指し示す言葉に振り返る楼夷亘羅(るいこうら)は、海面へ佇む海龍鬼を凝視するように確認する。ところが、動いていると思われた巨躯(きょく)の肉体は、相変わらず静止したまま。けれど、首から上は自由に動かせるのだろう。猛火と化した大気の塊を口の中へ含ませ、今にも解き放つ寸前の様子。

「『炎弾ならまだしも、あの猛火を消し去る事は不可能。残念ながら、勝敗は既に確定したようなもの。だが――!! 嬢ちゃんの手前、最後までは足掻(あが)いてやるつもりさ!』」

 無駄だと分かっていながらも、船頭は両手の拳を打ち合わせ闘志を燃やす。その瞳に映る光は、失うどころか一段と輝きを増してゆく。

「『すまんな、最後の片道切符になってしまって……』」
「『おっちゃん、なに言ってんだ! もう迷わないって言ったろ、今度は俺が励ます番。何か良くは分からないけど、その秘めた想いは必ず叶えられるはずさ!』」

 申し訳なさそうな表情を浮かべる船頭へ、屈託のない笑顔で話しかける楼夷亘羅。迷いを消し去った漆黒の瞳には、(かげ)りのない清々しい光が照らす。

「『兄ちゃん、俺の想いがわかるのか……?』」
「『あぁ、俺も船頭のおっちゃんと同じ。心から想う、大切な人を守りたい。だから、ここで待っていてくれ。必ず決着をつけてくるから!』」

 着物の地衿(胸元)へ掌を当てる楼夷亘羅は、心の内を船頭へ伝えた。そして、ゆっくりとした様子で吒枳(たき)の傍へ歩み寄る。

「『吒枳……。無理なお願いかも知れないけど、1つやって貰いたい事がある!』」
「『なんだい?』」

「『ほんの一瞬でいい。俺が龍鬼と戦っている間、海が荒れると思う。だから船が沈まないよう、もう一度だけ結界を張って欲しいんだ』」

 もの柔らかな口調で話しかける楼夷亘羅は、温容の面持ちで決戦に向けた想いを吒枳へ託す。

「『――たっくぅ、いつもそうなんだから。そんな顔でお願いされたら断れないじゃん。一応、そのつもりだけどね。でも、あまり長くは持たないよ』」
「『あぁ、十分さ!』」

 楼夷亘羅は囁きかけるように、傍にいた伊舎那(いざな)へも同じように語りかける。

「『伊舎那……。俺は父さんのようにはなれなかった。もし剣が使えていたなら、浄化してやる事も出来たんだろうに……。でも、それは叶わない思いと理解したよ。だからこそ、今ここで感情に流されず選ばなくてはいけない』」
「『楼夷(るい)……』」

 真剣な表情で言葉をかわす楼夷亘羅。その意味を伊舎那は理解できないでいた。しかし、何か理由があるのだろう。そうした心中を察して、そっと聞き入れる。

「『もっと早く決断していれば、伊舎那を悲しませる事もなかったと思う。結局のところ、長引けば周りへ危険が及ぶと知っていながらも、答えを出せずにいた。なんで俺はこんなにも情けなく、臆病な奴だろうって心底思うよ……』」
「『――そんな事ないわ! 皆のためを思い、必死になりながら戦ってくれた。私が火傷を負った時だって、折れかけた心を救ってくれたじゃない! 楼夷(るい)は臆病者じゃないよ。勇敢で心優しい、誰よりも大切な存在……』」

 楼夷亘羅はゆっくりとした口調で呟き、今にも猛火を解き放ちそうな海龍鬼をぼんやり眺める。そうした悲観的な様子を励ますべく、伊舎那は心の想いを少しだけ話す。

「『それにしても、なぜ今頃そんな事をいうの? もしかして、一矢報いる覚悟で挑むんじゃないんでしょ! 私の元へ、必ず戻ってきてくれるんだよね!』」
「『あぁ、大丈夫だよ! 皆を守れない負け戦なんて、これっぽっちも考えてないから。だけど…………』」

 思い悩む様子で、内に秘めた想いを口にしようとする楼夷亘羅。話せば気持ちが揺らぐとでも思ったのか? 話しかけた言葉を呑み込み、口を(つぐ)む素振りを見せる。

「『だけど……?』」
「『いやいい、もう決めたこと。俺のことは気にせず、気力の回復に努めて欲しい。それに……』」

 楼夷亘羅は伊舎那の顔を見つめ、何か言葉を発しようとした瞬間――。

「『グゴォッ――ッ!!』」

 どうやら、硬直していた肉体の呪縛が解けたらしい。海龍鬼が揺れ動くたびに海面は荒れ、波へと伝わる波動が渡し船を覆う。

「『――こうしちゃいられない!! 僕はそろそろ結界を張る準備を始めますね!』」
「『すまない、吒枳。――じゃぁ、俺も龍鬼へ蹴りをつけに行ってくるよ!』」

 仲間達と少しばかり言葉を交わす楼夷亘羅。ほどなくして、海龍鬼を見つめながら船首へ向かい歩く。そして、おもむろに上端(うわば)へ片足をのせた。

「『気を付けてね、楼夷(るい)。絶対に戻って来てよ!』」
「『あぁ、約束するよ。じゃぁ、行ってくるね』

 楼夷亘羅は片足を軽く蹴り上げ、真言を素早く唱える。

「『――天翔天舞(てんしょうてんぶ)!!』」

 すると――、身体はふわりと舞い上がり、風に身を任せゆっくり浮上する。

「『伊舎那……。頂点を極めた暁には、必ずこの想い伝えたい……。それまでは、何があろうが君の前から消えたりなんかしないよ』」

 天へと舞いゆく楼夷亘羅は、少し振り返りながら心の想いを囁いた……。