浄瑠璃大陸まで残り半分となり、何かの状況に安心する船頭。先程と違い、櫂を軽く持ちゆるりとした様子で船を漕ぎ始める。それから少しばかりの間、のどかに流れゆく情景を楽しむ3人。心地よい風と共に、吹き抜ける潮の香りを堪能していた……。

 その過ぎゆく安らぎも、僅かなひと時――。

 突然!! 海面が大きく揺れ動き、激しい波しぶきが4人を覆う。そうした思い掛けない出来事に、悪天候かと周りを見渡す。ところが、目の前を眺めるも天上は雲一つない晴天の空。全くもって状況が見えない3人は、不可解な面持ちで船頭を見つめる。

 どうしたのか? 言葉を失う無言の船頭。安堵の顔つきから笑みが消え、様子がおかしい。その表情は曇り空のように虚ろい翳が射す。それが何か知っているかのように……。

 次第に波は荒れ狂い海面が渦を巻き、そこから1体の大きな龍が現れた。その怪物は海水と共にゆっくり上空へ登り、空から大量の飛沫を降り注がせる。けれど、空中は飛べないのであろう? 巨躯の一部、尾ひれを海面へ付けたまま一定の状態で静止する。



「『グゴォッ――ッ!! ォォォッッ……』」

「「『なっ、なにあれは……?』」」

 陽の光を遮り、天上を覆いつくす龍。辺りは少しばかり薄暗くなるも、徐々に海面は落ち着きを見せる。その余りにも巨大な風貌、そして不気味な雰囲気に愕然とする伊舎那(いざな)吒枳(たき)

「『海龍鬼…………』」

 一瞬の出来事に、船頭は唖然とした表情で海獣の名を呟く。

 その禍々しい龍とは……。

 それは須弥山一帯の海を支配する化物。屍に邪気を取り込み、龍が変貌を遂げた成れの果ての姿。感情や意識と呼べるものなど何もなく、目は赤く染まり動く者に反応して襲ってくるという。

「『――ちっ! あともう少しという時に、こんな足場の悪いところじゃ戦いようが無い。仕方ないが引き返すか?』」

 渡し船を迂回させ、逃げようとする船頭。しかし、海龍鬼はとぐろを巻くように、船の周囲を並はずれた巨躯が覆う。

「『――くっ! なんてこった、これじゃぁ逃げ場がねぇ。どうしたものか……?』」

 慌てた様子の船頭は、海龍鬼を見上げ思い悩む。鬼気迫る様子に、すぐさま独鈷杵(とっこしょ)金剛鈴(こんごうれい)を手に持ち応戦しようとする伊舎那と吒枳。

 ところが、片足を軸に立ち上がろうとするが、海龍鬼は暴れまわり海は荒々しく揺れ動く。そのため、足場は悪く思うように立ち上がる事が出来ない。

「『仕方ない……。儂が囮になるから、その間にお前達は逃げるんだ!』」

 3人へ思いを伝えると、海面から七尺(2メートル)もの櫂を軽々引き上げる。そして肩に据え置き、掌で櫂を強く握りしめた。

 天上から照りつける日の光、仁王立ちする船頭の姿を優しく包み込む。その堂々とした出で立ちに、後方で座っていた3人は思わず呟く。

「「「『まるで……。大剣を担ぐ戦士のよう……』」」」

 そうした屈強な風貌の船頭でも勝ち目はないのか? 憂い悲しむ様子で遠くの空を見つめ想い馳せる。

「『すまんな、跋闍羅(ばじゃら)。儂はお前を探して救ってやる事は出来なかった。ここで、お別れだ……』」

 掌を軽く握りしめ、誰かの名前を呟く船頭。船首から身を乗り出し海へ飛び込もうとした――その瞬間!! 肩に手を触れ制止する楼夷亘羅(るいこうら)

「『――おっちゃん! なに悲しそうな顔してんだよ? 代わりに俺が海龍鬼と戦ってやるから、心配する事ないぞ!』」 
「『何を言っている、海の覇者だぞ! あいつにゃ誰も勝てやしねぇ。それよりも、どうして海龍鬼の名を……?』」

「『――んっ? 確か……。その名は、幼い頃に父さんが言っていたような気がする。戦い方も、その時に教わったんだ……』」

 微笑みを浮かべ船頭へ話す楼夷亘羅。その表情はどこか寂しそうに哀愁を漂わせる。

「『いや、しかし! それは幼い頃だろ!』」
「『いいから、大丈夫。任せといて!』」

 船頭の言葉など気にする事なく、渡し船の船首へ向かう楼夷亘羅。

「『――おっ、おい! 兄ちゃん、何をするんだ。海龍鬼に言葉は通じねえぞ! 危険だから辞めろ!!』」
「『うん、知ってるよ。じゃぁ、尚更3人には待っていて欲しいな!』」

 少し振り返り、想いを伝える楼夷亘羅。両手を少し広げ、船首の船体を軽く蹴り上げ詠唱を行う。

「『風よ! 俺の声に応え、力を貸してくれ!! ――天翔天舞(てんしょうてんぶ)!!』」



 詠唱と共に身体は雲の如く浮き上がり、空中を悠々と自在に舞う。その姿は1人のためか? 伊舎那と吒枳を抱えていた時と比べ、はるかに上回る動き。海龍鬼と少しばかり距離を保ちながら、時計回りに様子を窺う楼夷亘羅。

「『グゴォッ――ッ!!』」

 周囲を漂う楼夷亘羅が小賢しいのか? 雄たけびをあげ、態勢を変えつつ波動を溜め込む海龍鬼。すぐさま小さな炎弾を1発解き放つ。

「『――ふっ、威嚇のつもりか? その程度じゃ、俺は倒せないぜ!』」

 掌を軽く握りしめ、余裕を見せる楼夷亘羅。法具である三鈷杵(さんこしょ)を使うまでもなく、己の拳で応戦しようと試みた。その様子を心配そうに見上げる3人は、祈る想いで緊迫した状況を見守る。

 やがて1つの炎弾は、燃え盛りながら眼前に迫りこようとしていた。その瞬間も慌てる事なく身構え、瞬刻の動作で溜めに入る。――と同時に、轟く声に合わせて波動を打ち付けた!!

「『――拳撃衝波!!』」



 あわや接触寸前であった炎弾。紙一重の状態で打ち付け、相殺させる楼夷亘羅。響き渡る振動は、落ち着きを見せていた海面を荒波のように揺らめかせる。その周辺一帯の情景から分かる通り、衝撃波の威力は凄まじいものであった……。